先週投稿した “残像のいい人”(その1)では、就職氷河期に大学を卒業したが就職せず、作家を目指したものの諦めたひとりの若者を紹介した。

 

 

 そして、その若者はあらためて就職活動をしたもののうまくいかなかった。その後、サラリーマンとしての就職を断念、”ひとり出版社” を起業した。島田潤一郎さんだ。

 

 

 

 今週は、その起業前後の奮闘記「あしたから出版社」を引用茶色文字の部分しながら、島田さんが創業した「夏葉社」の草創期の様子を紹介したい。

 

 

 そしてその中で、島田さんの本や人生への思いを少しでもお伝えできたらと願っている。

 

 

 

・・・出版社で仕事をしたことはあった。けれどぼくがやっていたのは、編集ではなく、営業や顧客対応などの裏仕事だった。

 

 

 じつは起業するにも、彼には出版の実務経験もなく創業資金もなかった。結局、彼は父親から200万円を借りて ”ひとり出版社” の設立準備に入る。

 

 

 

・・・「編集をやったことがないんだけど、編集ってどんな仕事なんだろう」ぼくは重ねて聞いた。すると、知人は、編集とは実務ではなく、作家や、デザイナー、印刷所などをコーディネイトする仕事だと思うと教えてくれた。

 

 

 

 2009年9月、父親からの借金に貯金200万円を合わせた中から、資本金300万円で株式会社夏葉社を吉祥寺に設立した。事務所としてマンションの1室を借り、テーブルなど備品を購入し、ホームページを自分で作ってスタートした。

 

 

 

 しばらくして、島田さんを気にかけてくれているSさんという年上の編集者が、「毎日何をしているの?」と遊びに来てくれた。そして翌週小さな編集の仕事を回してくれた。原稿のチェックだったが初めての編集の仕事だった。

 

 

 

 (その1)に書いたが、彼が最初に作りたいと思った本は、従兄・ケンを32歳の若さで亡くした高知・室戸に住む叔父と叔母に贈りたい一篇の詩を載せた本だった。

 

 島田さんは1学年上の従兄・ケンとは兄弟のように一緒に育ち、仲が良かった。

 

 

 

 そして彼自身も、その本を手がかりに、自分の末来を切り拓いていきたいと思っていた。

 

 

( 島田さんが本を作って生きていく・・・と決心することになった舞台、高知県室戸の町と室戸岬。)

 

 

 

・・・一編の詩で本を作る。さて、どうしようと思った・・・イメージしていたのは、詩と、イラストの本だった。

 

・・・ぼくは自宅の本棚で・・・児童文学の数少ない蔵書のなかから「ノーラ 12歳の秋」を見つけた・・・高橋和枝さんというイラストレーターによる、自信なさげで、けれど、強い意志を感じるモノクロの線画は、ぼくが探している絵とどこか重なっていた。

 

 

(  高橋和枝さんのイラスト・・・「さよならのあとで」から )

 

 

 島田さんは、面識のないその高橋和枝さんにイラストをお願いしようと、彼女のブログ経由で思い切ってメールを送る。そして「検討します」との返信を受け、彼女と会うことになる。

 

 

 ・・・「自信はないけど、やってみます」そんなようなことをおっしゃった。それで、なにも知らないぼくは、早ければ再来月の12月くらいには本ができるのだと思った・・・遅くても、来年の1月には刊行できるだろう、と思っていた。

 

・・・打ち合わせをした1週間後に、ぼくは、「いつごろできそうですか?」と高橋さんにメールをした。1月には本を出したいんですけど、とさらにメールを出すと、さすがにそのスケジュールでは無理です、もっと時間が必要です、返事が戻ってきた。

 

・・・そのメールを見て、ようやく、あせってきた。このままだと間違いなく、資金は底をつく。本を一冊も出さないうちに、夏葉社はつぶれてしまう。
 

・・・詩の本がしばらくできなのであれば、そのあいだに文芸書の復刊をやろう、と思った。

 

 

 

