開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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「正しく実行すれば、夢はかなう」をモットーに東洋易学、四柱推命(神機推命)、風水などの秘伝を公開し、自分の夢を実現するとか、悩みの解消に役立つ運命好転化技法を紹介します。

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心に響く名言 43.4

J・F・ケネディの後半生

大統領への道のり

前回も述べましたようにジョン・F・ケネディは以前から背中の痛みに苦しんでいましたが、1954年37歳の時には松葉づえをつかないと歩けないほど症状が悪化してしまいました。

まだ結婚して間がなかったのですが、背骨をいったん取り除き接合しなおすという命がけの大手術を受けることを決意しました。ジョンは他の病気も患っていたため、複雑で難易度の高い手術となり、1955年にかけて何回も手術を繰り返しました。結局容態の回復に二年間を費やすことになり、その間上院議員としての仕事はできませんでした。

後の大統領就任後も、執務室で長椅子に寝そべり身体を休ますことが多く、この脊椎の後遺症は生涯に渡り彼を苦しめることになります。

この長くつらい病気との戦いと、第二次世界大戦中での苦しい経験があったからこそ、JFKがただの大金持ちの世間知らずの子息で終わらず、歴史に名前を残す仕事をした政治家になったと評する評論家もいます。
若い時の苦しい経験が、その人の考え方や生き方の骨格(基礎)に強い影響を与えるということでしょう。

今回は特別に、JFKの後半生の10年間の年運を公開します。
年運表は命式表、大運表と並んで神機推命法でその人に巡ってくる
運命の波を計測するために使用します。

 



   [表 JFKの後半生の年運表]

 

鑑定する人の日干から年の干支に照らし合わせて通変星と十二運を導き出し、その年の吉凶を判断します。
この年運表だけで全体の吉凶は判断できませんが、それなりの比重は占めます。
また、それぞれの年の始まりは立春(毎年2月4日~5日頃)になります。

さてジョンは仕事に復帰して後、組織犯罪と労働組合の腐敗を追及する「上院マクレラン委員会」の委員とし活動します。
ジョンが29歳で下院議員に立候補し当選してから、実の弟のロバート・ケネディ(RFK)は兄の最も頼りになる相棒であり、知恵袋であり、信頼のおける相談相手でした。
JFKとRFKのコンビは、トラック運転手組合の「チームスター組合」とマフィアとのつながりを明らかにしたことで一躍知名度を上げます。

1958年(JFK41歳の時)の中間選挙では圧倒的な強さで上院議員に再選されます。
外交委員会のメンバーに入り、政治家としての地歩を固めます。

1960年の1月に、JFKは42歳の時に民主党予備選挙に立候補することを表明します。
この時もケネディファミリーの資金面や人脈で強力なバックアップを受けます。
そしてフランク・シナトラやサミー・デイヴィスJr.といった大物歌手や芸能人から選挙協力を得ます。事前の予想に反し、ケネディ候補は各州の予備選で勝利を重ねていきます。

 

 


   [大統領選挙戦のケネディ候補]
 

党の重鎮は、ジョンに対し政治家としてもう少し経験を積んでから大統領を目指すように忠告しますが、ジョンはアメリカ建国時の英雄たちを引き合いに出しその忠告を受け入れませんでした。
そして、7月の民主党全国大会で大統領候補に指名されました。(副大統領候補はリンドン・B・ジョンソン)
9月には共和党の大統領候補で現職副大統領のリチャード・ニクソンとのテレビ討論会で彼を圧倒します。

さらに各地で精力的に集会を繰り返し、大々的に展開したキャンペーンによって、彼が若すぎること、経験不足との批判や、宗派がプロテスタントであることのハンディを乗り越えて大統領選を有利に導いていきます。

本年、2024年もアメリカ大統領選挙の年です。大統領選挙中の派手な集会や大物歌手、芸能人の応援、そしてテレビ討論会のディベートの優劣が選挙戦の結果に与える影響の大きさは、64年前の当時も変わらずにあったようです。

11月の大統領選挙は史上例を見ない接戦でした。極めて伯仲した戦いとなりましたが、
JFKは勝利し、第35代アメリカ大統領に就任することとなりました。

大統領に当選後、JFKはすぐに組閣にとりかかります。
FBIとCIA長官については、悪名高いエドガー・フーバーアレン・ダレスを留任させます。
これは共和党のニクソン候補との差が事前の予想に反してほとんどなかったことが
影響しているとも言われています。

そして主要閣僚は悩みに悩んだすえ、ハーバード大の人脈を通じて、
ディーン・ラスクを国務長官に、
ロバート・マクナマラを国防長官に、
ダグラス・ディロンを財務長官に任命しています。
司法長官は父の助言を受けて、実弟のロバート・ケネディを起用しました。

そして、1961年1月の大統領就任演説の内容は今回のケネディの名言(1)の冒頭で紹介した通りです。
この名演説は多くの人に、深い感銘と新しい時代の幕開け(ニューフロンティア)の予感とを与えました。

