22.1 立石一真の名言『最もよくひとを幸福にするひとが、最もよく幸福になる』 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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「正しく実行すれば、夢はかなう」をモットーに東洋易学、四柱推命(神機推命)、風水などの秘伝を公開し、自分の夢を実現するとか、悩みの解消に役立つ運命好転化技法を紹介します。

立石一真の名言

『最もよくひとを幸福にするひとが、 最もよく幸福になる』

これは立石電機(オムロン)創業者の立石一真(かずま)の名言です。
彼は続けて次のように述べています。
「-これが人生七十余年に及ぶ、人生を振り返って得た結論であり、
同時に私の信条信念である」

立石はこうも言っています。
「人間は誰でも幸福になる権利があります。しかし、人を押しのけたり、足を引っ張たりして自分だけ幸福になろうとしても、決して幸福にはなれない。親は子を、子は親を幸福にする。夫は妻を、妻は夫を幸福にする。
兄弟姉妹を幸福にする。それから友人を、同僚を幸福にしていくと、
いつのまにか幸福な人たちの中にいる自分も幸福になっているのです」

これは人が幸福になる大原則です。立石は自分の体験から得たこの原則を平易に述べてくれています。説明の必要もないですね。


  [立石一真の色紙]

 

オムロンといえば、日本を代表するリレーやマイクロスイッチといった産業用制御機器、電子部品メーカです。私たちの目につく商品としては、駅の自動改札機、また血圧計や体重計といったヘルスケア製品
を製造販売しています。最近はESGを重視する経営に取り組んでいます。
(ESGとは、環境(E)、社会性(S)、企業統治(G)の頭文字です)

立石一真は熊本から単身京都に進出し、この立石電機を一代で築いたベンチャー企業の技術社長です。今までなかった新しい部品を開発するなど深い技術力と鋭い技術者の感性を備えていました。
同時に身体障害者の雇用など社会事業への広い視野を持ち、芸術や芸能にも深い造詣を有していたといいますから、そのDNAは今のオムロンにもしっかりと受け継がれているのでしょう。




 [立石一真]

 

今や日本を代表する名経営者の一人、日本電産の永守重信会長も創業期に立石から薫陶を受け、大いに励まされたといいます。

では、その立石はどのような生立ちでどのような青年時代をすごしたか、振り返ってみましょう。

立石一真の生立ちと青春時代

立石一真は、明治33年(1900年)熊本で伊万里焼盃を製造販売する立石熊助およびエイの長男として生まれました。
幼少の時はそれなりに恵まれた生活でしたが、小学校一年生8歳の時、明治41年に父熊助が亡くなるとともに家業は衰退しました。
母は下宿屋を開業します。幼い一真も家を助け新聞配達を始めたといいます。
この時の貧しさ、辛さ、労働の厳しさと働くことの大切さの体験が一真の原点になったようです。
また、小、中学校時代の一真はきかん気のやんちゃ坊主で、「よく遊び、またよく遊んだ」ともいいます。

そして、旧制熊本中学校(現・熊本県立熊本高等学校)を経て、大正10年(1921年)熊本高等工業学校電気科(現:熊本大学工学部)卒業しています。
同年兵庫県庁に電機技師として奉職、社会人の第一歩を踏み出しました。
しかし、長期出張中の芸者遊び等の豪遊が問題視され、わずか1年4ヶ月で辞めることに
なります。肥後もっこすは女性遊びも派手だったようです。

大正11年10月、学友の紹介で(株)井上電機製作所に入社します。そしてアメリカで開発された“誘導形保護継電器”の国産化開発に取り組みます。このとき身につけた技術が後に、立石電機創業の基礎となるのです。

そして、昭和5年(1931年)世界大恐慌で不況風が吹き荒れる中、井上電機を希望退職します。一真31歳の時のことです。
個人で実用新案をもっていた「ズボンプレス」をもとに、京都市に「彩光社」を設立します。京都だけでは売れ行きがしれていると、自転車で遠く大阪まで飛び込みで訪問販売してまわったといいます。

昭和7(1932年)、苦しい商いのなかで、夏のある夜、何かいい仕事はないものかと東山五条に住む、島津製作所に勤めていた同級生を訪ねます。
「私の話を聞いた途端にレントゲン撮影用のタイマーの優秀なもの─20分の1秒の撮影のできるタイマーができたらきっと売れると耳よりな話をしてくれた。当時のタイマーはゼンマイ式で20分の1秒という瞬間撮影ができず、胸部撮影のときなど、心臓の鼓動で動くのでぼけてしまい鮮明な写真がとれずに困っていた。
 私には「これはいける」とピーンときた。というのは井上電機時代に没頭した誘導形継電器を少し工夫するだけで20分の1秒程度のタイマーができるはずだと、ひらめくものがあった」
と当時のことを立石は語っています。

さっそく開発に取りかかり試作品のレントゲンタイマーを完成させた一真は、運よく友達の紹介により大阪の日生病院でプレゼンの機会を得ます。
病院のレントゲン装置に試作品をつないで行った写真撮影の実地試験は一発で成功し、その場で納品が決定します。島津製作所をはじめ専門メーカーが取り組んでも作れなかった高性能なレントゲンタイマーの開発に成功したのです。

さらに、病院の物理療法内科部長の西岡博士が、大日本レントゲン製作所の社長を紹介してくれました。同社のレントゲンに立石のタイマーを取り付けてくれることになります。こうして安定した収益が見込める道筋が立ちました。

京都では何かと不便と、大阪の大日本レントゲン製作所の近くに木造四軒長屋の一戸を借り、妻と生まれたばかりの長男、そしてわずか2人の従業員とともに移住します。
昭和8年(1933年)5月10日、一真33歳。この日が「立石電機製作所」の創業記念日となるのです。

こうして、青年時代の一真を振り返ってみますと、何人かの友人に救われて人生の窮地を脱することができたようです。まさに持つべきものは友人ですね。

立石一真の命式を掲載しておきます。
 

次回はこの命式を読み解き、一真の後半生を眺めてみたいと思います。