( 私は「あしたから出版社」を読みながら、この挿入写真に目がとまった。多数が乗るエスカレーターと逆方向のエスカレーターにひとり乗る島田さん。なにか彼の生き方を暗示しているように見えた。)

 

 

 

 ・・・島田さんはすぐ動いた。バーナード・マラマッドの「レンブラントの帽子」を復刊したかった島田さんは、翻訳者や旧版元の了承を得る必要があった。さらに当然のことながら、原作者であるマラマッドの遺族から復刊の了承を得る必要があった。

 

 

 ・・・その一方で、「レンブラントの帽子」の存在を、若い頃教えてくれた詩作家で随筆家の荒川洋治さんに、復刊本の巻末にエッセイを書いてほしいと依頼する。荒川さんとは学生時代の市民大学で会っただけの関係だった。

 

 

 ・・・そして装丁を、蔵書で接し尊敬していた和田誠さんに依頼できたらと考えていた。ただ、和田さんとは全くパイプがなかった。それでも島田さんは、片思いの気持ちを伝えるかのように和田さんに手紙を書く。

 

 

 ・・・1週間経過しても和田さんから何の返事も無かったので、思い切って失礼な手紙を送ったお詫びの電話をする。本人が出て「手紙は拝見しましたよ。でも、あの原稿じゃ読めないよ」「もう一度、ちゃんとしたゲラを送って。それから考えるから」

 

 

 ・・・1週間ほどして知り合いに作ってもらった美しいゲラを再送し、電話すると、「早かったね」「そこまでいうなら、やりますよ」と和田さんは引き受けてくれた。

 

 

 ・・・了解をとるべきところからすべて了承を取り付け、巻末文を荒川さんにお願いできた上に、装丁を著名な和田誠さんにやってもらうことになった島田さんは有頂天になる。ほぼ「レンブラントの帽子」を出版できる見込みの立った島田さんは営業に回る。

 

 

 ・・・ぼくは編集者というよりは、そのものづくりの、見習いの職人のようなものであって、その職人はやっぱり、書店に直接行き、きちんと頭を下げて、「心を込めてつくりました」と説明すべきだと思った。

 

 

 

 まだ一冊の本も出版していない「夏葉社」の資金繰りは大変だった。島田さんは、「レンブラントの帽子」を出版するにあたって、さらに母親から200万円借りている。

 

 

 

 ここで、「あしたから出版社」の解説を書き、先週紹介した頭木弘樹さんの話を転記しておこう。島田さんのいわば ”異端児” ぶりがよくうかがえる話だ。

 

 

 ・・・私が夏葉社を知ったのは、たまたまだった・・・マラマッドを読みたいと思って、翻訳書を調べたのだが無い・・・ところがちょうど新刊が出ていた・・・出版社を見たら「夏葉社」。(残念なことだが)マラマッドがそんなに売れるはずもない。旗揚げの1冊目に、そんなに売りにくい本を出したのでは、たちまち会社が傾いてしまいかねない。

 

 ・・・しかし、装幀がどう見ても和田誠なのだ。そして巻末には荒川洋治の書き下ろしのエッセイが入っている・・・もしかすると、かなりベテランの編集者なのか?・・・志の高い人なのか。いずれにしても、ぜひ応援したいと思った。

 

 ・・・しかし、島田さんの話を聞いて、なるほどと思った。発行部数を決めるときも、あの書店なら何冊売れるはず、この書店なら何冊売ってくれるはずと、実際の書店を頭において、そこから決めるから、売れ残らないというのだ。これは衝撃だった。コペルニクス的転回だ・・・たしかに、いい書店には、いい読者もついているはずで、言われてみればなるほどだ。

 

 

 

 一方、従兄のケンを亡くした叔父と叔母を慰め励ますための、詩とイラストの本「さよならのあとで」は、なかなかうまくいかなかった。

 

 

 

( なかなか進まない「さよならのあとで」の原稿。クリップで止めた原稿の汚れがそれを物語っている。)

 

 

 

