心に響く名言 43.4
J・F・ケネディの後半生
大統領への道のり
前回も述べましたようにジョン・F・ケネディは以前から背中の痛みに苦しんでいましたが、1954年37歳の時には松葉づえをつかないと歩けないほど症状が悪化してしまいました。
まだ結婚して間がなかったのですが、背骨をいったん取り除き接合しなおすという命がけの大手術を受けることを決意しました。ジョンは他の病気も患っていたため、複雑で難易度の高い手術となり、1955年にかけて何回も手術を繰り返しました。結局容態の回復に二年間を費やすことになり、その間上院議員としての仕事はできませんでした。
後の大統領就任後も、執務室で長椅子に寝そべり身体を休ますことが多く、この脊椎の後遺症は生涯に渡り彼を苦しめることになります。
この長くつらい病気との戦いと、第二次世界大戦中での苦しい経験があったからこそ、JFKがただの大金持ちの世間知らずの子息で終わらず、歴史に名前を残す仕事をした政治家になったと評する評論家もいます。
若い時の苦しい経験が、その人の考え方や生き方の骨格(基礎)に強い影響を与えるということでしょう。
今回は特別に、JFKの後半生の10年間の年運を公開します。
年運表は命式表、大運表と並んで神機推命法でその人に巡ってくる
運命の波を計測するために使用します。
鑑定する人の日干から年の干支に照らし合わせて通変星と十二運を導き出し、その年の吉凶を判断します。
この年運表だけで全体の吉凶は判断できませんが、それなりの比重は占めます。
また、それぞれの年の始まりは立春(毎年2月4日~5日頃)になります。
さてジョンは仕事に復帰して後、組織犯罪と労働組合の腐敗を追及する「上院マクレラン委員会」の委員とし活動します。
ジョンが29歳で下院議員に立候補し当選してから、実の弟のロバート・ケネディ(RFK)は兄の最も頼りになる相棒であり、知恵袋であり、信頼のおける相談相手でした。
JFKとRFKのコンビは、トラック運転手組合の「チームスター組合」とマフィアとのつながりを明らかにしたことで一躍知名度を上げます。
1958年(JFK41歳の時)の中間選挙では圧倒的な強さで上院議員に再選されます。
外交委員会のメンバーに入り、政治家としての地歩を固めます。
1960年の1月に、JFKは42歳の時に民主党予備選挙に立候補することを表明します。
この時もケネディファミリーの資金面や人脈で強力なバックアップを受けます。
そしてフランク・シナトラやサミー・デイヴィスJr.といった大物歌手や芸能人から選挙協力を得ます。事前の予想に反し、ケネディ候補は各州の予備選で勝利を重ねていきます。
党の重鎮は、ジョンに対し政治家としてもう少し経験を積んでから大統領を目指すように忠告しますが、ジョンはアメリカ建国時の英雄たちを引き合いに出しその忠告を受け入れませんでした。
そして、7月の民主党全国大会で大統領候補に指名されました。(副大統領候補はリンドン・B・ジョンソン)
9月には共和党の大統領候補で現職副大統領のリチャード・ニクソンとのテレビ討論会で彼を圧倒します。
さらに各地で精力的に集会を繰り返し、大々的に展開したキャンペーンによって、彼が若すぎること、経験不足との批判や、宗派がプロテスタントであることのハンディを乗り越えて大統領選を有利に導いていきます。
本年、2024年もアメリカ大統領選挙の年です。大統領選挙中の派手な集会や大物歌手、芸能人の応援、そしてテレビ討論会のディベートの優劣が選挙戦の結果に与える影響の大きさは、64年前の当時も変わらずにあったようです。
11月の大統領選挙は史上例を見ない接戦でした。極めて伯仲した戦いとなりましたが、
JFKは勝利し、第35代アメリカ大統領に就任することとなりました。
大統領に当選後、JFKはすぐに組閣にとりかかります。
FBIとCIA長官については、悪名高いエドガー・フーバーとアレン・ダレスを留任させます。
これは共和党のニクソン候補との差が事前の予想に反してほとんどなかったことが
影響しているとも言われています。
そして主要閣僚は悩みに悩んだすえ、ハーバード大の人脈を通じて、
ディーン・ラスクを国務長官に、
ロバート・マクナマラを国防長官に、
ダグラス・ディロンを財務長官に任命しています。
司法長官は父の助言を受けて、実弟のロバート・ケネディを起用しました。
そして、1961年1月の大統領就任演説の内容は今回のケネディの名言(1)の冒頭で紹介した通りです。
この名演説は多くの人に、深い感銘と新しい時代の幕開け(ニューフロンティア)の予感とを与えました。