大統領の日々

ケネディ大統領は長時間働いたことでも知られています。朝7時に起きて夜11時、あるいはそれ以降まで執務を続けました。
朝食を食べながら6紙の新聞を読み、そして一日中人々と会談し、彼らに必要な指示をしたといいます。特に各地方で起きている多くの出来事に対し、詳しい調査と対応を行うように求めたため、スタッフはその対応と報告に大わらわだったといいます。

ジョンは国内政策として「ニューフロンティア政策」と名付けた政策を特別教書に盛り込み、議会に立法措置を求めました。
これは、不況下での景気回復や経済成長、国防、教育、住宅政策、医療の拡充、黒人・少数民族への差別の撤廃などを含む野心的な政策でした。

5月にはソ連に遅れを取っていた宇宙分野で「10年以内にアメリカは人間を月に送り、無事帰還させる」というアポロ計画実現に向けた巨額の予算の承認を議会に求めます。

また、9月には「平和部隊」の創設をします。アメリカ人のスタッフが教育、農業、医療、建設などの分野で世界中の支援が必要な場所でボランティアとして働くことを始めるためのものです。

人種差別についての取り組みは内政で最も困難な問題でした。ジョンは議会に公民権法案を提出し、テレビでアメリカ国民に人種差別を終わらせるよう求めました。

さて、アメリカの外に目を向けると、1961年当時世界は東西冷戦の真っただ中にありました。
共産主義の鉄のカーテン内で着々と力をつけてきたソ連が、スプートニクを打ち上げ、月面にロケットを打ちこみ、ハンガリー暴動を軍事力で制圧するなど、国際政治・経済・軍事の舞台で西側民主主義国家の代表アメリカをさえも押し込む大国として強い影響を及ぼすようになってきました。このトップが老練な政治家のニキタ・フルシショフ首相でした。
中国をはじめ、東欧の国々、ラオスやベトナム、南アメリカなど各地で共産主義勢力が台頭して、民主主義国家と対峙していました。

このような状況の中でジョンは大統領に就任してすぐの4月、大きな試練にさらされます。
キューバのカストロ政権の転覆を狙い、CIAが主導した亡命キューバ人部隊を輸送船で上陸させる軍事作戦の失敗です。これは「ピッグズ湾事件」といわれています。

ジョンは国務省で開かれた会議で、CIA長官や参謀本部などの軍側の強い要請を受け入れて作戦の実行を命令しました。しかし、この計画は事前に亡命キューバ人側から情報がもれ、キューバ政府が万全の迎撃体制を整えていました。キューバ側からの反撃を受け、亡命キューバ部隊は大敗し、作戦に失敗に終わりました。
この事件がアメリカ主導で行われたことは世界中に知れわたりました。

これはジョンの今までの生涯で最もみじめな失敗であり、政治家として未熟さを含めて同盟国からも激しい非難を受けました。これ以降、ジョンはCIAのことも軍部の言うこともまったく信用しなくなったといいます。

1961年6月にジョンはソ連のフルシショフ首相とウィーン会談を行います。
冷戦状態で緊張が続く東西関係の融和やキューバ、ラオス、核実験禁止、そしてベルリン問題に関して1対1で話し合ったのです。
ケネディはフルシショフの脅しともいえる強硬な主張に、西側諸国の代表として一歩も引かずに反論をしますが、結局会談はほとんど何も成果を得ずに終わりました。

そして8月にフルシショフは「ベルリンの壁」建設を強行しました。ベルリンの東西を分ける境界にバリケードを築いたのです。こうしてベルリン市民は自由な往来が出来なくなりました。この間、ソ連軍を中核とする東側の軍隊と米、仏、英の西側軍隊はいつ軍事衝突が起きてもおかしくない一触即発の状態が続きました。

翌1962年に歴史に名高い「キューバ危機」が起きます。
8月にアメリカ軍機が撮影した写真に、カリブ海域でのソ連船に地対空ミサイルが積載されていたのです。さらにソ連の軍事要員が大幅に増員されていることが分かりました。
10月にキューバにソ連が核ミサイルの発射台をひそかに建設し始めたのです。

ジョンは「ソ連の脅しには断固屈しない」との強硬姿勢を示し、ソ連に警告を発します。そして政権内では、あらゆる選択肢を検討する中で、
「核攻撃の危険を根絶するため、この発射台を先制爆撃すべきだ」との意見が日に日に高まっていきました。ジョンも一時はキューバへの爆撃案に傾きかけますが、最終的に
弟のロバートが提示した「最初は海上封鎖を行い、ソ連の出方によっては「空爆」か「軍事侵攻」を行うという案を採用することに決めたのです。

こうして10月24日にアメリカの艦船は、ミサイルの機材を積んだ船がキューバに近づけぬよう「海上封鎖」を行ないました。もしもソ連船がこれを突破しようとすれば、間違いなく第3次世界大戦になる、核戦争が現実となる最大の危機が訪れました。

結局フルシチョフ首相は、側近の「いま核戦争に持ち込んでも勝ち目はない」との進言に従い、キューバ基地建設を断念しました。
国際政治の潮目はここで変わり、アメリカの優位が確立しました。

