被災者として②
昨日は地震発生当日の様子を書かせていただきました。
本日は避難所生活のお話を書こうと思います。
当たり前ですが、避難所の生活はこれまでのことが全くできなくなった世界なのです。
例えば、お風呂にも入れなければ、歯磨きもできません。トイレはかろうじて使えましたが、流せないのでめちゃくちゃ臭かったです。
避難所生活1日目、3月12日の明け方、家族の知り合いが乾パンを1つ分けてくれました。
「自分たちの大切な食料なのに、本当に良いのだろうか。」
当時10歳だった私ですらそんなことを考えました。
住んでた地域が田舎だったこともあり、支援物資がいつ来るんだろうという思いもあり、もらった乾パンにはとてつもない重みがありました。
実際、その後最初に食べた食料は、震災から2日後の昼でした。それはそれはとても小さい玄米のおにぎりでした。1口か2口で食べ終わるほどの大きさ。大切に噛みしめながら食べました。
ただ、たくさんの支援物資が避難所に届き始めました。特に多かったと感じたものは、衣類やタオル。新品のものから中古のものまでたくさん・・・。
中古という言い方、あまりよくないですね・・・。
ただ、この場を借りてお礼をしたいと思い、あえて、題材を出しました。
支援物資で頂いたもの、新品でなく誰かが使ったもの。これこそが日本人の温かさを感じました。
震災のから数日しか経っていないのに、顔も名前も知らない、ましてやあったこともない私たちのために寄付してくれたんだと思い、感謝の心でいっぱいです。
衣類は当時の避難者に行き渡るに十分な量でした。それだけたくさんの方の協力があって、成り立っているんだなと感じました。とてもありがたい限りです。
ずっと停電で暖が取りにくい避難所で、寒さによる死者が出なかったことは寄付してくれた皆様がいるからだと感じています。
本当にありあとうございます。
山積みにされた段ボールの一角に、外国の記者がいました。
英会話を習っていたこともあり、拙いながらお話をさせていただきました。
英会話を習っていたとは言っても、本場の英語を聞き取れるわけもなく、何度も聞き返しました。多分、半分も理解はできなかったのですが、これだけはしっかり聴けました。
「Not job but duty」
意味は、仕事ではなくむしろ義務だ。
記者としてきてはいるが、仕事のためではない、我々は母国に今の日本の状況を伝える義務がある。
そんなことを言いたかったんだと思います。
かっこいいですね。
当時私はありがとうしか言えませんでした。
ただ、この出来事が中学生になって、私をアメリカに連れて行ってくれます。
また別の機会にお話しさせていただきますが、震災の経験を伝えるために私は1週間のホームステイでアメリカに旅立ちます。ブログに綴る機会があれば良いですね。
避難所生活では2つに危険な出来事がありました。
1つは医療の逼迫と、ショック症状を発症する方が多数
もう1つは火事
1つ目について話します。
避難所には医者はいても、医療器具や機械はありません。絆創膏等の配置薬も限られ、ベッドも医務室にあるもののみでした。
そんな中でも持病を抱えている人はいるし、新たに何らかの疾患を抱える人だっています。
そんな人たちにとって避難所生活は過酷なものであったはずです。
また、特に多く見かけたのはショック症状。余震が来たり、緊急地震速報が流れると、泡を拭いて倒れたり、金切り声をあげたり・・・そんな人が多くいました。あれほどの災害です。ショック症状を発症してもおかしくはないのです。
私も多少のトラウマが残っていますが、本当に多少です。私よりももっと辛い思いをして、多くの大切な人を失った人もいます。また目の前で津波にのまれる人を目にしたり、瓦礫の下に挟まれた親族をやむをえず見殺しにせざるを得なかったり・・・。私も同じ立場になれば同じようになるかもしれません。言葉は悪いですが、まさに地獄絵図でした。
2つ目の火事について語ります。
地震で忘れがちな2次被害、それは火災です。津波であたり一面水ばかりなのになぜ、火事が起きるのか。原理は簡単です。油が水より軽く水の上に油が浮くからです。また、津波で建物も崩壊し、風を遮るものもなくなってしまいます。おまけに冬は空気が乾燥しているのも相まって、すぐに燃え広がります。
私たちの街も例外ではなく避難所のすぐ目の前まで火の手が迫ってました。避難所の窓から見るにザクッと5〜10m先には火が見えてました。
避難所と火の間にはアスファルト舗装の道路があり、かろうじて燃え移るのが防がれていましたが猶予はありません。
避難所の施設長?とか消防の人?などが別の避難先に誘導できないかなど色々と話してました。夜も交代で火を見張るなど、緊張は解けませんでした。
自衛隊の方も必死で消火活動をしてくれました。
結果、何とか火は消えました。
天気も味方になりました。大雪が降ったのです。
あの時ばかりは「死ぬのかな」そこまで思いました。
避難して安心!でなく、避難してからが本当の戦いだったりします。
この避難生活で学んだことの一つ、避難用のバッグを作りましょう。
水、食料、タオル、最低3日分の着替え、電池とラジオ、懐中電灯、モバイルバッテリーなどをリュックに入れましょう。
カップ麺などはお勧めできません。(短期的な避難の場合)お湯を作れる環境であるとは限りません。(食べれはしますが・・・)
私が伝えられることはこれがせいいっぱいです。
この経験が少しでも多くの方の目にとまり、教訓を伝えられればと思います。
明日の内容は考えてないですが、また何か投稿しようと思います。
これからもよろしくお願いします。