あなたにとって ”懐かしい音” とはどんな音ですか?

 

 

 故郷を流れる川のせせらぎの音、よく釣りに出掛けていた海岸の波の音、散歩道でいつも聞いていた鳥や虫の鳴き声、夏の風物詩・金魚屋さんの売り声・・・

 

 

 人それぞれに懐かしい情景や当時の親しかった人を思い起こさせる ”音” をお持ちのことでしょう。

 

 

 

 その ”音” の多くは、一日の暮らしの中で時を知らせ、また季節の訪れを教えてくれる優しい ”音” でした。

 

 

 

( 金魚売り。「きんぎょーや、きんぎょー」 江戸時代1772年~1781年の安永年間になるとすでにその売り声は夏の風物詩だったらしい。)

 

 

 

 6月5日の朝日新聞コラム「ひととき」に『あの音はどこへ』というタイトルの投稿がありました。

 

 

 

 

 

 ・・・全文を転記しましょう。

 

 

 6月5日付け朝日新聞コラム「ひととき」の『あの音はどこへ』

 

 最近なぜか、幼い頃の音の情景が思い出される。

 

 朝一番、遠くからポンポン船の焼玉エンジンの音が聞こえてくる。その後は「トーフー」の豆腐屋さんのラッパの音、「チリンチリン」と豆屋さんも来る。

 

 ごみ収集は馬車だった。牛車を引いた老夫婦が野菜売りに。てんびん棒を担いだ魚売りのおばさんもやって来る。

 

 昼過ぎになると「鍋釜修繕、こうもり傘修繕」と修繕屋さんが自転車で。背中に品物を背負ったおばさんが「麦茶にはったい粉はよござすかー」とやって来る。

 

 夕方になると、紙芝居の拍子木の音に子どもたちが集まり出す。「金魚えー、金魚」と金魚売りの声。涼しげな音色をなびかせて風鈴売りの人。あめ細工のおじさんもいた。

 

 夜はチャルメラを吹きながらラーメン屋さんが屋台を引く。

 

 時には、錫杖を手にした山伏、尺八編み笠スタイルの虚無僧が玄関前に立っている。

 

 日常生活に普通にあったいろいろな音がいつの間にか消えている。子どもたちが遊ぶ声さえも路地や公園から聞こえなくなった。

 

 みんなどこへいってしまったのでしょう。

 

 (福岡市 森富士恵 主婦 75歳)

 

 

 

 この投稿を読んで「あっ、そうだった! そうそう!」と、うなづかれる同世代の方は多いだろう。

 

 

 投稿者の森さんが書かれた ”音” は、最初に紹介した自然界の ”音” ではなく、暮らしの中にあった ”音” と情景だ。

 

 

( 豆腐屋さん。右手にラッパ。)

 

 

( 下駄の修理屋さん。小さい頃は一人一足下駄を持っていた。下駄の歯をはめ込むために叩く音が聞こえるようだ。)

 

 

( これは最近の風鈴売り。風鈴の音さえも騒音として苦情がくるという時代になった。)

 

 

 

 投稿者の森さんは「福岡市在住の75歳」とあったから、「福岡市博多出身の73歳」の妻にも読んでもらった。

 

 

 

 「そうそう、そうだった! それから朝早くから ”おきゅうと売り” の声もあった。そして・・・」と、次から次に子どもの頃に聞いていた物売りの声を教えてくれた。

 

 

(注)おきゅうと・・・福岡市を中心に食べられている海藻加工食品。5ミリから1センチ程度の短冊に切り鰹節や薬味を添え酢醤油などを掛けて主に朝食で食べる。独特の食感が好まれ毎朝行商人が売り歩いていた。今では柏の自宅近くのスーパーでも時々見かける。

 

 

 

 子どもの頃の行商人の話を始めた妻は 「魚は志賀島から売りに来ござったよ」 といつの間にか博多弁で話し始めていた。

 

 

 志賀島は博多湾の入口にある島で陸路でも繋がっているが、博多港との間を福岡市営の渡船が30分でつなぐ。妻によると魚を生きたまま売っていたというから渡船で博多港に着き、博多の街をリヤカーを引いて売って歩いていたのだろう。

 

 

( 魚の行商人。写真は地震のあった能登・輪島市の風景だ。)

 

 

 

 妻はさらに続けた。「箱崎からは海苔の佃煮を売りに来とんしゃった」

 

 

 

 ・・・ちょっと寄り道して思い出話をひとつ。 

 