「キューバ危機」後にほどなく行われた中間選挙で民主党は圧勝します。
これには大統領の人気だけでなく、ケネエィ家としてのジャクリーン夫人や、長女のキャロラインや長男のジョンの人気も大きく貢献しました。

 


 [ケネディとジャクリーン夫人、娘のキャロライン]

そして、ケネディ一家はホワイト ハウスに新しい若々しい精神をもたらしました。ケネディ夫妻は、ホワイト ハウスはアメリカの歴史、文化、そして功績を祝う場所であるべきだと考えたのです。
ホワイトハウスのパーティーにはノーベル賞やピュリツァー賞の受賞者、チェロのパブロ・カザルス、詩人のロバート・フロスト、映画のエリア・カザンといった文化人が次々と招かれ、首都ワシントンの雰囲気は、軍人出身のアイゼンハワー大統領の時代とは様変わりしました。
ジョンが大統領に就任した1961年の頃と比べると、国内経済も持ち直しの兆しが見え、
アメリカは戦後最も華やいだ幸福な時代に突入したといわれたのです。

1963年11月

1963年の7月に米英ソ間で部分的核実験禁止条約(PTBT)を締結しました。

そして運命の11月、ジョンとジャクリーン夫妻は、大統領選挙キャンペーンとしてテキサス州を訪れます。ダラス市の大観衆が迎える中、オープンカーでパレード中に、ジョンは何者かに狙撃され死亡しました。この暗殺事件はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行(ウォーレン委員会)とされますが、様々な主張が今も混在していています。
享年46歳でした。

ジョン・F・ケネディ大統領の突然の死は、アメリカ中のみならず、全世界に悲嘆の嵐を起こしました。
ケネディ大統領の国葬は暗殺事件の3日後の11月25日に行われ、全国民が喪に服しました。
セント・マシュー大聖堂の階段下で葬列が出発する際に、長男のジョン・ジョンが父の棺に対し挙手の敬礼をする姿に多くの人が涙したといいます。

それから

この長男のJFKジュニアは小型飛行機を操縦中の事故で38歳の若さで亡くなってしまいます。
長女のキャロラインは、無事に成長します。2013年には駐日大使として赴任し、多くの日本人がその着任を歓迎したことは記憶に新しい出来事でした。

ところで、アメリカの人気歌手のニール・ダイアモンドが1969年に作詞・作曲してリリースしたヒット曲に「スイート・キャロライン」があります。

ニールは「まだ11歳の少女だったキャロライン・ケネディが両親と共に乗馬しているシーンを『ライフ』誌の表紙からインスピレーションを得て、作品にまとめた」と語っっています。

この曲は今でも大リーグのボストン・レッドソックスの本拠地でテーマ曲として使われるなど、時代を超えて歌いつがれ、愛され続けているようです。

このJFKの心に残る名言は、その歌詞を最後に載せて締めくくります。
今回も最後までお読みいただき、有難うございました。

Sweet Caroline
           Neal Diamond
Where it begin
I can't begin to know when
But then I know it's growin'strong
Was in the spring
And spring became the summer
Who'd have believe you'd come along?


Hands
Touchin'hands
Reachin'out
Touching me,touchin'you


Sweet Caroline
Good times never seemed so good
I've been inclined 
To believe they never would
But now I             ・・・  


どこで始まったのか
いつ始まったのかわからない
でも思いは強くなっているんだ
春だった
そして春は夏になり
君が一緒に来るなんて 誰が信じたろう

手が 手に触れ
腕を伸ばして
僕に触れ 君に触れる

スイート キャロライン
二人の時が、こんなに楽しい時だったとは
あるはずがないと思いがちだった
でも、今 僕は   ・・・

 

心に響く名言

43.3 JFKの命式を読み解く

1.JFKの命式を読み解く

それでは、アメリカ合衆国、第35代大統領ジョン・F・ケネディの命式を、下図の命式表に基づいて読み解いていきましょう。


 [JFKの命式]

彼は1917年5月29日に合衆国のマサチューセッツ州で誕生しました。
時差を考慮して干支を導き出します。
丁巳年
乙巳月
壬申日
になります。

五行を集計します。
木気が1、火気が3、土気がなく、金気が1、日主を含む水気が1です。
日主の壬から月令をみると休囚に当たります。
通変星と補運も勘案し、身弱の人と判断します。
なお、空亡は戌、亥です。

年柱の通変は、正財・宝財(偏財)
月柱は、   肖綺(傷官)・宝財
日柱は、    - 偏印
です。
一見して財星過多の宝財格の人と看ることができますね。
また、各柱の十干どうしの関係ですが、丁壬化木、乙庚化金と干合しています。年、月支の巳と日支の申は支合・刑に当たります。
命式中にこういう干合や支合が多い場合は、一筋縄でいかない運勢の持ち主で、
かつかなり複雑な性格を有した人物とおさえておきましょう。

