私が開業を決意した理由
※この記事は私の口述をもとにAI編集しています
私が最初に目指したのは、「眼科医になること」でした。
医学生の頃から、目という臓器に強く惹かれていました。目は人体の中でも非常に精巧で美しく、それを扱う眼科手術は繊細でありながら、患者さんのQOL(生活の質)を劇的に改善できる魅力があります。
さらに、眼科は将来的に一人でも完結できる診療科であり、自分の理想とする医療を実践しやすい分野でもありました。
当初は白内障や硝子体など、眼球内手術を専門にしようと考えていました。しかし実際に眼科へ入局してみると、多くの医師が白内障手術や硝子体手術の技術向上を目指しており、若手医師が十分な手術経験を積める環境ではありませんでした。
そこで私は、別の道を探し始めました。
そのとき出会ったのが「眼形成外科(Oculoplastic Surgery)」という分野です。
当時、日本全国を見渡しても、本当の意味で専門家と呼べる先生は10人にも満たないほどしかいませんでした。そのため、本来であれば治療できる疾患であっても「治らない」と言われたり、患者さんが負担の大きい従来の手術を受けざるを得なかったりする現実がありました。
私は、この分野には大きな可能性があると感じました。そして、この道を極めることを決意し、所属していた大学病院から国内留学をすることになります。
2年間の国内留学を終えた頃には、日本国内では一定の技術レベルに到達していました。しかし、その後海外学会へ積極的に参加するようになると、日本と海外とのレベルの差に衝撃を受けました。
日本ではよく「ガラパゴス化」という言葉が使われますが、実は眼形成外科の世界も同じ状況だったのです。
海外ではすでに当たり前となっている知識や手術が、日本にはほとんど入ってきていませんでした。当時、海外で積極的に学ぶ日本人の眼形成外科医は非常に少なく、その事実に気付いている人もほとんどいなかったのです。
私は、「海外へ出て世界の知識を学ばなければ、日本の眼形成外科を前へ進めることはできない」と考えるようになりました。
そして、私の人生を大きく変える転機となったのが、UCLAへの留学でした。
留学期間はわずか1年間でしたが、そこで経験した手術の考え方や教育システムは、日本とはまったく異なるものでした。
「なぜその手術をするのか。」
「患者さんにとって本当に最善とは何か。」
その考え方そのものが、私の医師人生を大きく変えました。
一方で、日本では海外留学どころか、国内留学でさえ「大学を離れる人」という見方をされる風潮がありました。
そんな環境の中で、私は国内留学と海外留学という二つの貴重な経験をさせてもらいました。
だからこそ、「この経験は自分だけのものにしてはいけない」と強く思うようになったのです。
もちろん、それらは自分自身の努力によって得た知識や技術です。それを自分のためだけに使うことも、一つの生き方だったと思います。
しかし私には、それではお世話になった先生方や患者さん、そして自分自身にも顔向けできないという思いがありました。
日本中の眼形成外科医に、自分が海外で学んだことを伝えたい。
日本の医療を少しでも前へ進めたい。
それが自分の使命なのではないかと思うようになりました。
しかし、その使命を果たすには、大学病院だけでは限界があることにも気付きました。
大学病院は地域医療の中心ですが、その影響力はどうしても地域に限定されます。
全国へ知識や技術を広めるためには、県境や大学の枠を越えて活動できる組織が必要でした。
その答えが、「開業」だったのです。
だから私は、UCLAから帰国するとすぐに開業準備を始めました。
最初の開業地に選んだのは群馬です。
群馬では、それまでの診療を通じて眼科医だけでなく、他科の先生方や患者さんにも私の存在を知っていただいていました。そのため、最初のクリニックとして最も成功する可能性が高い場所だと考えたのです。
一方で、私の目標は最初から群馬だけではありませんでした。
私の使命は、日本全国へ知識と技術を届けることです。
そのためには、群馬だけで満足するわけにはいきませんでした。
最初のクリニックを軌道に乗せたら、次は東京へ。
そして、さらに全国へ。
そんな構想を、開業前から描いていました。
実際、最初のクリニックは開業からわずか2か月で目標売上を達成しました。
そこで3か月目には東京で物件探しを開始し、約1年後には東京院を開院することになります。
今振り返ると、私が開業した理由は「自分のクリニックを持ちたかったから」ではありません。
海外で学んだことを、日本中へ届ける。
その使命を実現するために、開業という道を選んだのです。
