東京都知事選挙が告示され選挙戦が始まった。

 

 

 千葉県民である私には選挙権はないが、街頭演説をYouTubeなどで聴いていると、立候補した有力候補の皆さんは、内容はともかく雄弁で演説が上手である。

 

 

 まさに ”立て板に水のごとく” よどみなくすらすらと言葉が出てくる・・・「口の立つ人」たち、「弁の立つ人」たちである。

 

 

 

( 頭木弘樹著 エッセイ集「口の立つやつが勝つってことでいいのか」)

 

 

 

 ところで先週、頭木弘樹さんの初のエッセイ集 「口の立つやつが勝つってことでいいのか」 に関するブログをfacebookで紹介したら、いつも私のつたないブログを丁寧に読んでくれる友人がコメントを書いてきた。 

 

 

 

 ”「口の立つやつが勝つってことでいいのか」って面白い題名ですね。でもスポーツに勝敗は必要ですが、人生に勝つ負けるなんてあるのかとふと思いました。口が立つやつが勝つ? それって勝ち負けではないのでは? と。人それぞれに判断基準は違うだろうし。ちょっと違う観点かもしれませんがリタイアした73歳にはそう思えます”

 

 

 

 なるほど! 私はそのコメントにこう返信した。

 

 

 ” 頭木さんと出版社はどんなタイトルにするか悩んだと思いますよ。彼が伝えたいのは「言葉にできる思いなんてじつはごくわずか」「思いを言葉にできないのが本当で、そうした弱い者たちのなかにこそ陰影のある物語は生まれてくる」・・・というようなこと。

 

 だから、悪意で手品を仕込むこともできる “言葉” しか使えない話し合いや会議などは、口の立つやつ、弁の立つやつ、理路整然と話せるやつが ”勝つ” のは当たり前。そうした社会でいいのだろうかと頭木さんは問い掛けています。

 

 頭木さんは小学生の頃は口の立つ子どもだったらしく、仲間とのトラブルがあっても先生への説明が相手より上手だったため、いつも頭木さんの主張が通り ”勝って” いたという。しかし、これはどこかおかしい、何か理不尽だなあと子どもながらに思っていたらしい・・・”

 

 

 

 しかし、彼は難病にかかり自分の病状や痛みを医師に正確に伝えるのがとても難しい・・・ことを知らされる。まだ言葉になっていないことを言葉にしなければならない難しさ、もどかしさの中に引きずり込まれていく・・・

 

 

(ご参考)著者・頭木弘樹さんの紹介

文学紹介者。大学3年の20歳の時に難病(潰瘍性大腸炎)にかかり、13年間の闘病生活を送る。そのときにカフカの言葉が救いになった経験から『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社/新潮文庫)を編訳。著書に『絶望読書』(河出文庫)、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、『食べることと出すこと』(医学書院)、『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(ちくま文庫)、『自分疲れ』(創元社)など。NHK「ラジオ深夜便」の「絶望名言」のコーナーに出演中。

 

 

 

 

 ブログを読んでコメントをくれた友人はこの本を読んでいる訳ではない。

 

 

 ここで、この本を読み新聞に書評を書いた記者を紹介しよう。

 

 

( 2024年3月10日の朝日新聞朝刊に掲載された書評 )

 

 

 

 その朝日新聞の記者は「長沢美津子」さん。2018年から編集委員(食と文化担当)、2023年から書評委員。1993年入社とあるから私の娘たちより少し上の世代だろう。

 

( 長沢美津子さん )

 

 

 

 書評を読んで、私は彼女の文章の軽快さと素直さ、そしてスカッとした気持ちのよい表現にすっかりうれしくなった。

  

 

 そして頭木さんの伝えたいことをしっかり受け止め、キチンと短い書評にまとめておられるその文章力に感心した。さすがに「言葉にしないと始まらないのが記者」と心得ておられるだけのことがある。

 

 

 

 

 

 

 ということで、長沢さんの書評青文字部分を一緒に読みながら、頭木さんが伝えたいことを感じてもらえたら幸いである。

 

 

 

 なにかしらざわざわ騒ぐ春のこころに、差し出されたようなエッセー集だ。タイトルに思い当たることがあれば、なおさらである。

 

 

 私には思い当たることがある。

 

 現役時代、自分の意見をハッキリ主張すること、仕事はテキパキと処理していくこと等をこころがけてきた。そして部下にも同様の仕事ぶりを求め、自分の回りの人をそうした目で評価してきた。

 

 だから ”言葉にできない思いがあるように見える人” や ”うまく言えない人” を、多忙や時間が迫っていることを理由に置き去りにしてきたことがある。

 

 思い当たることがあるから、私に頭木さんの文章が刺さってくるのだ。

 

 

 

 ゆったり文字の組まれた本の顔つきは柔らかく、全編を通して伝えること、生きていくことのままならなさが切実につづられている。ただし四隅のねじはゆるみなく、著者は理詰めで社会を俯瞰している。

 

 

 ”ただし四隅のねじはゆるみなく・・・” いい表現だなあ。自分も含めてなんと四隅のねじの緩んだ組織や政策、施策、リーダーの多いことか。

 

 

 

 記者としての自分は「うまく言えないことの中にこそ、真実がある」という始まりから、うなだれてしまった。「言葉にできない人のほうが魅力的」と続いて、もう降参だ。

 

