岩見重太郎の武者絵大灯篭

8月25日、「大浜流灌頂 2023(おおはまながれかんじょう)」の夏祭りに寄って来た。 コロナ感染予防の制限が解除されているので、例年よりも賑やかであった。

 

 

大浜流灌頂と言えば、町内に掲げられる武者絵大灯篭が有名だ。 武者絵は、明治中期の博多の絵師・海老崎 雪渓(えびさき せっけい)によって描かれ、福岡県有形民俗文化財に指定されている。

 

 大博通りから会場に入ると、迎えてくれる最初の武者絵は「後藤又兵衛(大阪夏の陣)」だった。 後藤又兵衛のことについては、このブログの後半に登場します。

 

大浜流灌頂」と「後藤又兵衛」の武者絵については、2017年のブログを参照下さい。

 香椎うっちゃんのブログ  「大浜流灌頂(おおはまながれかんじょう)

 

 「後藤又兵衛」の裏に、「岩見 重太郎(いわみ じゅうたろう)」の狒々(ヒヒ)退治の武者絵が掛けてあった。

 

福岡市民でも「後藤又兵衛」は知っていても、「岩見重太郎」の名を知らない人は多い。 でも、明治時代までは、全国的な人気豪傑武芸者(ヒーロー)だったんですよ。

 

上の絵を見ると、妖怪らしきもの達が娘を襲っていて、少し恐ろしい。 右に武者の姿が見えるが、「岩見重太郎」の名前は右上の説明の中にもない。

 説明欄を拡大してみる。

 

真柴久吉公の列侯の一個』は、・・・真柴久吉とは江戸後期から明治時代にかけて、歌舞伎や講談に出て来る豊臣秀吉のことで、「秀吉に従う某大名の一家臣」と解釈される・・・『薄田隼人兼亮(すすきだ はやと かねすけ)と号し』・・・この「薄田隼人兼亮」が岩見重太郎のことで、説明の最後に『邪神狒々(ヒヒ)を討取り、誉を天下に揚げたり』とある。 狒々(ヒヒ)とは大きな猿のような妖怪で、岩見重太郎の狒々退治の話しは、明治時代の講談では人気上位の演目であった。 岩見重太郎は福岡の生まれなので、今回は、名前を変えた時期・理由など・・・彼のことを少しだけ詳しくまとめてみたい。

 

説明では、「秀吉に従う某大名の家臣」となっていて・・・何故、はっきりと大名の名を記していないのか? 岩見重太郎(薄田隼人兼亮)は実在した人物であるが、「狒々退治」は講談の演目として大いに脚色された話になっている。 岩見重太郎の狒々退治の場所は、伝えられているだけでも、熊本・大阪・岐阜・長野など幾つかあり、また、その講談演目は何処の芝居小屋でも聴衆を楽しませていた。 よって、絵師の海老崎 雪渓は、岩見重太郎の出身地を敢えて不明にしたのではないだろうか。 武者絵の獅子退治の話しは、後ほど触れる。

 

岩見重太郎は福岡の生まれ」と先に書いたが、福岡の何処だろう? 「秀吉に従う某大名」とは、小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)のことで、・・・黒田長政が移って来る前の筑前領主として、名島城を居城としていた。 岩見重太郎小早川 隆景の家臣・岩見重左衛門の次男で、今の福岡市東区名島で生まれた。

(地図はマピオン利用)

 西鉄貝塚線名島駅から徒歩数分の所に、道幅が狭い「大名通り赤点線)」がある。 大名通りの北側に名島城三ノ丸(現在の三ノ丸団地)があって、家臣の屋敷は大名通りの両側に建っていた。 家臣の屋敷が集まっていた、と言うことでは、福岡市中央区の「大名町」と同じ。

大名通り

 

岩見重左衛門は小早川家の剣術指南役で、印の場所に屋敷があった。 岩見重太郎は重左衛門の次男として、ここで生まれている。

 

 そこは現在、「名島北公園」になっていて、「岩見重太郎誕生の地」の碑が立っている。

 

 また、大名通りは愛称「岩見重太郎通り」と呼ばれている。

 

 挿し絵は、重太郎の「狒々(ヒヒ)退治」の図となっていた。

 

