4月17日(火曜日)の朝9時過ぎ、私は大阪・梅田にいた。

 

 

 前日に開催された小学校時代の同窓会で、2019年6月以来約5年ぶりに大阪に足を踏み入れた。

 

 

 厳密にいうと2022年の秋、家に閉じ込められていたコロナ禍の最中、しびれを切らして奈良に妻と出掛けたから、関西エリアでとらえると1年半ぶりだった。奈良は結婚してから6年間住み、2人の娘たちが生れた思い出の地である。

 

 

 

( 大阪のシンボル「御堂筋」。淀屋橋から本町方面を望む。銀杏の若葉が出揃うとさらに美しい通りになる。)

 

 

 

 2月、同窓会で4月大阪に行くことが決まるとすぐ、私は泉北ニュータウンに住むH君にLINEを送り、「久しぶりに会えるよ」と伝えた。

 

 

 すぐ「楽しみができました」と返信があり、それからの2か月間、H君との再会をずっと心待ちにしてきた。前回彼と会った時期や場所をもう覚えていないくらい間隔があいていた。

 

 

 

 4月10日に再度LINEをした。彼が74歳で私が77歳だから、17日に会えるかどうか現在の体調を確認する目的も兼ねて、時間と集合場所の連絡を取り合った。

 

 

 

 彼から返信があった。

 

 

 「楽しみにして元気を維持しております。11時30分に旧S銀行梅田支店1階ATMコーナー前でお待ちしています」

 

 

(大阪・梅田の阪急百貨店コンコース。写真左側が集合場所だった。)

 

 

 

 まだH君のことを書いていなかった。

 

 

 H君は若い頃同じ銀行に勤務し、私が銀行を退職してお世話になった会社に出向転籍してもらった仲だ。銀行時代は大阪と東京に分かれていたため、私は顔を知っている程度だった。

 

 

 しかし、私が先に勤務していた会社に、彼が出向してきた時からずっと親しく付き合い今に至っている。その会社に一緒に勤務した期間は5、6年だったが、私が退職した後も時々会って旧交を温めてきた。

 

 

 

 約束した11時半まで時間があったので、私はまず集合場所を確認しに行った。しばらく梅田の街も歩いていないし、大阪駅周辺は大きく変貌していると聞いていたから、迷わないように事前に見ておこうと思ったのだ。

 

 

 

 少し早めに梅田に来たのには他に目的があった。

 

 

 御堂筋線の隣の駅「淀屋橋」で降りて、界隈を歩きたかったのだ。

 

 

 

 私は1971年(昭和46年)、福岡支店から大阪の瓦町支店へ転勤になった。当時まだ独身で寮は甲子園球場の近くにあり、私は1年間阪神電車と地下鉄・御堂筋線で、甲子園~梅田~淀屋橋のルートで通勤した。

 

 

 

 ・・・当時、阪神電車から地下鉄・御堂筋線に乗り換える地下通路では、かっぽう着姿のおばさんが数人、地下鉄切符の立ち売りをしていた。11枚綴りの回数券をばら売りしていたのだ。10枚売って元を取り11枚目が儲けという商売だった。私は定期があったから利用した記憶はないが、乗客にとっては切符売り場まで行く面倒が省け便利だったのだろう。

 

 しかし今回調べてみたら、前回の万博が始まる前に街のイメージアップのために、回数券の切り離し使用が禁止され切符を立ち売りするおばさんたちの姿は消えた・・・とあった。

 

 前回の大阪万博は1970年(昭和45年)に開催されている。私がまだ福岡支店に勤務している頃で大阪に転勤になる前だ・・・とすると、通勤の途中で私が見たという記憶は怪しい・・・研修で大阪に来た時だったのかもしれない。

 

 

 

 集合場所を確認した私は、地下鉄の改札口に向かった。地下鉄の車輛が、私の記憶にかすかに残るカーブを曲がって「淀屋橋」駅に着いた。私は52年前と同じように本町側の出口に出た。上がれば私が勤務していた旧S銀行の本店だ。

