最初に、2月に会った銀行勤務時代の親友・S君から聞いた「同窓会」に関するある話を紹介しよう。

 

 

・・・彼は「俺には小学校時代の同窓会そのものが無い」という。

 

 彼は兵庫県姫路市の出身です。S君と私は戦後すぐの昭和21年、22年の生れですが、彼が幼い頃住んでいたのは、姫路市内が戦災で焼けたため仮設住宅が建てられた郊外だったそうです。そこには市内の多くの集落から移転してきた被災家族が住んでいたそうです。

 

 私は姫路市の戦災空襲を調べてみた。

 

 終戦の年、1945年6月22日に川西航空機姫路製作所を中心とする爆弾攻撃があり、7月3日深夜から4日未明にかけての市街地への焼夷弾爆撃があった。この2回が本格的な空襲だったようだ。市街中心部はほぼ壊滅、死者173人、重軽傷者160人余、全焼家屋約1万300戸、被災者45182人とあった。

 

 だから、仮設住宅から通っていた小学校の生徒は世の中が落ち着き始め戦後復興が進んでくると、仮設住宅を出て一人二人と市内の元の街にまた戻ったり、他の街に転居・転校していき散りじりになってしまったのだそうです。すでにその小学校は無く、当時のクラス仲間を探す手立てもないため一度も同窓会が開かれないまま77歳まできたと話してくれました。

 

 戦後生まれとはいえ戦争の影響がそこまであったのか・・・と気の毒な感じがするとともに、大規模な空襲の標的にすらなりそうもない田舎で生まれ、山の小さな小学校で学び遊んだ自分の幸運をかみしめました。

 

 

 

 

 さて4月16日、小学校時代の喜寿・同窓会が大阪で開かれ私は千葉から参加した。下の昭和28年4月の入学写真には36人が写っているが、今回参加したのは12名だった。

 

 

 


 

 

 

( 昭和28年4月の入学式写真。私はこの1週間後に父親の転勤にともない転校してきたので写っていない。)

 

 

 

 ところで、”これが最後” と決めた同窓会の会場を大阪にしたのには訳があった。

 

 

 

 私が知る限り、今までは故郷・鹿児島や関東で同窓会は開催されてきたが、毎回欠かさず大阪から参加している女性が2人いた。皆勤賞の彼女らに報いるためにも、最終回の同窓会は大阪でやろう・・・と誰からともなく提案があった。

 

 

 

 加えて、その内のひとりが膝を悪くし遠方には出掛けられないとの情報が入り、彼女の通院日を避け会場と日時を設定した。

 

 

 

 芦屋に住むN君が会場や宿泊の手配をすべてやってくれた。彼は私と同じく6年生を前に転校していったので、なかなか連絡が取れず今回が初めての同窓会への参加だった。

 

 

 

 そうしたら同窓会の中で、ふたり以外の参加者からも「大阪でやるのを楽しみに参加したよ」という声があった。

 

 

 集団就職などで15歳から関西で働き始め、今は故郷に帰っている仲間や、学校を出て関西で働いたり、夫の転勤で住んだという仲間が数人いた。私もその中の一人だった。

 

 

 

( 鹿児島空港から見る霧島連山の東端にそびえる高千穂の峰。私たちの小学校は左側の山腹にあった。) 

 

 

 

 そうした中、I子さんという参加者がいた。10数年前の還暦・同窓会の時には彼女も参加していたが、当時福岡県に住んでいたこともありその後の集まりには欠席だった記憶がある。

 

 

 

 そのI子さんが昔話を始めた。

 

 

 ・・・はやと君のふたつ上にお姉さんがいたよね。N子ちゃん。私の姉のK子と同級でよく一緒に遊んだ思い出がある。よく覚えているのは、3人でワラビ取りに行って、帰りは姉と2人でN子ちゃんの家までよく送っていった。

 

 

( 小学校は霧島連山の標高800m位の山腹にあった。春になるとワラビは至る所に芽を出した。)

 

 

 

 

 私はI子さんがお姉さんと一緒に姉を送ってきた光景を全く覚えていない。その時間、まだ私は外で遊び呆けていたのだろう。

 

 

 I子さんは思い出話を続けた。

 

 

