「矢野博丈さん」と書いても、すぐにわかる人は少ないだろう。

 

 

 

 最近はテレビにも出演されていたので、人懐っこい笑顔の下の写真で「ああ、あのダイソーの社長さんか」と思われた方はいるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 そう、国内外で5350店舗を展開する100円ショップ「ダイソー」を経営する、株式会社大創産業の創業者で前社長の矢野博丈さんです。

 

 

 

 2月12日、80歳で逝去されました。

 

 

( 2024年2月20日付け朝日新聞)

 

 

 

 私は銀行勤務時代、1991年(平成3年)から1993年(平成5年)にかけて2年ほど広島市に赴任していました。

 

 

 

 大創産業さんはその当時の取引先で、私は時々東広島市にある同社を訪問していました。

 

 

 今日はその時の小さな思い出話を投稿させてもらいました。

 

 

 

 

 

 

 ところで、矢野さんが亡くなられたことを受けて、多くのメディアが訃報を伝えています。

 

 

 なかでも、出版会社・ダイヤモンド社の「ダイヤモンド・オンライン(以下DOL)」が哀悼の意を込めて、すべての読者に公開した6年前の2018年4月に配信した会員限定記事に私は惹かれました。

 

 

 この記事は矢野さん自身が同社に寄稿していますので、生々しい矢野さんの半生が伝わってきました。

 

 

 

 私が矢野さんの会社を訪れていたのは、今から30数年前、移動販売主体から直営の1号店を香川県高松に出される前後でした。現在の賑わう「ダイソー」の華やかな店舗など想像もできない頃でした。

 

 

 

 そのDOLの記事(青字部分)の一部をお借りしながら、矢野さんと大創産業さんの草創期の様子を振り返りましょう。

 

 

 ・・・マスコミの取材を受けたりすると、「昔の写真はないんですか」と聞かれるのだが、潰れると思ってやっているのに写真なんか撮るわけがない。実際、10年くらい前まで、本気でこの会社はすぐに潰れる」と思ってきた。

 

 

 この矢野さんの話は、2018年4月に配信されたDOLの会員限定記事より転記していますから、矢野さんが潰れると思っていた10年前ということは、2008年前後のことだ。

 

 

 ・・・大学を卒業して屑屋をやろうと思ったが、尾道にある奥さんの実家の鮮魚卸と養殖業を手伝うことになる。養殖業部門の専務をやるも、生き物相手の仕事の難しさを知り、兄弟から大金を借りたまま夜逃げ同然に東京にトラックで向かう。百科事典のセールスマンをやるもうまくいかず、チリ紙交換を始めた。チリ紙交換は儲かったが故郷・広島に帰る。バッタ屋、日雇い労働者などいろいろな商売をした。

 

 

 ・・・転機になったのはトラックでの移動販売だった。1972年のことである。大阪の日用雑貨の専門露店問屋があり、そこで「矢野商店」と書かれた2トントラックに満杯の雑貨を仕入れ、夫婦2人で各地を売り回った。小さいながら家族が食べるだけの利益が得られるようになった。

 

 

 ・・・移動販売だから売り場は毎日変わる。現場に着くと商品を並べ値札を付けて開店準備をする。ある日のこといつものように開店準備をしていると、待ちきれないお客が集まって来て勝手に段ボールを開けて商品をあさり始めた。そして気に入った商品を見つけると「これ、なんぼ?」と聞いてくる。

 

 こちらは商品の陳列の真っ最中だ。いちいち伝票を見て確認するのももどかしい。つい口をついて出たのが「100円でええよ」だった・・・これが100円ショップ誕生の瞬間だったわけだ。

 

 

 

 しかし事務所も兼ねていた自宅が放火にあい、トラックも在庫もすべて失った。保険は掛けていなかった。兄弟の支援もあり100円ショップを再開する。流れが変わったのは大手スーパーの店頭を借りて販売するようになってからだ・・・と矢野さんは寄稿している。

 

 

 

 ・・・社員を雇い、移動販売だけでなく常設店を構えるようになったが、いつまでたっても自信が生まれることはなかった。常に「こんな商売がうまくいくはずがない。ダイソーはどうせ潰れるじゃろう」と疑い続けていた。

 

 

 

 

 

 

 私が広島に赴任して前任者から引き継ぎ、大創産業さんを定期的に訪問し始めたのはこの頃だった。

 

 

 同社と私が勤務していた銀行支店との取引はそれほど大きなものではなかったが、時間が空くと30数キロ離れた同社にブラリと出掛けたこともあった。

 

