フランクリンの名言「幸福は些細な便宜から生まれる」 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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フランクリンの名言
 
ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)は、アメリカ建国期の
スーパースターです。
実業家として成功し、物理学者、発明家、政治家、外交官そして著述家として数々の功績を残しました。100ドル紙幣の肖像に使われています。今も多くのアメリカ人に敬愛されている人物です。
 
”Time is money.” 「時は金なり」
” Never leave that till tomorrow
  which you can do today.”
  「今日できることを明日に残すな」
 
もフランクリンの名言として良く知られています。
 
 
 

 [ベンジャミン・フランクリン肖像画]
 
冒頭の名言は、彼の著書でロングセラーの『フランクリン自伝』の中に記されています。
直訳すれば、
「人間の幸福というものは、時たまおきる
すばらしい幸運よりも、
いつでもあるような些細な便宜から
生まれるものである」
 
これは、中々含蓄のある言葉です。
例えば宝くじに当選し大金を手に入れる
ような人生にたまにしか起きないラッキーな出来事は、
必ずしもその人を幸福にしないとも読み取れます。
せっかく手に入れたお金が家族間の争いの原因になったり、
お金を得ることで性格や言動が傲慢になり友人、
知人との人間関係を悪くしたという話はよく聞きます。
 
それよりも、困っている人の手助けをしてあげたとか、
今までうまく出来なかった何かを、自分で工夫してやり方を変えたら
うまくいった、という日々の生活の中でちょこちょこ起きるような
良い出来事が続くことのほうが、幸せを感じることはあります。
 
フランクリンは、そういう小さくても心を満たす幸せが継続して起きるように自分の生き方を方向付けること、そしてその行為を習慣化することを薦めているわけです。
 
ベンジャミン・フランクリンの生い立ちから青春時代まで

それでは、ここでベンジャミン・フランクリンの
生い立ちから青春時代までの事績を振り返ってみましょう。
 
ベンジャミン・フランクリンはまだアメリカがイギリスの植民地時代の1706年に、マサチューセッツ州ボストンで生まれました。
 
父親のジョサイアはイギリス人で、1682年にこの新大陸に
妻と三人の子供と共に移住して来たのです。
彼の妻は1689年に亡くなります。
ジョサイアは再婚して二度目の妻との間に10人の子供を作りました。
先妻の子供と併せて17人の子だくさんで、ベンことベンジャミンは15番目の子でした。
父のジョサイアは蝋燭作りの職人として、それなりに成功していましたが、何しろ子だくさんなので子供たち全員に教育を受けさせることは
できませんでした。
ベンは10歳の時に学校をやめ、家業の手伝いをしました。
 
しかし、蝋燭作りは彼の性に合まず、家を出て船乗りになることを
夢みます。
父はその考えに反対しました。ベンが読書好きだったので、読書が
出来る仕事に就けようと考え、最終的に異母兄のジェイムズが経営
する印刷会社に世話をしました。
ベンが12歳の時です。
兄の印刷会社にいた間、得た収入の多くを本の購入代金にあて、
ベンは貪りように本を読みました。
 
ベンの教師は本の著者で、本当に独学の人
でしたが、ただ本を読むだけでなく、学んだ
内容をよく吟味し自分なりに思索を巡らし、
それを短い論文にまとめたりしています。
 
ところで、ベンと兄のジェイムズの仲は良くありませんでした。
ベンは兄といえど、人から指図されるのが嫌いで、よく喧嘩をしました。
結局、ベンは兄のもとを離れることに決めましたが、ボストンでは職に就くことができませんでした。
兄がボストンの印刷屋がベンを雇わないように手を回したのです。
 
1723年、17歳でベンはフィラデルフィアに移ります。
そこで印刷工の仕事を得ました。
ベンはそこでよく働き、編集者、記者としての頭角も現わし、
当時のフィラデルフィアの知事にも気に入られます。
1724年、18歳のときに知事の勧めで英国ロンドンに渡り、
植字工として働きながらヨーロッパ世界の色々なことを学びます。
 
20歳で帰国後、印刷業を再開します。
ベンは有能で仕事熱心だったので、仕事も増え多くの収入を得る
こともできました。
その後、『ペンシルベニア・ガゼット』紙を買収してアメリカ初のタブロイド誌を発行するのです。
 
余談ですが、ベンはチェスの名手としても有名でした。
あらゆる面で洞察力や観察眼、分析力に優れた人だったようです。
人生や人間関係、経済問題に、面白くて活気のある記事で埋めたので、新聞事業も成功することができたのです。
 
彼は非常にエネルギッシュに多くのことに挑戦しました。
本の売買,出版,印刷所の支店つくり。
若い知識人が集まって時事問題を討論できるクラブの創設。
アメリカ最初の貸し出し図書館の開設
フィラデルフィアでの最初の消防隊の組織化,等です。
 
ベンはセックスに対しても貪欲だったようで、
妻以外の女性に子供を産ませ,妻デボラに育てさせたりしています。
 
またイギリスに滞在中は、奇行で知られ性的乱痴気騒ぎが好き
だったサー・フランシス・ダッシウッドと親密になります。
彼の主催する乱飲乱舞の酒宴に参加しています。
 
そんな自分を戒めるためか、後に彼は自分を道徳的に完成させる
手段として13の徳を考え実践していきますが、その中の
第12項目は以下のような内容です。
12.純潔:性交はもっぱら健康ないし子孫のためにのみ行ない、
   これに耽りて頭脳を鈍らせ、身体を弱め、または自他の平安
   ないし信用を傷つけるべからず。
 
この自戒の言葉を実践し、自らの徳を高めていったところが、ベンの
真骨頂と言っていいかもしれません。
 
また、1730年24歳の時には秘密結社のフリーメイソンに入会しています。この頃配偶者となるとなるデボラ・リード・フランクリンと暮らし始めます。
 
彼の最も成功した事業に、1732年26歳の時から出版し始めた暦があります。毎年新しい版を出し、25年間も続きました。
 
彼の暦は普通の暦と違ってプラスアルファが載っていました。
それは気のきいた面白い記事と、金言が載っていました。
その金言の大部分は倹約と勤勉を説いたものでした。
フランクリンはその暦をリチャード・ソーンダーズという筆名で出版し、
それに『貧しいリチャードの暦』と名付けました。

この暦はベストセラーとなり、人々はそれを争うように購入し、熱心に読みました。
その金言の幾つかをあげると次の通りです。
 
天は自ら助くる者を助く
 
雨だれ石をうがつ
 
失った時は二度と見つからぬ
 
塵も積もれば山となる
 
勤勉は幸運の母である
 
早寝早起きは人を健康,裕福,賢明にする
 
力は勇気あるものに授かる
 
     といった具合です。
 
こうして、『貧しいリチャードの暦』の売り上げで裕福になっていく
ベンジャミン・フランクリンはやがて事業から身を引き、自分が本当に行いたかったまったく新しいことを始めるのですが、それはまだ先の話です。
 
ベンは、自分の努力と才覚で、若くして事業に成功していく
という充実した青春時代を過ごしたと言えそうです。
 
それでは、最後にベンの命式を示します。
 
 
この命式の読解と、ベンの後半生は次回に。