 そうした中、関口良雄著「昔日の客」という随筆本の復刊を、京都の古本屋「善行堂」の店主から勧められる。この店主を紹介してくれたのは、当時ツイッターで島田さんを応援してくれていた詩人だった。

 

 

 

 その「昔日の客」を読んで感激した島田さんは、「復刊させてほしい」とすぐ関口さんの遺族に手紙を書き了承を得る。出来上がった復刊版「昔日の客」は、初版2500部はたちまち売り切れ、すぐ増刷となった。

 

 

 

 3冊目は上林暁さんの短編集「星を撒いた街」だった。これも「善行堂」の店主の勧めだった。

 

 

 

 

 ところが、「さよならのあとで」をモノクロで作ると決めて1年が経過した2011年に、東日本大震災が起きた。

 

 

 

 制作はふたたび進行が止まってしまった。

 

 

 

 しかし震災後、石巻にボランティアに行き、東京に帰ってくるなり「さよならのあとで」の制作に没頭した。

 

 

 

 大震災から10カ月後、島田さんはイラストを描いてくれる高橋和枝さんと会うが、彼女も大震災を経て自信を失っているようだった。それだけ大震災はすべての人の心にさまざまな影響を与えていた。

 

 

 

 「従兄のケンを失った叔父叔母を励ます本を作ろう」と決心してから、すでに3年が経とうとしていた。

 

 

 高橋さんの100枚を超えるイラストの作成や島田さんのさまざまな試行錯誤を経て、ようやく「さよならのあとで」は世に出た。

 

 

 

 

 

 

 最初に作りたいと島田さんが決意した詩とイラストの本は、こうしてようやく、夏葉社の4冊目の本として刊行されたのだ。

 

 

 

 この3年の時間をかけて生まれた小さな詩とイラストの本には、大切な人や親しい人を失った人たちから、多くの感想と感謝が寄せられた。

 

 

 2012年に出版された「さよならのあとで」は、昨年末ですでに第15刷になっている。

 

 

 

(「あしたから出版社」に登場する夏葉社の本 )

 

 

 

 ところで「あしたから出版社」の116頁に、島田さんは次のように書いている。

 

 

 『 ぼくはひとり出版社とうたっているが、ひとりではなにもできない。そのことを、会社を続ければ続けるほど、痛感するのである 

 

 

 たしかに、事務所には島田さん一人だが、自分の回りの多くの人々の助けがあって出版できたことを島田さんは淡々と書いている・・・

 

 著者、訳者、挿絵、装丁、選者・・・取次業者、書店員、街の本屋の店主、古本屋の店主・・・読者、ツイッターの読者・・・そして両親・・・

 

 

 

 読んでいてとくに感じることは、島田さんを知る人が彼の助けになるような人を、次から次に紹介してくれる風景だ。

 

 

 加えて、それまでの小さな縁をたどって、作りたい本のために「教えてください、助けて下さい」とお願いに行く島田さんの行動力、また、それまでまったくパイプの無い人に、手紙やメール、電話で ”果敢に” 飛び込んでいく島田さんの勇気・・・

 

 

 最後は、やはり島田さんの持つ人間力だなあ・・・と思わせてくれた本だった。

 

 

 ・・・やはり ”残像のいい人” なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 (ご参考)この本を読み終え、薦めてくれた次女の旦那さんにお礼のメールをしたら、返信にこうあった。

 

「・・・今の若い人が読んだ場合には、”彼は実家が太い” という言葉で反応するのかなとも思いました」

 

 ・・・私は ”実家が太い” という言葉を知らなかった。調べてみたら最近の若い世代が作った言葉のようで、「育った実家が裕福」という意味で使われているらしい。おそらく島田さんが、創業資金の援助をしてもらったことを指しているのだろう。

 

 格差がいわれている時代ではあるが、それはそれとして、自分の生き方を切り拓いていこうとする島田さんの強い意志や本へのこだわりも若い人には読み取ってほしいと思った。

 

 

 

 

(注)室戸岬の写真はネットより、その他は2冊の本からお借りしました。ありがとうございました。