大統領の日々
ケネディ大統領は長時間働いたことでも知られています。朝7時に起きて夜11時、あるいはそれ以降まで執務を続けました。
朝食を食べながら6紙の新聞を読み、そして一日中人々と会談し、彼らに必要な指示をしたといいます。特に各地方で起きている多くの出来事に対し、詳しい調査と対応を行うように求めたため、スタッフはその対応と報告に大わらわだったといいます。
ジョンは国内政策として「ニューフロンティア政策」と名付けた政策を特別教書に盛り込み、議会に立法措置を求めました。
これは、不況下での景気回復や経済成長、国防、教育、住宅政策、医療の拡充、黒人・少数民族への差別の撤廃などを含む野心的な政策でした。
5月にはソ連に遅れを取っていた宇宙分野で「10年以内にアメリカは人間を月に送り、無事帰還させる」というアポロ計画実現に向けた巨額の予算の承認を議会に求めます。
また、9月には「平和部隊」の創設をします。アメリカ人のスタッフが教育、農業、医療、建設などの分野で世界中の支援が必要な場所でボランティアとして働くことを始めるためのものです。
人種差別についての取り組みは内政で最も困難な問題でした。ジョンは議会に公民権法案を提出し、テレビでアメリカ国民に人種差別を終わらせるよう求めました。
さて、アメリカの外に目を向けると、1961年当時世界は東西冷戦の真っただ中にありました。
共産主義の鉄のカーテン内で着々と力をつけてきたソ連が、スプートニクを打ち上げ、月面にロケットを打ちこみ、ハンガリー暴動を軍事力で制圧するなど、国際政治・経済・軍事の舞台で西側民主主義国家の代表アメリカをさえも押し込む大国として強い影響を及ぼすようになってきました。このトップが老練な政治家のニキタ・フルシショフ首相でした。
中国をはじめ、東欧の国々、ラオスやベトナム、南アメリカなど各地で共産主義勢力が台頭して、民主主義国家と対峙していました。
このような状況の中でジョンは大統領に就任してすぐの4月、大きな試練にさらされます。
キューバのカストロ政権の転覆を狙い、CIAが主導した亡命キューバ人部隊を輸送船で上陸させる軍事作戦の失敗です。これは「ピッグズ湾事件」といわれています。
ジョンは国務省で開かれた会議で、CIA長官や参謀本部などの軍側の強い要請を受け入れて作戦の実行を命令しました。しかし、この計画は事前に亡命キューバ人側から情報がもれ、キューバ政府が万全の迎撃体制を整えていました。キューバ側からの反撃を受け、亡命キューバ部隊は大敗し、作戦に失敗に終わりました。
この事件がアメリカ主導で行われたことは世界中に知れわたりました。
これはジョンの今までの生涯で最もみじめな失敗であり、政治家として未熟さを含めて同盟国からも激しい非難を受けました。これ以降、ジョンはCIAのことも軍部の言うこともまったく信用しなくなったといいます。
1961年6月にジョンはソ連のフルシショフ首相とウィーン会談を行います。
冷戦状態で緊張が続く東西関係の融和やキューバ、ラオス、核実験禁止、そしてベルリン問題に関して1対1で話し合ったのです。
ケネディはフルシショフの脅しともいえる強硬な主張に、西側諸国の代表として一歩も引かずに反論をしますが、結局会談はほとんど何も成果を得ずに終わりました。
そして8月にフルシショフは「ベルリンの壁」建設を強行しました。ベルリンの東西を分ける境界にバリケードを築いたのです。こうしてベルリン市民は自由な往来が出来なくなりました。この間、ソ連軍を中核とする東側の軍隊と米、仏、英の西側軍隊はいつ軍事衝突が起きてもおかしくない一触即発の状態が続きました。
翌1962年に歴史に名高い「キューバ危機」が起きます。
8月にアメリカ軍機が撮影した写真に、カリブ海域でのソ連船に地対空ミサイルが積載されていたのです。さらにソ連の軍事要員が大幅に増員されていることが分かりました。
10月にキューバにソ連が核ミサイルの発射台をひそかに建設し始めたのです。
ジョンは「ソ連の脅しには断固屈しない」との強硬姿勢を示し、ソ連に警告を発します。そして政権内では、あらゆる選択肢を検討する中で、
「核攻撃の危険を根絶するため、この発射台を先制爆撃すべきだ」との意見が日に日に高まっていきました。ジョンも一時はキューバへの爆撃案に傾きかけますが、最終的に
弟のロバートが提示した「最初は海上封鎖を行い、ソ連の出方によっては「空爆」か「軍事侵攻」を行うという案を採用することに決めたのです。