 ・・・それに私の両親がよく話していたことがあるの。それはね、両親の小学校は万膳小学校だけど、はやと君のお父さんから教えてもらっていたということ。担任だったのかな。

 

 

 

 万膳(まんぜん)小学校とは私たちが学んだ小学校と同じ牧園町(現・霧島市)にある小学校で、明治43年生まれの私の父が師範を出て初めて赴任した小学校だった。彼女の両親は結婚後、万膳から高千穂に転居し、当時「種馬所」と呼ばれていた公営の牧場で働いていた。  

 

 

 ・・・”万膳”という集落について少し寄り道をしよう。芋焼酎好きの方はご存知だろうが、「萬膳」「萬膳庵」で知られる蔵元に万膳酒造さんがある。1922年(大正11年)創業の小規模な蔵で、1969年三代目の死去に伴い一時休業していたが、1999年現在の霧島市霧島永水で四代目が焼酎造りを復活させている。その名前から推測すると、ここ万膳が発祥の地なのだろうか。

 

 

 

 2人でお互いの姉さんの近況を交換している中で、I子さんから依頼があった。

 

 

 ・・・お姉さんのN子ちゃんの住所と電話番号を教えてもらえますか。姉のK子が喜ぶと思います。じつは、姉は現在病気であまり芳しくありません。

 

 

 

 私は姉の住所と電話番号をI子さんに教えるとともに、スマホに保存していた最近の姉の写真と、昭和29年正月の家族写真、すなわち姉が小学3年の時の写真をLINEで転送してあげた。

 

 

 同窓会から鹿児島に帰宅したI子さんからLINEが入った。

 

 

 ・・・ホントにいろいろありがとうございました。なるべく早く姉と話してN子ちゃんと会えれば・・・と思っています。古いお正月の写真に写っているお父さんは、あの頃の私たちの校長先生ですね。明日姉の所に行って見せるつもりです。

 

 

 

 私は宮崎県に住む姉に同窓会の様子とI子さんの話を伝えた。山の小さな小学校だったので、姉は2学年下になる私の同級生のこともよく覚えているので、送った写真を見て懐かしんでいた。

 

 

 姉から返信があった。

 

 

 ・・・I子ちゃんは、幼い頃を思い出しながらどこか面影があるなあと思いました。I子ちゃんのお姉さん・K子さんとはよく遊びました。一番の思い出は2人で「コサンダケ」を取りに行っておじさんに見つかり、タケノコも置いたまま2人で一目散に逃げたことです。あの辺りは国有林、町有林が多かったのですが、個人の竹林だったのでしょうね。K子さんは会いたい一人です。

 

 

( 「コサンダケ」は、ちょうど今の季節に地上に出てくるタケノコ。正式名は「布袋竹(ホテイチク)」。歯ごたえも味もいい。最近は2、3本100円程度で店頭に並ぶらしい。)

 

 

 

 

 その3日後、姉から連絡があった。

 

 

 ・・・先ほど高千穂小学校の同級生のK子さんから電話がきました。67年ぶりでしたが、あっという間に思い出話に花が咲きました。病気とのことでしたが声には元気があり、優しいご主人に恵まれ車も運転しているとのことでした・・・「会いたいので主人と行きます」という話になりました。本当は私の方から懐かしい高千穂に行きたいのですが・・・いろいろありがとうございました。

 

 

 

 姉のLINEにあった様子をI子さんに転送してあげたら、すぐ返信があった。

 

 

 ・・・昨日姉に話したら大変懐かしがって喜んでいました。今日会って住所と電話番号を渡したらさっそく電話したようです。こちらも先ほど姉から電話が来て「N子ちゃんが67年ぶりにK子ちゃんと話ができたのは、I子ちゃんのお陰だと感謝していたよ」と連絡がきました。喜んでもらえてホントによかったです。

 

 

 

( ネットからお借りした女の子が遊ぶ様子の写真。昭和30年、40年代だろうか。)

 

 

 

 

 今日は、同窓会から生まれた ”77歳の妹が79歳の姉に、幼なじみとの67年ぶりの再会をプレゼントした” 小さな話でした。

 

 

 その裏で、香椎家でも ”77歳の弟が79歳の姉に、幼なじみとの67年ぶりの再会を手伝った” のでした。

 