これらの情報から、JFKの基本的な性格と運勢を読み解いてみましょう。
日主は壬(みずのえ)で金気を含んでいますので、聡明な人で有能な人物です。
社会に出て大きく成功する可能性を持っているといえそうです。
聡明といってもいわゆる天才型ではなく、こつこつと努力を重ねて自分の能力を高めていくタイプの人です。
特に物事の全体を掴み、その事の根幹になる真実を掴みとる能力や、奇抜なアイデアを含めた発想力、構想力に優れているようです。

一生お金には困らない人です。生家が相当の資産家と読めます。
幼少期は身体が弱く、大きく重い病気を重ねます。場合によっては
夭折する危険もあります。(補運の「絶」が年柱、月柱の二か所に現われています。この「絶」は十二の補運中の最弱の補運です。この絶は重なることを嫌います)

この人の場合は先祖の遺徳というのでしょうか、最高の吉星の天乙貴人も伴いますので、最悪の状況は逃れることが出来る可能性は高いと考えて良いかもしれません。

財星は男性の場合は、金運と共に女性運に関係します。財星過多ですから、いわゆる好色で不特定多数の女性と関係、交際することになりそうです。
日主に偏印が坐るのも皮肉といえば、皮肉です。

性格は明るく、ウイットに富む話上手です。男女を問わず、常に人気者として同僚や後輩から好かれます。
世渡りも上手で、目上の人に可愛がられ出世も早いでしょう。
好奇心旺盛の新しものがりです。周りの人に妬まれないよう、言行に注意し、自身の徳を高めることが肝要といえるでしょう。

若い時はやや発奮の志に欠け、享楽的な毎日を過ごすこともありそうです。
しかし、成人後は取り組むテーマを見出し、その成就めがけて勤勉で、積極的に挑戦するチャレンジ精神にあふれる人に変わっていきます。

家庭面では、パートナーと必ずしも同じ方向を向いて一致協力して人生を歩むことは難しいかもしれません。
子供には恵まれにくく、恵まれても子供が自分の力になることはないでしょう。

本稿では詳しくふれませんが、この人の大運は逆八年運です。
29歳前後で大きな転機を迎えそうです。39歳前後の時に東方から北方に転角をし人生の節目となる出来事が起きそうです。
大運で19歳から39歳までの20年間は比劫運が巡りますので、弱い日主を援けてくれます。危機を迎えてもそれを乗り越えるいわゆる運の強い人物といえそうです。
転角後の20年、39歳から58歳までの印星運に巡りますから決して悪くはありません。

まとめますと、生涯怪我や病気と縁がきれない点が気にかかりますが、社会に有用な人材として評価されます。仕事で大成功し、富や名声を手に入れて素晴らしい人生を送る運勢の持ち主といえそうです。

2.海軍、そして政界デビューまでのケネディの年譜

大学卒業後のJFKの歩みを振り返ってみましょう。

1941年(昭和16年)春に、ジョン・F・ケネディは陸軍士官候補学校を受験しますが、
健康状態を理由に合格できませんでした。その後、父のコネを使って、海軍に入隊します。兄のジョセフJRも海軍に入隊します。彼はパイロットとしてヨーロッパに派遣されます。

一方のジョンは9月に、海軍情報局に配属されます。


 [海軍士官時代のJFK]

 

1941年12月8日に東条英機内閣の元で、大日本帝国軍(以下、日本軍と略称)がハワイの真珠湾を攻撃します。
対英米に宣戦布告し、ここに太平洋戦争が始まりました。

当初の日本軍は破竹の勢いで、翌1942年にマニラ占領、ラバウルやラングーンを占領と
その版図を拡げます。さらにフィリピン全土を攻略します。

さて、当のケネディ中尉です。1942年7月に海上勤務と変わり、そして1943年に日本海軍と対峙していたソロモン諸島に配属されます。ジョンが26歳の時です。
巡視魚雷艇 PT-109 の12人の乗組員の艦長となりました。
任務は日本海軍艦隊の輸送業務の妨害です。

1943年8月2日の夜、海域を巡回していた時に一隻の巨大艦と遭遇します。日本海軍の駆逐艦「天霧」です。天霧は魚雷艇に向かってきます。操舵員は必死に舵を握り、これを避けようとしましたが無駄でした。
駆逐艦がPT-109に衝突し、船は真っ二つに割れます。乗組員2人が死亡しました。

他の乗組員は船が炎上する中、なんとか海に逃れます。
ジョンはコックピットに激しく叩きつけられ、再び背中を負傷してしまいます。

乗組員の一人、P・マクマホンは顔と手にひどい火傷を負い、瀕死の状態でした。暗闇の中、ジョンはマクマホンを発見し、まだ浮いていたボートの破片にしがみついている他の生存者のところまで彼を引き上げます。彼らは日本軍が去るまでじっとしていました。

日の出とともに、ジョンは部下を率いて6キロ近く離れた小さな島に向かいました。ジョンは自身も負傷していたにもかかわらず、マクマホンのライフジャケットのストラップを歯でくいしばりながら、彼を岸まで牽引することに成功しました。
6日後、2人の島民が彼らを見つけて助けを求め、ジョンがココナッツの殻に彫ったメッセージを届けてくれました。こうして、PT-109の乗組員は奇跡的に救助されのです。