それでは、「狒々(ヒヒ)退治」も含めて、岩見重太郎のことについて、掘り下げて行こう。

 「誕生の地」碑の左横に解説板がある。 これに従って、説明を加えたいと思う。

 

重太郎は、小早川隆景の名島城で剣術指南役を務めていた岩見重左衛門の次男として生まれた。 父親の重左衛門は指南役を争っていた同僚の広瀬軍造とその仲間二人(鳴尾権蔵・大川左衛門)によって闇討ちにあい非業の死を遂げる。 

 

重太郎は父親の影響も受けたのか、幼い頃から剣術・兵法を学んで、父を大きく超える剣豪に成長していた。 重太郎は主君から仇討の免状を受け、武者修行をしながら広瀬らを探して各地を旅した。 その道中で山賊や大蛇、狒々(ヒヒ)などの化け物を退治したという言い伝えが、武勇伝として講談の演目に脚色されて行ったのではないか、と思う。 

 

名島の説明板では、『信州松本で狒々(ヒヒ)退治』となっているが、大浜流灌頂の海老崎 雪渓が描いた武者絵の説明では『肥後国宇土』としている。 何れにしても、「岩見重太郎の狒々退治」は明治時代の講談師によって痛快な武勇談に仕上げられた。

講談師 (写真は神田松之丞)

講談とは武将や偉人の物語などを、講談師が一人で座って聴衆に読み聞かせる。和紙で作った「張り扇」をたたいて、話の調子を盛り上げたりする。 映画館もテレビもゲームも無かった時代ですから、庶民は大いに楽しみにしていたそうだ。 最近若者の間でも、このアナログ調の講談に人気が出て来ているらしい。 CGの派手な映画に飽きてきたのだと思う。

 

岩見重太郎の狒々退治」を大浜流灌頂の武者絵に合わせ、その物語を簡単に確認します。

 

岩見重太郎は旅の道中で・・・とある村に着いた。 その村は毎年のように風水害に見舞われて食料に悩み、また、疫病にも苦しんでいた。 古老が占ったお告げに従い、数年前から、村のを長持(長方形の木箱)に入れ、人身御供として深夜に神社の境内に置いていた。 

今年も、その準備をしている時に、重太郎が立ち寄ったのだった。

岩見重太郎

重太郎は言った。「神は人を救うもので、人身御供を求めることはしない。 これは別の悪者の仕業に違いない。 今回は私が長持に入って、悪者を退治してあげましょう」 

 

深夜、神社に置かれた長持に入って待っていると、蓋が開いて、沢山の妖怪が群がり襲ってきた。

 今までだと、娘は妖怪たちの生贄になっていたのだろう。

 

重太郎は長持から飛び出ると、刀を抜き忽ちの内に妖怪どもを退治した。 妖怪どものボスが、大きな狒々(ヒヒ)だった。

狒々(ヒヒ)

妖怪は狒々一匹だけだったり、内容も各地の物語によって若干の違いはあるが、大よそこんなストーリーになっている。

 

岩見重太郎が修業の途中で山賊や悪者を懲らしめたのは事実らしい。 それらを面白くするために、脚色されて講談の演目になった。 狒々(ヒヒ)とは山賊のことだと思う。

 

これで話が終われば、岩見重太郎は講談上のただの豪傑で終わってしまう。 

彼には大事な仇討が残っていた。 

 

名島小早川家は、隆景の死後、養子の秀秋が継いでいた。 慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで東軍に付いた秀秋岡山に加増・移封。 名島には中津から黒田長政が移って来た。 しかし、2年後の慶長7年(1602年)に秀秋は岡山で急死し、嫡男が居なかった為、小早川家は改易された。 この時点で岩見重太郎は浪人の身となったが、その後も各地を廻り、父の仇の広瀬軍造ら三人を追っていた。 

 

そして、慶長17年(1612年)、仇の三人が丹後宮津藩(現・京都府宮津市)に隠れていることを突き止めた。 藩の領主・京極家小早川家から受けていた仇討免状を見せ、仇討の許可を得た。

9月20日、場所は天橋立で、仇の広瀬軍造・鳴尾権蔵・大川左衛門三人を討ち倒し、ついにその本懐を遂げたのである。

天橋立に建つ「岩見重太郎仇討ちの場」碑

(画像は「きょうのもののふフォト列伝」から借りました)

