ベンジャミン・フランクリンの命式を読み解く | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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「正しく実行すれば、夢はかなう」をモットーに東洋易学、四柱推命(神機推命)、風水などの秘伝を公開し、自分の夢を実現するとか、悩みの解消に役立つ運命好転化技法を紹介します。

フランクリンの命式を読み解く

それでは、ベンジャミンフランクリンの命式を読み解いてみましょう。
彼は、1706年1月6日(J)にイギリス植民地時代の北米、ボストンで
生まれています。
時差を考慮して、干支を導きますと、
年柱が、乙酉
月柱が、己丑
日柱が、甲午 となります。

生日が節入り日から少し浅いので、蔵干は中気を採ります。
命式表を参照ください。


月令は旺相で、やや身旺の人と判断します。

五行を集計します。
日干 甲を含む木気が2、火気が1、土気が2、金気が1、水気が0となります。

この人は甲(きのえ)日の冬月生まれですから水気はそれほど
必要としません。

自らを鍛え、律する金気を適度に備えていますので、何事も積極的に取り組む性格で、人の上に立つリーダーの才能を有しているといえます。
顔だちも良く上品で、人から好かれる、頼りにされる徳望をも備えているといえそうです。

日主の木気を育て養う土気も多いので、財運があり長寿の相と看ることができます。
朴訥な人柄ですが、大器になる素質を持っていますので、本人の自覚と努力、よい人生の教師や同僚に恵まれれば才能を伸ばし、大きな花を咲かすことは十二分に可能であるといえましょう。

通変星を見ると、月柱に正財-正官が並ぶ財官双美のこの上なく好命な組み合わせの持ち主です。
何事も計画的で、しっかりと自分自身を管理することができます。
目標に向かい一段づつ階段を上るようにコツコツと努力し、多くの場合その目標を完遂することができる強い意志と運を持っています。

非常に綺麗な命式で他人事ながら見ていて見とれるほど美しいです。
年柱の劫泉は、両親の財力や地位、兄弟が自分のために力になるかといったことを含めて、家庭の環境としては恵まれているとは必ずしもいえないことを表しますが、そのような環境にめげずに独立独歩で歩んでいく援けになる星でもあります。

難をいえば、日柱の蔵干から導かれる正財が、月柱の天干から導かれる正財と重なることでしょうか。正財は男命にとって妻を表します。二つの正財は結婚が一度で収まらない暗示があります。最終的には良き伴侶に巡り合って晩年まで仲睦まじく暮らすとしても、この人の青春から中年時代は女性関係で一波乱、二波乱ありそうです。

ここでは深くは述べませんが、一生の運気の吉凶を判断する
大運表を看ますと、24歳ころまでは北方水運を巡り、自身を大きく
伸ばすための学習にはげむ時期で、この時期の勉学や人との巡り合いで多くを学ぶことが出来れば、次の時代に飛躍することが可能となりそうです。

34歳から54歳の30年間は西方金運を巡ります。この人はそれでなくても命式に官星を持っているのに重ねて官運に巡り、ひたすら仕事をこなす、とにかく忙しい毎日をすごすことになりそうです。
35歳から44歳の十年間は親族や親しい友人との間の人間関係のゴタゴタで気苦労が絶えません。しかしながら、清濁併せ持つ器量でこの波乱万丈の時代を乗り越えることができそうです。
仕事関係は何を行ってもうまくこなし、大きな功績を上げるでしょう。

55歳からは南方火運を迎えます。今までの苦労が報われ、多くの人から称賛や栄誉を与えられる至福の時代を過ごしそうです。
決して華やかで、弁舌さわやかにとはいきませんが、自分の謙虚な
性格と同じように、交渉事でも相手とのウインーウインの関係を模索し
相手に信頼感を与えることができます。最終的に大きな成果を得ることにつながりそうです。

以上、ベンジャミン・フランクリンの命式を読み解きました。

フランクリンの後半生

それでは、20歳以降のベンの人生を振り返ってみましょう。

フランクリンが生きた18世紀、新大陸の植民地はイギリスの支配下に
置かれていました。

フランクリンの青春時代から30代に当たる1720年から40年の頃、
旧大陸のヨーロッパでは神聖ローマ帝国が衰微し始めた時です。
そしてフランスを中心に新しい思想が展開を始めます。
このフランスはルイ15世の後見人フリューリーが政権を握り、サロン全盛時代を迎えます。やがて、モンテスキュー、ルソーなどによりフランス啓蒙思想が発展していきます。

イギリス(グレートブリテン)王国では、ウォルボール内閣が発足します。着々と軍事、経済の力を蓄えていくと共に、海外に植民地を増やします。そこに、知事や判事を送りこみました。そして、砂糖などに関税を課し、イギリスに大きな利益をもたらします。
1732年には北米の植民地は13州となります。