JFKはこの勇気ある行動でのちに海軍・海兵隊勲章を授章します。さらに『ニューヨーカー』誌にこのケネディの英雄譚が掲載され、ジョン・F・ケネディの名前は全米に知られるようになります。彼は太平洋戦争の英雄(ヒーロー)の一人になったわけです。
といっても、ジョンは当初この話をあまり人に語りませんでした。ヒーローといっても敵と戦い華々しい戦果をあげたわけではありませんから。
しかし、後にジョンが下院議員の選挙に臨む時には、この英雄譚は大々的に宣伝に活用され、彼を当選させる大きな要因になります。

それ以上に、戦争の最前線での経験は、ジョンの人格形成、考え方に大きな影響を与えたようです。政治家は、安易に国家のため、国民のためといって、しっかりとした目的や大義もなしに兵隊を戦地に送るべきでないという信条はこの時の体験に基づいています。


ジョンはこの事件後に一旦部隊に復帰しますが、脊柱管狭窄症による背中の痛みがひどく、本国に帰還します。海軍病院の治療でも症状は回復せず、1945年3月に名誉除隊をしました。
この戦争がケネディ家にもたらしたもう一つの悲劇が、兄のジョセフJRの死亡でした。
ヨーロッパでの任務中に、飛行機が爆発し戦死してしまったのです。
ジョンが学業やスポーツでどうしても勝てなかった兄の死去はやがてジョンの人生にも大きな変化をもたらせます。

3.連邦議会議員への道

1945年(昭和20年)長く激しい太平洋戦争がようやく終結に近づいてきた時、28歳の
ジョンは自分がどの方面の仕事につくか模索していました。当初は教師か作家になることを考えていました。

父のジョセフは、子供たちを政治家へ、そしてあわよくば一家から大統領を出したいという野心の持ち主でした。特に長兄のジョセフJRへの期待は大きかっただけに、その死は大きな打撃でした。
次善策として、ジョンにその白羽の矢がたったわけです。
父はジョンと将来について話し合ったなかで、マサチューセッツ州第11選挙区から連邦議会に立候補すべきだと説得したのです。

ジョンは自分が必ずしも自分が政治家向きの性格でないと考え、この父の提案を受け入れませんでした。
しかし、このことに真剣に悩み、母方の祖父である前ボストン市長でもあったジョン・F・フィッツジェラルドに、自分の考えをぶつけています。
JFKのFのフィッツジェラルドはこの母方の祖父の名に因んで付けられたものです。
JFKはこの祖父をとても敬愛していました。民主党の重鎮でもあったフィッツジェラルドは孫と向き合い、真剣に話し合いを重ねました。
そして、最後にジョンは自分の意思で下院議員への候補を決めたのです。

選挙戦では母・ローズの陣頭指揮でケネディ一家が総出でジョンを支えました。長く精力的な選挙活動の中で、ジョンは支持者たちを喜ばせ、賛同を得るための対話の仕方も学んでいきます。

集会での演説も最初はぎこちなく、聴衆からの良い反応もありませんでしたが、場数を踏み、自分流の工夫も取り入れて話す内容に磨きをかけていきました。
元々機知に富み、話上手な人でしたから慣れてしまえばお手の物です。
冗談や、戦争での体験談をまじえながら、自分の政策やスローガンの「新しい世代から指導者を」を人々に焼き付けていきます。
父ジョセフからの潤沢な選挙資金の効果もあって、選挙では圧倒的な大差で共和党の対立候補を破ります。
こうして若干29歳の若さで民主党のジョン・F・ケネディ下院議員が誕生したのです。
下院議員を3期(6年間)務めた後、1952年にジョンは36歳という若さで上院議員に選出されました。

上院議員になってすぐ後に、ジョンはワシントン・タイムズ・ヘラルド紙の記者である24歳のジャクリーン・ブーヴィエと結婚しました。
ハンサムで前途有望な議員として将来を嘱望されたジョンは、女優やモデルなどの
数多くの女性と浮名を流したことはアメリカの社交界でも有名でしたが、そろそろ年貢の納め時と観念したのでしょう。

しかし、好事魔多しです。結婚して間もなくジョンの背中が再び痛み始め、2回にわたる椎間板ヘルニアの大手術を受けることになります。
まさに命がけの大手術でした。1954年、37歳の時です。

この手術からのリハビリを続けていく間に、ジョンは信じるもののためにキャリアを危険にさらして戦った数名の米国上院議員についての伝記を執筆します。
「 勇気ある人々」と題されたこの本は、1957年にピューリッツァー賞を受賞しました。
ケネディが40歳の時です。
同じ年、ケネディ夫妻に最初の子供、キャロラインが誕生しました。後に
日本に駐日大使として赴任するキャロライン・ケネディさんです。 