 碑に埋め込まれたレリーフは、重太郎が仇の広瀬軍造を討つ場面になっている。

 

小早川家が改易となり、岩見家も断絶していたので、岩見重太郎は母方の叔父・薄田七左衛門の養子となり、名を薄田隼人兼亮(すすきだ はやと かねすけ)と変えた。 

 

2年後の慶長19年(1614年)、薄田兼亮(重太郎)は大阪城にいた。 武芸が評価され、若き豊臣秀頼に仕官していた。 豊臣家徳川家からの攻撃に備え、多くの浪人を大阪城に雇い入れていた。 そんな浪人達の中で、薄田兼亮(重太郎)の名は豪傑として轟き渡っていた。 

 

しかし、薄田兼亮(重太郎)はこの大阪城で自分を超える豪傑に出会うことになる。 福岡藩を出て同じく浪人の身となっていた後藤又兵衛だ。 黒田官兵衛長政親子に仕え、数々の武功を挙げ、黒田24騎(黒田八虎)の一人に数えられた武将だ。 彼が福岡藩を出奔した確かな理由は解っていない。 後藤又兵衛は仕官するなり、真田幸村らと同じ大阪城五人衆に数えられ、部隊を任された。 後藤又兵衛薄田兼亮(重太郎)の武勇を知っていて、二人は直ぐに懇意な間柄となり、大阪冬の陣を共に戦った。 

 

年が明けた慶長20年(1615年)4月、大阪夏の陣が始まった。 冬の陣の和議の条件として外堀・内堀を埋められた大阪城は脆かった。 どうしても、城を出ての戦いが多くなり豊臣軍は徐々に押されていた。 

 

5月6日早朝、豊臣軍は体制挽回を狙い、道明寺で徳川軍を迎え撃つべく各隊が城を出発する。 冬の陣で活躍が認められた薄田兼亮(重太郎)は、夏の陣では数百名の部隊を任された。 当日は霧が濃くて、各部隊は道明寺への到着がバラバラになり、攻撃の統制が取れていない。 一番早く到着した後藤又兵衛の隊は既に体制を整えていた徳川勢に攻撃を仕掛けられたが、劣勢のまま最後に一斉突撃を敢行。 先頭を馬で突進した後藤又兵衛は、伊達藩の鉄砲隊による何発もの銃弾を受けて戦死した。 又兵衛が戦死した後に、薄田兼亮(重太郎)らの隊が到着したが、統制が乱れた豊臣軍は立て直しが出来なかった。 薄田兼亮(重太郎)も、抜刀して一人で何十人もの徳川勢を切り倒したが力尽き、又兵衛と同じ日の同じ戦場で壮絶な戦死を遂げた。

 

次の日の5月7日、最後まで奮戦した真田幸村だったが討ち死にし、豊臣軍は壊滅した。 深夜まで燃え続けた大阪城は陥落。 豊臣秀頼と母の淀殿は自害した。

 

 初めの「後藤又兵衛 大阪夏の陣」の武者絵を、2017年に投稿したブログの画像を利用して説明します。 

 先に記したように、「後藤又兵衛道明寺の戦いで伊達藩の鉄砲隊に撃たれて戦死した」が史実とされている。 この武者絵の中では、後藤又兵衛徳川家康は家康の重臣・大久保彦左衛門。 又兵衛は背中に秀頼の子の国松を背負っている。その後ろの女性は、国松の母で秀頼の側室の伊茶。 又兵衛は駕籠の中の家康に槍で傷を負わせている。 実際にはあり得ない場面ではあるが・・・講談の脚本を基に描かれている。 講談師が後藤又兵衛のことを、どれだけ特別な英雄として語っていたかが解る。 何だか、この演目を実際の講談師の話しで聴いてみたい・・・絶対に面白いと思う。

 

藩主は違っていたが、筑前(福岡)出身の戦国時代の豪傑二人(又兵衛重太郎)が大阪城で奮闘した事実を讃えたい。

 

 

うっちゃんの歴史散歩

香椎浪漫トップページ

 

飲酒運転は後で後悔するよ! 止めようや!