 

 

 

 私が勤務していた頃の本店ビルは既に2017年に建て替えられ、21階建ての高層ビルになっている。

 

 

( 旧S銀行本店ビルの現在。昭和53年に東京へ転勤する直前はここにあった旧ビルで勤務していた。)

 

 

( 現在のビルに貼られていたポスター。ラグビー好きの私だが、旧勤務先がラグビー「リーグワン」のプリンシパルパートナーを務めていることは知らなかった。)

 

 

 

 旧本店の回りをしばらく散歩した後、私は10分ほどかかる銀行員時代の2番目の職場・瓦町支店に歩き始めた。

 

 

 

 この界隈は碁盤目状の街づくりになっているから、どこで曲がってもたどり着ける。伏見町、道修町、平野町、淡路町、そして瓦町と懐かしい表示の通りが続く。大阪の街は南北の道は御堂筋、堺筋のように「筋」、東西を走る道は「通り」という名付け方をしていることを思い出した。

 

 

 

 ・・・歩きながら何か寂しい気がしてきた。

 

 

 まず街を歩く人が少ない。火曜日の午前10時頃というのに・・・

 

 

 リモートワークがここまで浸透しているのかと思いつつその一方では、私が勤務していた50数年前とは比較にならないほど高層ビルが増えているのに、ビル経営の採算は大丈夫なのだろうか・・・と心配してしまう。



  対面で商談をするとか銀行の窓口に行く、また書類などを人手で届けるといった業務が少なくなり、仕事のスタイルも大きく変わってきているのだろう。

 

 

 

 この界隈は、北浜の証券会社から始まり、道修町の薬業関連、そして淡路町、瓦町あたりから船場にかけて繊維関連の企業が密集している大阪のビジネスの中心だ。私も50数年前、融資係で繊維関連の担当者として勉強させてもらった。

 

 

 

 懐かしい瓦町支店に着いた。

 

 

( 私が瓦町支店を離れて20年後の1995年、現在のビルに建替えられた。それまでは前身のY銀行本店らしい重厚な造りの旧い建物だった。)

 

 

 

 さて、懐かしい通りを歩いていると、50数年前にはまだあった個人商店がほとんど姿を消していた。私が通勤していた頃は魚屋さんなどもあり暮らしの匂いがまだあった。


 

 今では周辺には高層マンションはあるようだが、生活の香りが消えどこか無機質に感じた。昔担当していた会社の看板がいくつか目に入った。しかし、予想はしていたものの当時よく通ったご夫婦で営んでいた喫茶店は影すらなかった。

 

 

 

( 道修町界隈にはまだこうした建物も残っていた。道修町は江戸時代から薬問屋が集まっていた薬の街で、現在も製薬会社が多い。)

 

 

 

 気温が25度近くなった17日、汗をかきながら歩いた私は、「淀屋橋」駅に戻る途中、 ”冷コー” いや、アイスコーヒーを飲みたくなった。地元の個人経営の喫茶店をさがしたが無かったので、仕方なく「ドトールコーヒー」に入った。歩きながら目に入ってくるのは全国展開のコーヒーチェーンだけだった。寂しいというか味気ない気持ちになっていた。

 

 

 昔は「アイスコーヒー」と注文すれば、「冷コー! ひとつ!」と注文を取り次いでいた大阪の喫茶店。最近はどうなんだろうか。そういえばその頃は “コールコーヒー” と言う人もいた。

 

 

 冷たいコーヒーを飲みながら、欧陽菲菲さんの「雨の御堂筋」を聴きたくなった私は、スマホでYouTubeを開いた。

 

 

 この曲は、私が大阪に転勤してきた1971年(昭和46年)に発売され大ヒットしたザ・ベンチャーズ作曲の名曲だ。私にとっては、歌うのは欧陽菲菲さんでないといけない。

 

 

 この曲を聞けば、昭和46年頃の淀屋橋、瓦町界隈が目に浮かび、九州から大都会・大阪に転勤してきた頃の、不安で一杯だった24歳の自分を思い出す。

 