大学卒業後から上院議員になるまでのJFKの年譜をまとめましたが、いかがでしたか。
神機推命法で読み解いた内容は、彼の人生をほぼ的確に当てることが出来ていると思います。
次回は、もう少しだけアメリカ大統領としてのケネディの苦悩と功績を記してみたいと
思います。

これも余談になりますが、1945年第二次世界大戦が終了した後に行われたイギリスの解散総選挙で、ケネディは連合国を勝利に導いたチャーチル率いる保守党が、労働党に負けることを予言していました。
結果はその通りで、第二次世界大戦の英国の救世主のチャーチルは首相の座を降ります。

彼の事実を注意深く観察し、その将来を正確に見通す洞察力は政治家としのアドバンテージになったようです。

今年2024年はアメリカ大統領選挙をはじめとする多くの国で政権選択のための選挙が行われる選挙イヤーです。
このJFKのブログで、何故アメリカ国民の半数は共和党のドナルド・トランプ候補を熱狂的に支持するのかその理由の一端に迫ることが出来たと思います。

つくづく「歴史は繰り返す」で、過去の出来事を注意深く観察、研究することで、現代の似たような事象もその結果をかなり正確に予想することが出来ると改めて感じた次第です。

今回も最後までお読みいただき有難うございました。

次回はJFKのアメリカ大統領としてのエピソードに触れながら、JFKの名言が生まれた背景を探りたいと思います。

 

心に響く名言

43.2 J・F・ケネディの幼年期から青年時代

ケネディ家の系譜

J・F・ケネディは1917年5月29日に、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ブルックラインに父・ジョセフ・P・ケネディ・シニア、母・ローズ・フィッツジェラルド・ケネディの次男として生まれました。

ジョンの4代前の祖先、パトリック・ケネディはアイルランド出身の移民で、祖国の差別や飢饉を逃れて食うや食わずで新大陸に渡りました。
そして、港湾労働者として働き一家を養います。
その長男でJ・F・Kにとって祖父にあたるパトリックJRは、ボストンでサロンを開業します。彼の経営したいくつの店はとても繁盛し、資産家としてのケネディ家の基礎を築きます。
やがてパトリックJRは政治に興味を抱き、マサチューセッツ州の下院議員になります。ボストンのみならず東海岸で知られた存在となります。

このパトリックJRの長男のジョセフ・P・ケネディ・シニアは、(1888年-明治22年生)ハーバード大学を卒業後、金融業につきます。

学生時代にジョセフが学校の成績やスポーツで良い結果を出しても「偉そうにいっても、あいつはアイリッシュだぞ」と級友達から陰口をたたかれたことから、いつか大金持ちになってあいつらを見返してやると決意したそうです。
当時の合衆国において、アイルランド移民は少数民族でカトリック教徒でもあり、人種差別の意識が強かったこの時代の合衆国では、アングロサクソンの人からは見下されていました。

ジョセフは機を見るに敏感で、金儲けに関して素晴らしい勘と才能を備えていました。
耳寄りな情報を入手するとその情報を元に策を練り、自分の全財産をかけてその事業に取り組み、成功させるといった運と度胸も備えていました。
州の銀行審査官を皮切りに、若くして全米で中堅のファースト・ワード銀行の頭取になります。


さらにジョセフは第一次世界大戦(1914年~19年)中に、義父のジョン・フィッツジェラルドのコネで巨大鉄鋼コンツェルン傘下のベスレヘム造船の支配人補佐となります。
ここで海軍次官補だったフランクリン・ルーズベルト(後に第32代大統領となります)と知り合います。

ジョセフは1920年代の好況期に、株式や不動産投資で莫大な資産を築きます。
1929年、世界の金融市場を震撼させた大恐慌の時も、株価大暴落を正しく予知し、いち早く撤退し自分の資産を守り抜きます。それどころか株の空売りで大儲けをすると共に、暴落した不動産を買うことで資産を倍増させました。

映画産業の経営にも乗り出し、複数の映画会社を統合してハリウッドのRKOを設立する過程でも一財産を築きます。

さらに1933年に禁酒法が廃止されると、ルーズベルト大統領の長男と組んでサマセット社という会社を設立、大量のジンとスコッチの輸入を一手にとりまとめさらなる富を生み出します。
こうして当時の全米の長者番付けでもトップ15以上にランキングされる本当の億万長者になります。

 


[父ジョセフ・ケネディ、兄ジョセフJRとジョン・F・ケネディ]

但し、ジョセフに関して悪い噂も絶えません。
ジョセフの株の取引手法は、正統的なものばかりではありませんでした。
インサイダー取引や風説の流布、空売りと組み合わせた相場操縦など、現代では禁止されている手法も多様しています

また、ジョセフが禁酒法時代にマフィアと組んで酒類の密輸で稼いでいたことは公然の秘密として語られていました。ケネディ家とマフィアの繋がりはこの時代から続いていたのでしょう。

一方、母のローズの生家もアイルランド移民から身を起こした名家でした。
JFKの母方の祖父になるジョン・フィッツジェラルドはボストン市長も勤めた立志伝中の人物でした。