植民地の人々は不公平な税金や不利な通商条例に不満を高めていました。

話をフランクリンに戻します。活動拠点のペンシルベニアで、ベンは22、3歳のころより会社の業績を順調に伸ばしていきます。

1731年、フィラデルフィアにアメリカ初の公共図書館を設立します。
    これも彼の発明といってもよいアイデアの一つで、本の
    貸し出し式図書館は大成功を収めます。
1737年、31歳の時にフィラデルフィアで郵便局長に就任しています。   1740年には暖房用の薪ストーブ、いわゆる「フランクリンストーブ」
を発明します。

 

 


 [フランクリン式ストーブ]

 

当時の家庭用暖房は壁炉の火で,室内を充分に暖めることができ
きませんした。
そこでフランクリンは鉄製のストーブを室内に備え付けることを
考えついたのです。暖かくて効率的でしたのでこのストーブは
瞬く間に広がりました。
人々はストーブの特許を取るように勧めましたが、自分も他人の
発明の恩恵を受けているのだから、他の人も自由に使うことが
できるようにと言って特許を取りませんでした。

彼の発明に対する情熱は年をとっても衰えず、上半分が近視用、下半分が遠視用の遠近両用メガネもフランクリンが晩年に発明しています。

1743年、37歳でアメリカ学術協会を設立しました。    
1748年、42歳の時に、『貧しいリチャードの暦』の売り上げで裕福になったフランクリンは印刷事業から身を引きます。公職には就きますが、
フィラデルフィアの郊外に引き籠もり、科学の研究に打ち込みました。

そして、彼を世界的に有名にしたのは電気についての研究でしょう。

今でも怖いものの代表として、地震・雷・火事・親父をあげますが、
18世紀以前の時代、雷(稲妻)は神の個人に対する罰であり、
特定の人をその罰のために殺すのだと信じる人が多くいました。

フランクリンは「稲妻は自然の法則に従う自然の力である」
と考えました。そして稲妻の正体は電気であると推測し、このことを
証明しようとしました。

彼は尖った物体は電気の火花を引き寄せるらしいことを
知っていました。だから,もし雷雲が電気を含んでいるのなら,
雷雲を放電させるには,長く尖った物体をできるだけ雲の近くまで上
げればいいと考えました。



    [フランクリンの実験風景]

 

こうして、フランクリンは雷雨の日に、尖った棒を取り付けた凧を上げるという有名な実験を行いました。
稲妻の力をライデン瓶(蓄電器)に接触させて充電させ、地上の電気と全く同じものであることを証明しました。

彼の実験のニュースがヨーロッパに伝わると大評判になり、
科学者や学者が実験を繰り返し、命を落とす者も多くいましたが、
彼が正しいことが証明されました。
彼はこの実験と同じ年の1752年にロンドンの王立学士院の会員に選ばれました。

その後、雷の災害を防ぐ「避雷針」(lightning rod )も発明
しています。


政治家としての活躍

文筆家、啓蒙家、そして物理学者、発明家として有名になりました。
フランクリンは建国前のアメリカの政治家、外交官としての活躍もすばらしいものがあります。

1740年から60年代、イギリス(大ブリテン)王国は、ジョージ2世の御世で、フランスは太陽王ルイ14世の後を継いだ曽孫のルイ15世の時代です。ルイ14世の時代からイギリスとフランスはことあるごとに戦火を
交えてきましたが、ルイ15世の治世でも両国は正面切って対決することになります。
この時代は、イスパニア・ポルトガルの衰退、フランス絶対王権の傾斜とプロシアの台頭、イギリス王国の国力増強の時代といえるでしょう。

1740年に神聖ローマ帝国の継承権をめぐってオーストリア継承戦争
(1740~48)が起きます。イギリスはオーストリアと組み、フランス
がスペインと手を組み、英仏両国はヨーロッパ内に止まらず、インドや
北米でも戦争に発展します。

この時期は、合従連衡で各国は目まぐるしく同盟相手を変えていきます。

当時フランスはアメリカ植民地北方のカナダと,西方のミシシッピ川
流域全部を支配していました。さらにインディアンと友好関係を結び
領地を広げようとしていました。

イギリス政府は1754年6月に「オルバニー会議」と呼ばれる会議を開き、植民地の代表とフランスに対抗するインディアン、イロコイ族の代表を集めて意見を聞きました。

フランクリンは、英国王に任命された長官のもとに,全植民地が連合し大議会を作り、そこに各植民地全部の代表を送ることを提案しました。アメリカ連邦計画です。この時フランクリンは48歳です。
植民地を代表する政治家として、活躍を始めるわけですが、その構想は雄大で非凡なものでした。