 

 当時はおそらく今の本社の所在地ではなく、大きな分譲地の小高いところに事務所兼作業所の本社があったような記憶がある。

 

 

 一緒に酒を酌み交わしたりゴルフをしたことはなかったが、アポイントを取っていなくても、矢野さんはあの人懐っこい笑顔でいつも迎えて下さった。

 

 

 当時は移動販売の比重がまだ大きい時期だったので、事務所の前の作業場ではいつも、事務所近くにお住まいのパートと思われる主婦数人が、段ボールに生活雑貨の仕分けをしていた。

 

 

 赴任して間もない初めての訪問の時だったか、会社の業務内容を教えてもらっていた。

 

 

 日用雑貨の移動販売という小売形態を、それまでほとんど見かけたことが無かった私に、矢野さんが「ほら、スーパーの前にワゴンを広げて安いものを売っているでしょ。あれあれ! ”催事屋” ですよ」と、笑いながら説明されたのをよく覚えている。

 

 

 気さくで話が面白く、いつ訪問しても嫌な顔をされない矢野さんだったので、時間が空けば何回か車を走らせてもらったことがあった。その頃はまだとくに取引上の大きな話や懸案事項はなかった。

 

 

 

 しかし、気さくで穏やかな矢野さんでも、商売の面白さを話していただくことはあっても、DOLに寄稿されているような、それまでの波乱万丈の人生を私に話されることはなかった。

 

 

 

 ・・・冒頭にも書いたが「潰れるかもしれん」という強迫観念がなくなったのはここ10年のことだ。前述した「仕方ない」に加えて、もう一つ好きな言葉に「恵まれない幸せ」というものがあるが、人はあれこれと恵まれた瞬間に力が落ちていくものだ。常に自分は運も能力もない人間だと思っている方が頑張れる。実際、これまでの私はそうだった。

 

 ・・・「潰れるかもしれん」という気持ちが消えた時点で、私は経営者として潮時なのかもしれない。

 

 

 

 さて、DOLはじめ矢野さんに関する本や記事には、ネガティブで弱気な発言がよく紹介されている。

 

 

 これは、若い頃からいろいろ上手くいかず「自分は運がない」と思わされてきた矢野さんが、自分の手と足、目、耳でずっと確かめてきた、まさに ”地に足をつけた” 人生観だったのだろう。

 

 

 

 ・・・私はこのブログを書きながら、30数年前広島支店で一緒に働いていた部下のI君と半年ぶりに連絡を取り、電話で当時の大創産業さんと矢野さんの思い出話をした。

 

 

 

 私が広島を離れた後も1年くらい勤務していたI君が、その後の様子を教えてくれた。

 

 

 「矢野社長は、よく奥さんとリヤカーを引いて生活雑貨を売り歩いていた頃のことを話しておられましたね・・・」

 

 

 「香椎さんが離任され東京に帰られてから、大創産業さんの直営店展開が本格化し始めました。新しい小売り業態だったので本部の調査部門の担当者にも帯同してもらい、いろいろ矢野さんに話を伺いながら打ち合わせ、大創産業さんを応援させてもらうことになりましたよ・・・」

 

 

 「その後も大創産業さんとは良い関係を維持し、取引も大きくなったと後輩から聞きました」

 

 

 ・・・・私はこのことを聞いてどこかホッとして嬉しかった。

 

 

 

 ところで、大創産業さんの『社是ーステートメント』にはこうある。

 

 ”世界中の人々の生活を ワンプライスで豊かに変える ~感動価格、感動品質~"

 

 

 

 ・・・短い期間だったが、30数年前の矢野さんとの交流を思い返しながら、『お客さんを第一に考えること・良質で安価な商品を届けること・楽しい買い物の機会を提供すること・・・』といった矢野さん自身の商売への思いは、あの人柄と笑顔のなかにすでにあったなあ・・・と勝手に納得していた。

 

 

 

( マレーシアのクアラルンプールにある「ダイソー」の店舗 )

 

 

 

 ・・・・今日も「ダイソー」の店内やレジ回りで、「これ、ほんとに100円なの?」「2000円でこんなに買えた、財布が助かる~」「これ、便利じゃない?」「えっ、こんなモノあるの! 気が利いてるね!」・・・・・いろんな驚きの声が聞こえてきます・・・・

 

 

 

 

(注)新聞記事以外の写真はすべてネットよりお借りしました。感謝します。またダイヤモンド・オンラインさん、矢野さんの寄稿を非会員にも公開いただきありがとうございました。