母ローズは黒髪で頬の赤い美女で、毎日ミサを欠かさない熱心なカトリック信者でした。
二人の間には四人の男子と五人の女子の計九人の子供が生まれています。
仕事で忙しい夫に変わって、子供たちを育て教育したまさに良妻賢母型の女性でした。

ジョン・F・ケネディの幼年時代

ジョン・F・ケネディの幼少時の愛称は”ジャック”でしたが、ここでは”ジョン”で通します。

ジョンは幼少期からいくつもの病気にかかり、病弱で不健康な子供でした。
母のローズは、ジョンが患った幼少期の病気をメモカードに記録しました。
2歳の時に「百日咳、麻疹、水ぼうそう」などを患っています。

1920の2月には猩紅熱にかかりました。これは伝染力が強く、命を脅かす可能性のある病気でした。父も母も、幼いジョンが死んでしまうのではないかと恐れました。

また1928年、10歳の時にはジフテリア反応、気管支炎、を患っています。

ジョンが8歳の時に、兄弟姉妹は7人となりました。兄のジョセフJR、弟のロバート、妹のローズマリー、キャスリーン、ユーニス、パトリスアです。

 

ケネディ家の子供たちは水泳、セーリング、タッチフットボールなどのスポーツをよくしました。
子供たちは一生懸命遊び、お互いに競い合いました。
両親は特に男の子たちの間で競争を奨励しました。
「一番強い者になれ、絶対に二番手になるな」と子供たちを鼓舞しました。

タッチフットボールの試合などで怪我をするのは当たり前といった具合です。
兄がジョンと自転車で競争しようと提案したとき、彼らは正面衝突しました。ジョセフJRは無傷でしたが、ジョンは28 針も縫う大怪我をする羽目になりました。ジョセフJRはジョンより体格が良く力も強かったため、彼らが喧嘩をすると、
いつもジョンが負けることになります。
成績も抜群でスポーツも万能な兄のジョセフ・ジュニアに対する劣等意識、そして厳しすぎる父・ジョセフへの負い目がジョンを苦しめたといえます。
幼児から何度も胃腸の不調などで入退院を繰り返したのもそれが原因とされています。

仕事が忙しく、家を留守がちにする父に代わって、子供たちを育て、鍛えたのが母のロースです。この母も父と同等以上に子供たちを競わせ、スパルタ教育を施しますが、さすがに身体の弱かったジョンには少し手加減をしたようです。

JFKの読書好きは、少年時代の病弱さも関係しているようです。
ケネディ家の中で唯一の読書家でありました。

これも母の回想によると、大病や大怪我などのベッドの中で10歳前後まで両親が与えた本を読みまくっていたそうです。
『アラビアン・ナイト』『宝島』『アーサー王と円卓の騎士』『ジャングルブック』『アンクルトムの小屋』『ジャングルブック』など。
傾向的に、イギリスの政治家、チャーチルに似ています。

1930年、ジョンが13歳の時にカンタベリー・スクールに入学しますが、ほどなく体調不良となり家に送り返されました。

青少年時代のJ・F・K

そして14歳の時に、兄の通うカトリック系の名門チョート校に転向します。
生徒数が五百人の全寮制のハイスクールです。ここで彼は生涯の友人となるルモイン・ビリングスとラルフ・ホートンと巡り合います。
ジョンはハイスクール時代も病弱で、その成績はクラスの中位と必ずしも良くありませんでした。

しかし、親友のホートンによるとクラス内で圧倒的に人気があったそうです。
彼は病弱にもかかわらずスポーツ活動に励み、努力を重ねました。また、自分の気に入ったことには真剣に取り組んだといいます。
一例として、自分の好きな歴史書を読みまくり、気に入った人の名句を見つけると、ノートにびっしりとメモを取って、それを暗唱したそうです。(これが後に政治家になるジョンにとって大切な宝物となります)

ただし保守的な学校のしきたりや校長の差別的な発言に対してはことごとく反抗しました。
このため危うく放校処分になりかけます。
何しろ、寄宿舎の窓から下を通る友人にオレンジを投げつけるとか、授業に遅刻するのは当たり前、土壇場まで勉強はしない、部屋は足の踏み入れる場所がないほど散らかっている、といったあり様でした。

最終的に、父親の学校に対する財政面での寄付のおかげで何とか放校は免れました。

1935年、18歳の時にジョンはどうにかチョート校を卒業します。
父のジョセフはジョンをロンドンのスクール・オブ・エコノミクスに留学させますが、ここでも「黄疸」の診断を受け、仕方なく帰国することになります。


この病気のために、9月の入学式に間に合わなかったそうですが、父親のつてにより10月にプリンストン大学に特別に入学します。

翌年の1936年、19歳の時にまたもや父親の強いすすめで名門のハーバード大学に転校します。
こうして見ると、父ジョセフとその子のJ・F・Kとは、父親の手厚い庇護の元で育てられた子鷹という感じを受けます。
子母澤寛に、幕末の俊才勝海舟(麟太郎)とその父の勝子吉の生涯を描いた『父子鷹』という小説がありますが、この父子鷹を思い出してしまします。
もっとも勝子吉は旗本とはいえ小普請の貧乏侍で、億万長者で政界にも進出する名士のジョセフ・ケネディとはまったく異なりますが。