 

 私は記者でも作家でもないが、長沢さん同様私も頭木さんの言葉に ”うなだれ” ”降参” してしまった。

 

 そうなったのはそうした真実に出会ったり、そうした魅力的な人に出会ったことがあるからだ。

 

 しかし、そのことはいずれも後で気付いたことで、その時は “真実” とも “魅力的” とも思わず置き去りにしてきたのだ。

 

 

 

 ・・・言葉を持っている人に出会った日、わいてくる幸せよ。なのに「言語化できないことがある」と語る著者に圧倒的な説得力がある。

 

 

 「言葉にしないと始まらないのが記者」と前置きしている長沢さんが言うのだから、彼女にとって頭木さんの言葉は、圧倒的な説得力をもつのだろう。

 

 

 

 「能力が正当に評価されないのは、いいことではない」が、「能力の高さだけで人が評価されるのは、本当はおかしい」との指摘もけっこうこたえた。人を見た目で判断してしまうときと同じように、そこに「ためらい」がほしいと。

 次々に繰り出される「それは当たり前?」という投げかけに、記者の自分はこてんぱん。ところが、もうひとり素の自分が起き出して、安堵している。

 

 

 前出の ”うなだれた” ”降参だ” に続き、今度は ”こてんぱん” だ。

 

 長沢さんは ”口の立つ” 頭木さんに理路整然と論破され打ちのめされた訳ではない。頭木さんの指摘に思い当たることがあり、”そうだなあ” と考えさせられるからこそ頭をうなだれるしかないのだ。

 

 しかしうれしいことに、その状態はなぜか快い ”ノックアウト” なのだ。

 

 

 

 アリクイの映像を見て、食べられるアリに肩入れする。もう嫌だと投げ出す人の姿に美しさを見る。「弱さとは、より敏感に世界を感じることである」ときっぱり記す。

 

 

 頭木さんは弱いものたちの例として、病院で見かけた虫だろうか・・・「洗面台で流されかけている小虫」のことをこの本で書いている。そして長沢さんは、この書評のタイトルに「弱さとは世界に敏感になること」という言葉を選んでいる。

 

 

 

 音読してしまったくだりが 「その水になじめない魚だけが、その水について考えつづける」。新しい季節に押し出されていく自分への、はなむけとしたい。

 

 

 この 「その水になじめない魚だけが、その水について考えつづける」 は、本のなかのエッセイ 「違和感を抱いている人に聞け!」 に頭木さんが書いた文章だ。

 

 

 やはり現役時代、一緒に仕事をしながら 「違和感を抱いて納得していないように見える人」 とりわけそれが部下だった時など、なんとなく避けてきた私だからこの短い魚の文章は頭から消えない。

 

 

 

 

 

 

 さて、前編で「後編で私の読後感を書きます」と約束しながら、新聞に書評を書いた長沢さんの感想をただなぞっただけになってしまった。

 

 

 それだけ彼女と同じ感想を持ったということだ。

 

 

 

 最後に、頭木さんの初のエッセイ集を読んで、一番印象に残った文章を転記しておきます。前編でも取り上げたくだりです。

 

 

 現役時代、目の前に置かれたスープから、箸でつまめるものだけを食べただけなのに、スープのすべてを味わいつくし、その美味しさを残すところなく表現しているかのように振る舞ってきた・・・

 

 

 言い換えると目の前のモノを完璧に言語化してきたと思い込んできた自身の反省を込めて・・・

 

 

 

 

 

 

「スープのなかの言葉たち」  頭木弘樹

 

 言語化できることなんて、ほんのわずかだ。

 

 言語化するというのは、たとえて言うと、箸でつまめるものだけをつまんでいるようなものだ。

 

 スープのようなものは箸でつまめない。

 

 そういうものは、切り捨ててしまっているのだ。

 

 だから、じつはスープがたっぷり残ってしまっている。

 

 そのスープのほうが気になる人は、「うまくしゃべれない」ということになる。

 

 もちろん、箸でつまめるものをきちんとつまむことも重要だ。

 

 しかし、それだけが素晴らしいわけではない。

 

 スープもおいしいわけだし、むしろそちらのほうがおいしいかもしれないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 前編でも書いたが、現役時代、自信を持っていた独りよがりの価値観やモノの見方を、高齢になって修正させられるような言葉や文章、出来事に出会う時がある。

 

 

 それをどう受け止めるかは各人の勝手だが、「そういえば、やはりあの頃の考え方や行動はどこかおかしかったなあ・・・」 と素直に受け入れ、自分のこれまでの人生の評価を少し修正しておくことは悪いことではない。

 

 

 自分の人生という ”水たまり” に沈んでいた小さなゴミを取り除き、その ”水たまり” が、少しだけ前よりも澄んできたような気持になる・・・

 

 

 

 これも、今はやりの言葉でいえば 「終活」 のひとつだろうか。

 

 

 

 

 ・・・熊本県人吉市を流れる澄んだ球磨川。”暴れ川”としても知られる球磨川だが、4年前の2020年7月にも大きな氾濫が起きた。大学時代の4年間この川に沿って走る肥薩線に乗って、いつも故郷・鹿児島と博多の間を行き来していた。右手前側が上流。

 

 

 

 

(注)本と新聞記事以外の写真はネットよりお借りしました。ありがとうございました。