27.3 嘉納治五郎の後半生 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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「正しく実行すれば、夢はかなう」をモットーに東洋易学、四柱推命(神機推命)、風水などの秘伝を公開し、自分の夢を実現するとか、悩みの解消に役立つ運命好転化技法を紹介します。

27.3 嘉納治五郎の後半生

嘉納治五郎は講道館の指導係を務めつつ、東京の学習院で教職にも就いていました。

明治22年(1889年)、29歳になると西洋の教育事業視察のために、欧州に派遣されます。そして、ヨーロッパへ向かう船上で、柔道の形や技を外国人たちの前で披露したのです。
彼らは、小柄な治五郎が大柄な者をさらりと投げる様子に驚き、柔道に興味を持ったといいます。

話は少し本題からずれますが、イギリスの小説家コナン・ドイルの創作した名探偵シャーロック・ホームズについてです。
ホームズは世界の推理小説の中で最も著名な探偵ですが、1894年発表の『最後の事件』(作中時期は1891年)で、宿敵のモリアティ教授とスイスのライヘンバッハの滝で揉み合いになった末、2人とも滝壺に落ち死亡したことになっていました。

しかし、続編の希望が多く1903年発表の『空き家の冒険』(作中時期は1894年)で、ホームズはバリツで死地を切り抜けたことが言及されることになります。
ホームズ曰く、「われわれは滝の崖っぷちで取っ組み合ったままよろめいた。だがぼくは-これまでにも何度か役に立ったが-日本の格闘技であるバリツの心得があったので、相手の腕をさっとすり抜けた・・・」
 
この作中の「バリツ」とは何でしょうか。
注釈によれば、E・W・バートン-ライトが名づけたバーティズ(Barititsu)のことで、彼の名Bartonから採っているとのこと。
日本の柔術の方法を、ヨーロッパ人の服装と必要に応じて取り入れたものです。
ホームズは、この日本の格闘技を1891年には心得ていたそうです。
ホームズものを「聖典」とし、論理的に探るシャーロキアンらしい考証です。

しかし、実際のところ、1900年に渡英した天神真楊流の柔道家の谷幸雄が自身の活動をする傍ら、ライトの考案した「バリツ」が新聞などで取り上げられ、コナン・ドイルもそれを目にし「バリツ」として扱ったのが真相のようです。

この説が有効なようですが、時系列で見ると「バリツ」の言及された『空き家の冒険』の発表の1903年にはこの説は間に合いますが、実際に作中時期に使用された、『最後の事件』(作中時期1891年)には間に合いません。
もう一つの説、嘉納治五郎は1989年から1991年にかけてヨーロッパに派遣され、視察を行なった際にシャーロック・ホームズ(コナンドイル)との接触があり柔道(柔術)「バリツ」を教えたというものです。これでしたら時系列的な矛盾はありません。

いささか話が脱線しましたが、当時は柔道だけでなく、天真真楊流などの柔術各派も海外への普及活動を行っていたようです。

この時期イギリスのみならずフランスにおいても柔道(柔術)は急速に普及していきます。
1905年、日露戦争における日本の勝利は、世界中を驚倒させました。日本兵はジュウジュツを使いこなすから強い・・・。
ジュウジュツは爆発的なブームを呼びました。同年、パリにシャンゼリゼ柔術クラブが誕生し、警察が柔術を逮捕術に取り入れ、兵学校でも柔術を学ぶようになったそうです。

また、治五郎の弟子たちも日本を飛び出して世界中で柔道の実演を披露したことにより、海外に伝わっていきます。

1902年(明治35年)柔道四天王の一人、山下義韶は、アメリカシアトルに渡米、演武や講話を通じて柔道の普及に尽力します。
1905年(明治38年)3月29日、ワシントンD.C.で、ジョージ・グランドという体格ではるかに上回るレスラー(身長200cm、体重160kg)と試合をし、抑え込みで勝利した。これを見ていたセオドア・ルーズベルト大統領に認められ2年契約で合衆国海軍兵学校の教官となります。

そして伝説の柔道家、前田光世もその一人です。
1904年に柔道使節の一員として渡米します。滞在費稼ぎと柔道普及のためにアメリカ中でボクサーやプロレスラー、拳法家など様々な格闘家と異種格闘技戦を行います。その後、イギリス、ベルギー、キューバ、メキシコで転戦し無敗でした。

1915年には、ブラジルで「アマゾン一の勇者」を決める大会に飛び入り参加して優勝します。そのころから前田はブラジルの地に魅力を感じ定住するようになります。そしてこの地でグレーシーの一族に柔術をもたらしたのです。

講道館柔道が、海外でも知られるようになると、来日する各国の大使、公使、軍人、教授らは、講道館柔道を見学するようになり、入門する外国人も現れます。
さらに講道館柔道のすばらしさに惹かれたアメリカやインド、中国、フランス、カナダといった国の人々も講道館の門を叩きました。
講道館で修行を積んだ門下生達が、母国に帰ってからも、柔道に取り組み続けたことによって、世界中で普及していったのです。


「晩年の嘉納治五郎」国立国会図書館:近代日本の肖像より引用

 

話を治五郎に戻します。
1891年(明治24年)、30歳の治五郎は、文部省から熊本にある第五高等中学校の校長を務めるようにと命じられます。

そんなとき、知人の紹介を通じて漢学者の竹添信一郎の娘「須磨子」と出会います。
こうして二人は交際を始めて、ほどなく結婚に至りました。
二人は三男五女に恵まれます。

そして、熊本第五高等中学校の校長となった治五郎は、教育に柔道を取り入れました。校長官舎にあった物置を道場にして、学生に柔道の指導をします。この活動により、熊本を起点に九州で柔道が広まりを見せたと言われます。

東京に戻った治五郎を待っていたのは多忙な日々です。
そして1893年(明治26年)に治五郎が32歳になると高等師範学校(現筑波大学)の校長に就任します。

30代から50代に至まで治五郎は教育の現場で多くの学生を育てつつ、教育改革を実施します。軍隊的な学生寮の規則を改正して学生に自由な気風を与えるとともに,スポーツを課外活動に導入するとか留学生の受け入れなど、当時においては画期的な教育改革を行いました。
また、高等女学校の各府県設置やローマ字教育の推進にも力を尽くします。
こうして嘉納は、日本の学校教育の充実、体育・スポーツの発展に思う存分取り組んだのでした。

1909年(明治41年)には、アジアで初の国際オリンピック委員会委員になり、アジアや日本のオリンピック・ムーブメントの推進に貢献しました。1912年(大正元年)のストックホルム大会に51歳の嘉納は団長として金栗四三(マラソン)と三島弥彦(短距離走)を連れて参加しました。
それ以来、日本はオリンピックを通して、世界の人々とスポーツや文化の交流を行うことになったのは、皆さんご存知の通りです。





[ストックホルム大会 入場式の模様]日本オリンピック委員会HPより引用

1932年(昭和7年)71歳の時、IOC総会にて東京開催(1940)の決定に尽力を尽くします。

1938年(昭和13年)ギリシャ,アメリカを経てバンクーバーから帰国途上の船中において,肺炎のため死去します。享年77歳。

嘉納治五郎の生涯は如何でしたか。
教育者として、柔道家として二足の草鞋を履きながら、今までになかった新しい道を切り拓いた見事な人生だったのではないでしょうか。

最後に嘉納治五郎の名言を再掲します。

精力善用:柔道修行の目的は、練習によって身体精神を鍛錬し、
これによって世のため人のために役立つことである」