[20歳の頃のJ・F・ケネディ]

この1936年は、ルーズベルトのニュー・ディール政策がアメリカ大恐慌の中から発表された直後です。
大学では、共産主義をまじえた急進的平和主義を唱える学生達がヒトラーやムッソリーニの肖像画を焼き捨てるなどキャンパスは荒れていましたが、ジョンはこういう学生達とは一線を画し、演劇会を組織したり、水泳クラブを創設するなどクラブ活動に熱心に取り組んでいました。
当初はフットボールにも力を入れていましたが、背中(椎間板)を痛めてしまいます。
この脊柱管狭窄症に関わる病気は、生涯彼についてまわることになりました。

ハーバード大学での最初の二年間の成績は中の下と芳しくありませんでした。
そんな彼に転機が訪れるのが3年生に進んだ時です。

当時、ルーズベルト大統領の下で駐英大使!を務めていた父のジョセフから、「学生外交官として欧州各国の情勢を
調べてみろ」と命じられたのです。

これも何とも皮肉な話で、アイルランド移民の子孫が駐英大使になる。
ルーズベルト大統領の指名に対し、ワシントンの外交界でも悪評が絶えなかったそうですが、肝心のジョセフ・ケネディは気にもとめなかったそうです。

ジョンは大学から特別休学の許可をもらい、1939年1月から欧州を歩き回ったのでした。
まさに第二次世界大戦直前の極めて緊迫した時期でした。

J・F・Kの転機

ジョンは、パリのブリット大使公邸を根拠地として、ポーランド、ソビエト連邦、トルコ、さらに中東を経てパレスチナまで足をのばしました。
各地の大使館員のみならず、一般の市民とも政治的なことを含む多くの対話をしました。
実際に現地を自分の足でまわり、自分の眼で見、自分が感じた現実の状況を、ジョンはインタビューした内容に自分の感想を加えた大量の書簡を父親のジョセフ宛てに送っています。

1939年9月に、ジョンがロンドンに着いた時に、ヒトラーとスターリンが共謀してポーランドに軍事侵攻を始めました。
第二次世界大戦が始まったのです。

この9月末にジョンはハーバード大学四年生の授業に出席するため、ボストンに戻ります。
彼は、英国の外交政策を卒論のテーマとすることに決め、父から1931年以降の新聞、雑誌資料や英国の外務省記録を入手します。
ジョンは寝食も忘れるほど熱心に、ハーバード大学の図書館にこもって卒論に取り組みました。

この論文の目玉は、ヒトラーが密かにナチの軍備拡張を進めている間、なぜ英国は対抗できる軍備の構築を怠ったかを解明した点でした。
J・F・Kは、批判されるのは英国のチェンバレン首相といった指導者の弱腰ではなく、英国の弱体軍備の背後の民主主義国家、世論の状態を重要な要素として取り上げています。
平和時に軍備の拡張のために税金を支払うことは誰も望まないものです。



このジョンの労作といえる論文は教授会で優等と評価されました。
まだ、23歳で父からの影響を強く受けていたジョンでしたが、大戦前夜の欧州や中東の現状を自分の目で見て、人々と
真剣に対話を行い、現実と向き合うことで、自分の翼、自分の意思で自分の人生に向き合い、翔び立とうとしていました。

またテーマに対して、関係する多くの先人の論文、雑誌、外交文書に目を通すことで、政治家として大切な資質、現実と向き合い、その問題点を洗い出し、その現象を引き起こす根本の原因を突き詰める(仮説を立て、それを証明する)といった
実証主義者の能力をこの時に身につけたようです。


ジョンの結論は、「我々は英国の失敗を看過できない。必要なことは、火災が発生しないために、いつでも武装して
万全の守備を固めるべきだ。デモクラシーをもっと役に立つ制度にすべきである」ということです。

この論文は、その後さらに推敲を重ねた後、『なぜ英国は眠ったか』という題名で出版されました。米英で高い評価をうけ、四万部を売るというベストセラーになりました。

こうして1940年、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、23歳の時にめでたくハーバード大学を卒業します。

そして、世界は第二次世界大戦の戦火が拡がり続けていました。
1940年4月にはナチスドイツ軍がデンマーク王国、ノルウェー王国に侵攻。
5月にはオランダ王国、ベルギー王国、フランスに侵攻を開始します。
英国ではチェンバレン内閣が総辞職し、チャーチル挙国一致内閣が成立します。

9月には日独伊三国軍事同盟が成立します。
まさに風雲急を告げる時代でした。

今回も本ブログを最後までお読みいただき有難うございます。
ケネディ家のルールの探訪に時間を要し、肝心のジョン・F・ケネディの命式の解読までたどり着けませんでした。


[ジョン・F・ケネディの命式]
次回は、ジョン・F・ケネディの命式の看命と彼の後半生について述べたいと思います。