 

 

( 私が小学1年から5年まで過ごした小学校跡地。近くにあった中学校が麓の中学校に統合され、現在はその跡地に移転している。今は消防署になっているが、校庭にある栴檀の木は当時のままである。)

 

 

 

 ところで、どの同窓会に参加しても、それまで何年間も聞けなかった新しい話が飛び出して「えっ、そうだったの!」と、思い出を少し修正させられることがよくある。

 

 

 加えて今回のように同窓会に参加した同級生以外のエピソードに広がりを見せることもある。これが楽しい。

 

 

 

 だから私は体力的にいける間は、同窓会、クラス会には参加しようと思っている。

 

 

 

 

 ・・・さて、同窓会から3日経った19日、鹿児島から参加したHさんからメールが入った。

 

 

 「クラス会、楽しかったです。ありがとうございました。疲れてないですか? 自分はまだ帰らないで、Yさんの家にSさんと一緒に泊まっています。もう少し遊んで鹿児島に帰ります。2年後を楽しみに頑張ります。よろしくです。」

 

 

 

 Yさん、Sさんというのは、前述の同窓会・皆勤賞の関西在住の2人だ。2年後を楽しみに? そう言えば、千葉から参加したH君が提案した「80歳になったら傘寿・同窓会をやろう」が全員一致で採択されたのだった。

 

 

 

 そうそう、今回が最後にはならなかったのだ。あと2年、元気でいなくては・・・

 

 

 

 

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(ご参考) 『同窓会考』

 

 あなたは同窓会に行くことを楽しみにしていますか? それともあまり参加したくないですが? 

 

 その回答は世代によっても異なるのだろう。そういえば、昭和50年前後生れの娘たちからは、同窓会の話題など聞いたこともない。

 

 そして、その賛否の理由は、それぞれの価値観や人間観、自身のさまざまな事情、学校に通っていた頃の出来事などに起因することなどいろいろあるだろう。

 

 

 さて、私の大学時代のクラス会は卒業以来ずっと継続している。ただ私は転勤などがありそのすべてに参加している訳ではない。また高校の同窓会もほぼ途切れることなく続いていたが、還暦を過ぎた頃からは3年の時のクラス会のみ続いている。

 

 

 ずっと続いている大学や高校のクラス会を顧みると、そこには幹事役をいつも引き受けてくれる有難い友人たちがいたお陰だと感謝している。

 

 

 ところで、私が5年まで学んだ小学校はひとクラス、小6で転校した先の中学校は3クラスだけのともに山間部の小さな学校だった。

 

 

 しかし、私は教員をしていた親の転勤や自身の進学で小・中学校時代住んでいた町から転居したので、友人たちと連絡を取ることが難しくなった。姉も同様の状況で、幹事役がいなかったのか今まで一度も同窓会の案内が無かったと寂しがっていた。だから今回の67年ぶりの再会があったのだ。

 

 

 しかし私の場合、何年か前に小・中学校の同窓会への道が数十年ぶりに開けた。

 

 

 東京で働いていた中学校時代の仲間と20年くらい前から再び連絡が取れるようになり、その後故郷で開かれた同窓会にも参加し、交流が数十年ぶりに復活した。

 

 

 一方、小学校時代の同窓会は、16、7年前、義姉を通じて同級生の幼なじみとたまたま連絡が取れ、その時ちょうど計画されていた還暦の同窓会に参加することになった。クラス仲間とはほぼ50年ぶりの再会だった。

 

 

 そして小・中・高・大学とも「全員に声を掛ける同窓会はこれが最後だろうな・・・」という喜寿・同窓会が、昨年から続いている。これまで小学校、高校、大学は終わり、中学校は10月に故郷・鹿児島で開催の予定だ。

 

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 冒頭に書いた ”小学校時代の同窓会そのものが無い” と話してくれた姫路出身のS君の話を思い出しながら、過ごした場所は異なるが、6歳から22歳まで共に学び一緒に遊んだ仲間と、77歳になった今でも会える状況を与えられていることに私は感謝していた。

 

 

 

 

 

 (注)ワラビとタケノコ、昭和の女の子の写真はネットよりお借りしました。ありがとうございました。