しかし、英国政府はそれでは植民地大議会の権限が強すぎると思ったので、その計画を却下しました。


連合計画が失敗したフランクリンは、フランスへの対抗策を計るためイギリスへいきます。彼は母国イギリスでも有名になっていました。

彼は有力者達に会い、植民地がイギリス軍とともに断固フランスと闘うことを主張してまわります。
この時期は、合従連衡で各国は目まぐるしく同盟相手を変えていきます。

そして、1756年に新興国プロイセンがザクセンに侵攻し、七年戦争が始まります。

当初アメリカでの戦争を優位にすすめていたフランスですが、1757年
ウイイアム・ピット首相のもと、イギリスは本格的にフランスと戦争を開始します。この時も西インド諸島、インド、アメリカ大陸で英仏両軍は
激しい戦闘を繰り返します。
フランス軍は弱くはなかったのですが、結局この戦争にも勝つことができませんでした。十分に軍隊を動かす前提となる国力、経済力にイギリスが勝っていたことが要因のようです。

そして、アメリカからフランスを追い払うことに成功します。
1763年にフランスと平和条約(パリ条約)が調印されます。
最終的にフランスはカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを
イギリスに、ミシイッピ川以西のルイジアナはイスパニアに割譲する
こととなりました。
七年戦争の結果、フランスはほとんど北米から撤退することと
なってしまいました。この時、フランクリンは57歳になっていました。

しかし、イギリスと植民地の間に新たな問題が発生します。
対フランス戦に多額の費用を使った英国が、戦費を回収するため、
1765年に植民地に対し印紙条例を公布しました。
法的書類や新聞の発行にすべて印紙が必要になり、その代金は英政府の収入になるのです。

この時、各植民地が協力して印紙を買うことを拒否し、英国商品を買わないようにしました。

植民地の待遇改善を要求するためにイギリスに派遣されたフランクリンは英国議会においてこの問題を論じ、1766年に印紙条例は廃止されました。その後も英国政府は植民地に対していろいろな課税を要求してきますが、フランクリンは巧妙にこれらをかわしたので、1773年にはついに茶税以外の税金は取り消されました。

1773年、茶税にも反対する植民地の一派がイギリス船の積み込んだ茶を海中に投げ込むいわゆる「ボストン茶会事件」をおこしました。

これによってイギリスの堪忍袋の緒が切れ、ボストンに戒厳令を敷き、イギリス兵を送り込む準備をします。

戦争が避けられなくなり、フランクリンはイギリスを去り戻ってきます。

本国の攻撃に対して、植民地の指導者達は団結の必要性を感じました。
20年前にフランクリンはフランス人に対抗する植民地連合を提案しましたが、こんどはイギリス本国に対して連合が必要になったのでした。

1774年、植民地の代表がフィラデルフィアに集まりました。
これが第一回大陸会議で、植民地の立場を説明する国王への
請願書を起草しました。

しかしジョージ3世は譲歩せず、1775年にマサチューセッツのレキシントンとコンコードで初めて戦闘が行なわれました。
1775年第二回大陸会議で、フランクリンは初代郵政長官に任命されます。69歳の時のことです。

銃声の中で、独立を求める声が次第に強くなっていきました。
1776年6月10日に大陸会議でトマス・ジェファーソン、ジョン・アダムズ、
ベンジャミン・フランクリンなど独立宣言を起草する5名の委員が任命されました。




 [アメリカ独立戦争当時の地図]

 

独立宣言は7月4日に採決されました。
アメリカ人が敗けたら署名した人々は反逆罪で処刑されますが、
多くの人々が署名しました。

ベンは独立戦争中は、パリのパッシーに一時滞在しました。
パリの社交界を中心に活動しセレブ女性の人気を博します。といっても遊んでいたわけではありません。
フランクリンはこの時70歳という高齢でしたが、欧州諸国との外交交渉に奔走します。
独立戦争へのフランス王国の協力・参戦と、他の諸国の中立を成功させます。

アメリカ、フランスの連合軍はイギリスを破り、1783年にイギリスとの
平和条約締結に至るのです。
アメリカ独立におけるフランクリンの功績は誠に大きいものがありました。この時フランクリンは77歳になっています。

1789年4月30日にジョージ・ワシントンが初代大統領に就任しました。
フランクリンは83才を超えていましたが、35年前にオルバニー
会議で提案した植民地連合案が実現するのを見ることができました。

1790年4月17日 フィラデルフィアで、84歳で死去します。
葬儀は国葬でおこなわれました。

ベンジャミン・フランクリンの生涯は如何でしたか?
アメリカ建国時代に、マルチタレントとして自分に与えられた職責を
見事にこなし、多くの分野で多彩な功績を残しました。

彼の人生は、普通の人と異なり一般に云われる推命の命理を超える
超人的な活躍をした一生だったといえましょう。
素晴らしい才能に恵まれ、努力を惜しまず、なおかつ自分を捨てて他人を利する行動をしたことで、多くの人の惜しみない協力を得ることができたからこそ成し遂げられたのだと思います。
これは人生を良く生きるの極意でもあります。

最後にフランクリンの名言をもう一度、掲げます。
「人生の幸福は、めったにない素晴らしい幸運よりも、日々のちょっとした便宜から生まれる」

 

 

以上、ベンジャミン・フランクリンの命式を読み解き、後半生を振り返りました。