 福岡市の東部にあり博多湾に面する箱崎は、現在は埋め立てで海岸線が遠くなったが昔は海苔の養殖が盛んだった。大学時代間借りしていたYさん宅も海苔養殖業だった。

 

 ある時「香椎さん、悪いけど乾燥小屋の番をお願いできませんか。本を読んでてもいいから・・・」と頼まれた。当時、小屋で火を焚いて海苔の乾燥をしていたから火の見張り番を依頼されたのだ。とくに用事の無かった私は引き受けたが、下宿ではなく間借りだったので夕食のおかずが一品増えた・・といった見返りはなかった・・・

 

 

 板海苔にならない海苔を佃煮に加工して売り歩いていたのだろう。

 

 

 

 さて、妻が話してくれた行商人の情景の大半は、投稿者の森さんとほぼ重なる。

 

 

 ただ、私は1965年(昭和40年)から7年間福岡市に住んでいたが、ラーメン屋がチャルメラを吹きながら屋台で移動販売する風景は見かけたことはなかった。現在博多の街で賑わう屋台は所定の場所に店を開き移動販売ではない。

 

 

 

 ところで妻との間で、投稿者が子どもの頃を過ごされた場所はどこだろうか・・・という話になった。

 

 

 投稿に「・・・はったい粉はよござすかーとある。鹿児島でも使う「はったい粉」という名称は西日本での呼び名らしい。また、「要りませんか?」という意味の「よござすかー」は福岡県大牟田市出身の義母もよく使っていた。

 

 

 結局、投稿者が育った街は、ポンポン船の音が聞こえる福岡県のどこかの街だろうね・・・ということにした。

 

 

( リヤカーで魚を売り歩くおばさん。) 

 

 

 

 

 しかし、行商人がリヤカーなどを引きながら物を売り歩く情景はお客さんの多い街ということになる。だから田舎育ちの私にとって暮らしの中で聞こえてくる物売りの声はそれほど多くなかった。

 

 

 ただ、実家の近くに古い漁港があったから朝の食事どきによく魚売りのおばさんが来ていた。田舎のことだからみんな顔なじみで「はやとちゃんに ”おまけ” じゃっど!」とよけいに数匹の小魚を乗せてくれた。おばさんが来た時は朝から「きびなご」の刺身が食卓に上ることがあった。

 

 

 

 私にとって一番の物売りの ”音” で懐かしいのは、自転車で売りに来るアイスキャンデー屋の「ちりんちりん」という鐘の音だ。小学生時代の暑い夏の日、この音が遠くから近づいてくると居ても立ってもいられなかった。

 

 

( 箱には大分県の玖珠郡とある。引っかけてあるのはフラフープ?)

 

 

 

 夏休みになると親元を離れ30キロほど離れた祖母の住む海辺の実家で過ごしていた。祖母に「アイスキャンデーを買って!」と言いにくかったのか、その音が近づいてきても毎回買ってもらえるとは決まっていなかった。

 

 

 買ってもらえない時は、家の前を通り過ぎてだんだん遠ざかっていく「ちりんちりん」という鐘の音は、私にとって悲しい音だった。

 

 

( 昭和の時代の紙芝居。田舎育ちの私は見た記憶がない。)

 

 

 

 「ひととき」という小さな新聞コラムから始まった私たち老夫婦の会話は、時代を一気に遡り盛り上がった。

 

 

 時代とともに商いの形が変わり、行商人の独特の掛け声はほとんど聞こえなくなった。今では廃品回収や古い家電品の引き取りなど売るのではなく買う行商が増えた。

 

 

 ただ私の住む分譲地では冬場には灯油の販売車がスピーカーを鳴らしながら走る。また高齢で ”買い物難民” になった方々のための移動販売車も各地で増えつつあると聞く。

 

 

 その一方で、公園で遊ぶ子どもの歓声や、保育園や幼稚園から聞こえてくる園児の声を ”騒音” ととらえる時代になってしまった。

 

 

 水の音、鳥や虫の鳴き声などの自然音は、時代を問わず今でも我々を癒してくれるものがほとんどだ。



 かつて暮らしの中にあり今は消えてしまったさまざまな ”音” や “声” には、暮らしの潤滑油としての社会的役割が確かにあったような気がしてならない。

 

 

 

( 8年前、ウォーキング途中で撮った道路に描かれた絵。今でも子どもの元気な声が聞こえてくる。)

 

 

 

(注)新聞記事と最後の道路の写真以外は、ネットよりお借りしました。ありがとうございました。