 

( 「雨の御堂筋」のYouTube。▷をクリックすれば曲が流れます。)

 

 

 

 さて、大阪のシンボルともいえる御堂筋は、梅田から難波まで大阪のど真ん中を南北に走るメインストリートだ。

 

 

 銀杏並木がずっと続き、秋の黄金色に染まる時もいいが、銀杏の新緑が街灯の灯りに照らされて輝く時期も実に美しい。眺めながら南に歩くとあっという間に難波に着く・・・

 

 

 

 ところで、大阪に足を踏み入れると戸惑うことがいくつかある。そのひとつがエスカレーターの立ち位置だ。

 

 

 関東は左側に立ち右側を空けるが大阪では逆だ。1970年に開催された前回の万博の時、多くの外国人が大阪を訪れるのに備え、国際標準の右立ちを徹底したと聞いていた。しかし、今回調べたらその3年前、阪急電鉄が移転した新しい梅田駅で右立ちをアナウンスしたのがキッカケという記事が多かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 淀屋橋、瓦町界隈の懐かしい散策を終えた私は、再び梅田に引き返し、打ち合わせていた集合場所でH君と久しぶりの再会を果たした。15分前に行ったらH君はすでに待っていた。

 

 

 

 若い頃、梅田支店に勤務していたH君はこの界隈に詳しい。

 

 

 彼が銀行時代担当し親密だった企業が経営する店に案内してくれた。20数年前一緒に働いていた頃のエピソードに加え、会えなかった間にあった出来事や、お互いの健康状態などを酒肴に3時間近く酌み交わした。

 

 

 温かいそして、懐かしい楽しい時間だった。

 

 

 

 

 ・・・帰京する新幹線でふと思った。

 

 

 今回、関西弁をあまり耳にしなかったなあ・・・と。

 

 

 わずか一日の滞在だったことに加え、夜の繁華街や大阪のディープな街に行かなかったこともあるが、関西弁を確かに聞くことが少なかった。

 

 

 昨年10月博多に行った時も、懐かしい博多弁を聞いたのは、寿司屋の大将夫婦との会話だけだった。私の故郷・鹿児島でも、若い人たちはもう鹿児島弁を使えないと聞く・・・

 

 

 

 3年を超えるコロナ禍で、マスクを外せなくなり会話自体が減ったこともあるが、進学や就職、出張や転勤、旅行などで人の移動や交流が昔よりはるかに大きくなって、各地の暮らし方や言葉が交じり合う時代になった。

 

 

 

 昔から日本の均一化に大きな影響を与えてきたのは、テレビの普及やスーパーやコンビニに見られる小売業態の変化だった。平成以降はそれに加え、ネットを通じて暮らしや生活文化の同質化・均一化が一層進んだ。

 

 

 その結果、日本全国どこに行ってもロードサイドや街中には、飲食や小売業の全国チェーンの同じ看板が並び、街中では同じ言葉、用語が定着し、日本全体が同質化されてきたような気がしてならない。

 

 

 

 ・・・こうして、地域ごと地方ごとの特色や伝統、独自性が失われてくると、旅が単調になり少し面白くなくなってきたなあ・・・と考えていたら東京に着いた。

 

 

 

 

(注)阪急百貨店コンコースの写真とYouTube「雨の御堂筋」は、ネットよりお借りしました。ありがとうございました。

 

 

 

 

 ・・・4月22日、近くの公園の新緑がきれいだったので写真を撮ろうと構えたら、女の子が「おじさん、なに撮ってるの?」と訊いてきた。「緑がきれいだから撮ろうと思って・・・」と話したら、「そうなんだ!」といって広場の方に駆け出していった。

 

 

 ・・・こうした小さな会話だけでも高齢者は嬉しい。

 


 ”おじいさん” ではなく ”おじさん” と言ってくれたことがその理由ではない(笑)。

 

 

 

( 同じ公園の花壇。)