「なにかをはじめる時
世間様の価値観など捨て置き
笑われるくらいでちょうどいい」
当時、鹿島は考えていました、一度のライブで一人でもいいから認めてもらえる事を繰り返すと、案外簡単にいけるんのではないだろうか?
日本における
「CDを買う」「ライブに行く」
人口が全国の中で、全体の10分の1としましょう。
その中の100人に1人認めてもらい、
全国をまわりきったならば12万という数字なります。
120,000,000➗10➗100=12万
ちょっとわかりづらいですが、学校で例えてみてください。
クラスで1人・・・・いや学年で2、3人・・・・・・。
それならいけるかも・・・・・・・。
とはいえ、今は時代が違います.
でも、根本的にはいっしょです。
何事も一生懸命であれば、誰かはみてくれているもんです。
そのような、田舎の泥臭い感情をもったバンドは、全国をまわる事になりました。
期間にしたら、だいたい2ヶ月
本数にしたら1ツアー50本前後・・・・・。
決まったと知らされた時は先の事を色々と考えるのをやめました・・・・。
メンバーにとっては初の長期車生活&極貧
メンバーそれぞれカルチャーショックな事は多かった事でしょう。
事件らしい事件はなく、あるのは軽い小競り合いくらいです。
ある日の車中泊、就寝時に後部座席で寝ている時の事
中田くんの怒りの声が
「どらぁ!こらぁ〜いいかげんにせい!」
何事かと思って起き上がると
後部座席で寝ていたけんじろが
運転席でリクライニングして就寝中だった中田くんの顔面に足の裏をペタペタと貼り付けていたではあ〜りませんか。
狭い車中泊の中、足の置き場には困るものです。
しかし、その後けんじろうは、狸寝入りを決め込み、
中田くんも疲れているので、もぅええわとばかりふて寝。
不穏な空気が漂う車内、笑いを堪えるのが必死でしたというジャパハリよくあるパターン。
ツアーの方は来る日も来る日も戦うというよりは
挑戦した日々だったと思います。
ジャパハリネットのお客さんは0人に近い日がほとんどでした。
それでも、CDが数10枚売れていきバンドの自信になっていきました。
もちろん、本当にお客さんが2人だけの日なんてのもザラでした。
今ではそれが、僕達の財産になってます。
この頃のバンドスタイルが、今も色濃く引き継がれている部分が多いです。
不器用で、変われなかったと言えばそれまでですが、
変わらなかった事に対する、良い部分も今は実感できます。
その後も、
レコーディング→ツアー→ツアー→レコーディング→ツアー→ツアー
地元に帰ると媒体取材&出演、練習、曲作り、雑用
インディーズ時代は
年間100本以上のライブにレコーディング
もちろん、運転、運搬は基本メンバー(僕は免許なかったんで、ひたすら車中で曲作り)
凄まじい時の流れの中、
残念な事に僕達は当時の記憶がほとんどありません。
その当時の顔はみんな死んでました。
ただ、ライブだけは手を抜く事なく行えた事が、よかった事ではないでしょうか。
このむちゃくちゃすぎる忙しさの疲労とストレスはメンバー色んな形で現れました。
けんじろう→酒乱
中田くん→太り始める
鹿島→沖縄で泡盛飲んで意味不明の大号泣(後にも先にもこんなんないです)
そして、事件らしい事件といえば
良一がメンバーに脱退を申し入れてきました。
まぁ無理もない事なんです。
中学生からジャパハリネットをはじめて、
世間を見渡す暇もなく、
自分の成長に対して
ジャパハリネットが売れて行くことに追いつけなくなっていたんですね。
あの時は、メンバー皆で必死に説得しました。
「なんとかがんばっていこう!」っと。
もちろん、その後の良一はがんばってくれたのですが、この選択は今の状況に対する警告なんだなっと受け取っておりました。
良一は、今でこそラジオDJとして、司会として、誰よりも話しますが、
昔はインタビューで一言もしゃべってないって事はよくありました。
繊細なところがあり、
ネガティブでニヒルで少し変わっていて、
そのわりに機転の切り返しができる所などが彼の良いところです。
サウンド面などを良一に相談する事も多いですし、
今では、鹿島といっしょにバンドで女子的な役割を果たしているはず。
飛ぶ鳥を落とす勢いの如く、
インディーズ業界を駆け上がっていきました。
高校野球で例えると、
今まで甲子園経験のない弱小高校が初出場で初優勝した感じだと思います。
それぐらい地元に環境もなければ、ライブ前後の環境も劣悪でした。
広告を打つ余裕などなかったはずですから、
口コミ=ライブで売れていった部分が多いと思いますが、一つ。
先人というか、道を作ってくれていた「ガンジンルー」という先輩のバンドが地元にいました(今もいます)
ドがつくインディーズの時、デモテープを置かせてくれるよう頼んでもらい、
県外ライブに誘ってもらい、他のバンドに紹介してくれました。
全国ツアーの道筋も知り合いも、僕達はその後をなぞっていくだけだったので、感謝でしかないです。
あの時の勢いは、体と心の充実、まだなにも知らない若者だったので、
二度とでない勢いがでて、良くも悪くも調子にも乗れました。
ただ、あの勢いは見失うものが多いので、もぅださなくていいとも思ってます。
その後、愛媛という田舎から全国へと駆け上がった若者はなにも知らずに、
メジャーの舞台へと進むのであります。
「挑戦と好奇心が溢れたその道の過程には失敗があり
笑われる事もあるだろう
しかしその失敗こそが糧となる
失敗を学ぶ事が、後に大きな豊かさとなる」
続