井深大の名言「自由闊達にして愉快なる理想工場の設立」 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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「正しく実行すれば、夢はかなう」をモットーに東洋易学、四柱推命(神機推命)、風水などの秘伝を公開し、自分の夢を実現するとか、悩みの解消に役立つ運命好転化技法を紹介します。

井深大の名言
「真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき
 自由闊達にして愉快なる理想工場の建設
 
1945年10月の太平洋戦争の終戦直後、電子技術者の
井深大氏が37歳の時のことです。
 
「東京通信研究所」(後のソニー)を個人企業として立ち上げました。
場所は、東京日本橋の旧白木屋店内の3階配電盤室です。
資本金19万円、社員20数名の会社です。
 
上記の文章は、彼がその思いを込めて記した『設立趣旨書』の中の一つです。井深氏はこの設立趣旨書に書いてある文章をほぼそのまま社員に向かって熱く話しかけたと伝えられています。
    「設立趣旨書」 SONY HPより転載
 
「自由闊達にして愉快なる理想工場」とは何とも面白い表現です。
井深本人はいたって真面目に推敲を重ねてこの言葉を選んだのでしょうが、聞いていた社員の技術者たちは、この言葉に自分たちの歩む道に、無限の将来と大きな夢を感じたことと思います。
 
この「設立趣旨書」はそのままソニーという会社のDNAとなり井深を中心とした技術者集団の中で育まれ、その後に続く技術者たちに引き継がれていくことになります。
 
国産初のテープレコーダーの開発量産化を皮切りに、
米国で開発されたトランジスタの国内生産に成功
世界初となるトランジスタを使った小型ラジオ
そしてトランジスタテレビの開発
家庭用白黒ビデオ・テープレコーダー開発、量産化
つぎつぎと今までなかった新しい製品開発に心血を注ぎ、世に送り出していきます。
 
 創業当時の井深大 SONY HPより転載
 
日本は科学技術の差でアメリカ負けたのだ。
最先端技術を開発しなければ、日本の再生は無い。
井深は「よそにないものをつくる」の夢に賭けたわけです。
 
こうして新しい技術開発にチャレンジし、ユーザーの生活を豊かにする新商品を造り出し、ソニーは世界的な大企業に成長していくわけです。
 
井深大の幼、青年期
それでは、世界のソニーの創業者の井深大の生い立ちから青年期を
振り返ってみましょう。
 
明治41(1908)年 4月11日
父井深甫(たすく)と母さわの長男として、日光町(現在の日光市)に生まれます。
父は古河鉱業日光製銅所に勤めていた優秀な技師でした。
もともとの祖先は会津藩で家老を勤めた家柄でした。
大が二歳の時、父が病気で亡くなります。

明治43(1910)年、愛知県安城市に住む祖父/井深基 (旧/会津藩士)
 に引き取られます。祖父の会津魂は、井深大の人間形成の基礎を築いたといわれています。
 
会津といえば戊辰戦争で賊軍となり、多くの会津人は塗炭の苦しみを味わいます。
祖父も北海道に移り住み、北海道開拓使の役人となっています。
県令(知事)に重用され、愛知県の県令に転じた時も同行し、
県の商工課長、郡長などを歴任しています。
 
当時としては珍しく大学を卒業していた母と、武士道を貫く基とは
合わなかったようです。
母と共に5歳から8歳まで東京に転居しています。
 
母は日本女子大の付属幼稚園の先生をしながら、井深を育てます。
この二人が暮らした東京目白の家の近所に、小説家の野村胡堂が住んでいました。
あの「銭形平次」の作者です。

胡堂の夫人のハナが母さわの女学校時代の友人でした。
井深親子は野村家と親類同様の交際をし、
何かと世話になりました。
野村胡堂は井深にとって、生涯の恩人といえるでしょう。

後の話になりますが、大はこの胡堂の口添えで見合いをし、
朝日新聞論説委員の前田多門の次女勢喜子と
結婚することになります。
 
話を大の小学校時代に戻します。
大正6年(1917)大2年生の時に安城町へ帰ります。。
母が再婚したため、しばらく祖父母の元に預けられます。
この期間に、祖父から技術者だった父の話しを聞き、
次第に科学技術への興味が芽生えたようです。
 
小学五年生になると、母の嫁ぎ先の神戸市葺合区(現在の中央区)に転居します。
兵庫県立第一神戸中学校(現兵庫県立神戸高等学校)を卒業します。
中学時代は、義務的な受験勉強をしすぎたせいか全く勉強に興味を覚えず、無線にのめり込んでいきます。
 
5年生からは、無線機いじりをやめ、受験のための勉強を始めますが、希望した浦和高校と北海道大学予科には落ちてしまい、第3希望の早稲田大学第一高等学院理科に入学します。その後早稲田大学に進学します。
 
理工学部3年の時、電気工学の弱電を専攻した大は、光通信の実験を行い成功します。
マスコミは「『光電話』の発明」として取り上げ、学生発明家として一躍知られるところとなりました。
実験では、光を自在に変調するネオン管をつくり「走るネオン」と名付けます。
井深は「ケルセルに関する研究成果」の特許申請手続きのため特許庁に出向いています。大はこの特許を取得します。

「光るネオン」は、後のPCL時代に出品してパリ万国博覧会で金賞を獲得するのです。天才技術者の片鱗を早くも発揮したわけです。
 
面白いことに、この内容を見た審査官が、写真化学研究所(PCL)の入社を勧め、自ら連れて行ったいます。ある意味、今では考えられない良い時代でした。
しかし、井深には他に就職したい会社がありました。東京電気(現在の東芝)です。

この時代、昭和4年(1929)の世界大恐慌の余韻を受け、理工系大卒者の就職は容易でないときで、東京電気に落ちてしまいます。
PCLからは、「責任を持たせて、好きにことをやらせるから、早くこい」
といわれています。
井深はPCLへの入社を決めます。
井深大21歳の時のことでした。
 
ソニーの創業者、井深大の青少年時代を振り返ってみました。
幼くして父を失い、祖父母の援けをもらいながら、母と二人転居を繰り返し、決して裕福といえない幼年期をすごします。
井深の青少年時代に、不思議と彼ら親子を助けてくれる何人もの
恩人に出会うのも興味深いできごとです。
そのせいか、井深の幼少年期には、辛苦とか苦難、
生活の苦しさを感じさせない、天性の明るさという
印象を受けます。
その中でも無線機に興味を持って、次第にエレクトロニクスの
技術者としての技能やセンスを身につけていきます。
 
大学入試に本命の学校に受からず第三志望の学校に進んだとか、
就職も昭和大恐慌の時期で、自身の望んだ会社の入社がかなわず、
別の会社に就職するなど、人生の大切な節目節目で、自分の希望通りにならない、うまくいかないことが多い人生です。
 
後の大成功に結び付かないようなエピソードが多い青年時代でした。
最後に井深大の命式表を載せます。
 
 
 
この命式を一目みて、本当に井深さんの命式なのと感じたら、推命に対して人並み以上の見識のある方だと思います。
 
この命式の読解と、後半生は次回に述べます。
次回、お楽しみに!