こうして10月24日にアメリカの艦船は、ミサイルの機材を積んだ船がキューバに近づけぬよう「海上封鎖」を行ないました。もしもソ連船がこれを突破しようとすれば、間違いなく第3次世界大戦になる、核戦争が現実となる最大の危機が訪れました。
結局フルシチョフ首相は、側近の「いま核戦争に持ち込んでも勝ち目はない」との進言に従い、キューバ基地建設を断念しました。
国際政治の潮目はここで変わり、アメリカの優位が確立しました。
「キューバ危機」後にほどなく行われた中間選挙で民主党は圧勝します。
これには大統領の人気だけでなく、ケネエィ家としてのジャクリーン夫人や、長女のキャロラインや長男のジョンの人気も大きく貢献しました。

[ケネディとジャクリーン夫人、娘のキャロライン]
そして、ケネディ一家はホワイト ハウスに新しい若々しい精神をもたらしました。ケネディ夫妻は、ホワイト ハウスはアメリカの歴史、文化、そして功績を祝う場所であるべきだと考えたのです。
ホワイトハウスのパーティーにはノーベル賞やピュリツァー賞の受賞者、チェロのパブロ・カザルス、詩人のロバート・フロスト、映画のエリア・カザンといった文化人が次々と招かれ、首都ワシントンの雰囲気は、軍人出身のアイゼンハワー大統領の時代とは様変わりしました。
ジョンが大統領に就任した1961年の頃と比べると、国内経済も持ち直しの兆しが見え、
アメリカは戦後最も華やいだ幸福な時代に突入したといわれたのです。
1963年11月
1963年の7月に米英ソ間で部分的核実験禁止条約(PTBT)を締結しました。
そして運命の11月、ジョンとジャクリーン夫妻は、大統領選挙キャンペーンとしてテキサス州を訪れます。ダラス市の大観衆が迎える中、オープンカーでパレード中に、ジョンは何者かに狙撃され死亡しました。この暗殺事件はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行(ウォーレン委員会)とされますが、様々な主張が今も混在していています。
享年46歳でした。
ジョン・F・ケネディ大統領の突然の死は、アメリカ中のみならず、全世界に悲嘆の嵐を起こしました。
ケネディ大統領の国葬は暗殺事件の3日後の11月25日に行われ、全国民が喪に服しました。
セント・マシュー大聖堂の階段下で葬列が出発する際に、長男のジョン・ジョンが父の棺に対し挙手の敬礼をする姿に多くの人が涙したといいます。
それから
この長男のJFKジュニアは小型飛行機を操縦中の事故で38歳の若さで亡くなってしまいます。
長女のキャロラインは、無事に成長します。2013年には駐日大使として赴任し、多くの日本人がその着任を歓迎したことは記憶に新しい出来事でした。
ところで、アメリカの人気歌手のニール・ダイアモンドが1969年に作詞・作曲してリリースしたヒット曲に「スイート・キャロライン」があります。
ニールは「まだ11歳の少女だったキャロライン・ケネディが両親と共に乗馬しているシーンを『ライフ』誌の表紙からインスピレーションを得て、作品にまとめた」と語っっています。
この曲は今でも大リーグのボストン・レッドソックスの本拠地でテーマ曲として使われるなど、時代を超えて歌いつがれ、愛され続けているようです。
このJFKの心に残る名言は、その歌詞を最後に載せて締めくくります。
今回も最後までお読みいただき、有難うございました。
Sweet Caroline
Neal Diamond
Where it begin
I can't begin to know when
But then I know it's growin'strong
Was in the spring
And spring became the summer
Who'd have believe you'd come along?
Hands
Touchin'hands
Reachin'out
Touching me,touchin'you
Sweet Caroline
Good times never seemed so good
I've been inclined
To believe they never would
But now I ・・・
どこで始まったのか
いつ始まったのかわからない
でも思いは強くなっているんだ
春だった
そして春は夏になり
君が一緒に来るなんて 誰が信じたろう
手が 手に触れ
腕を伸ばして
僕に触れ 君に触れる
スイート キャロライン
二人の時が、こんなに楽しい時だったとは
あるはずがないと思いがちだった
でも、今 僕は ・・・







