私もあと2か月で77歳になる。
ハッキリした記憶をたどれる過去を小学1年の頃からとすれば、約70年間の膨大な記憶や思い出を、日々の暮らしの中のさまざまな機会に再生することが多くなってきた。
その中にあった苦しかったことや辛かった記憶はいつか薄らいでいき、どちらかというと、懐かしい楽しかった思い出や記憶の方がはるかに数多く残っている。
先週のこのブログでは、12月26日の朝日新聞・コラム「折々のことば」で紹介された詩人・石垣りんさんの「せつない」という言葉が入った短文を紹介した。
じつは翌日27日の「折々のことば」でも、石垣さんが描いた心が暖かくなる昭和の情景に出会った。今週はその話を紹介しよう。舞台は「東京のある銭湯」、キーワードは「人のゆたかさ」である。
まず、そのコラムをお読みいただこう。
(2023年12月27日付け朝日新聞コラム「折々のことば」)
転記しよう。
お嫁にゆく、そのうれしさと不安のようなものを今夜分けあう相手がいないのだ、それで・・・・ 石垣りん
銭湯で、一人暮らしと思しき女性から、衿を剃って下さいと剃刀を差し出された。明日「嫁入る」のだと言う。前夜に「美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじをたれている」と、詩人は思った。こっちがお礼を言いたいほどだったと。随想「花嫁」(『朝のあかり』所収)から。
私のてもとには、この短い随想「花嫁」を収めた石垣りんさんのエッセイ集『朝のあかり』が無いので、この短文「花嫁」をネットで検索してみた。
あった。
2012年6月に「chuo1976」さんのブログ「心のたねを言の葉として」に、その全文と思しき文章が、タイトルに『花嫁 石垣りん』と付けて掲載されていた。
転記させてもらいました。
『花嫁』 石垣りん
私がゆく公衆浴場は、湯の出るカランが十六しかない。
そのうちのひとつぐらいはよくこわれているような、小ぶりで貧弱なお風呂だ。
その晩もおそく、流し場の下手で中腰になってからだを洗っていると、見かけたことのない女性がそっと身を寄せてきて「すみませんけど」という。
手をとめてそちらを向くと「これで私の衿を剃って下さい」と、持っていた軽便カミソリを祈るように差し出した。剃って上げたいが、カミソリという物を使ったことがないと断ると
「いいんです、スッとやってくれれば」
「大丈夫かしら」
「ええ、簡単でいいんです」と言う。
ためらっている私にカミソリを握らせたのは次のひとことだった。
「明日、私はオヨメに行くんです」
私は二度びっくりしてしまった。
知らない人に衿を剃ってくれ、と頼むのが唐突なら、そんな大事を人に言うことにも驚かされた。でも少しも図々しさを感じさせないしおらしさが細身のからだに精一杯あふれていた。
私は笑って彼女の背にまわると、左手で髪の毛をよけ、慣れない手つきでその衿足にカミソリの刃を当てた。
明日嫁入るという日、美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじをたれている、と思った。
剃られながら、私より年若い彼女は、自分が病気をしたこと、三十歳をすぎて、親類の娘たちより婚期がおくれてしまったこと、今度縁あって神奈川県の農家へ行く、というようなことを話してくれた。私は想像した、彼女は東京で一人住まいなんだナ、つい昨日くらいまで働いていたのかも知れない。
そしてお嫁にゆく、そのうれしさと不安のようなものを今夜分けあう相手がいないのだ、それで・・・。私はお礼を言いたいような気持でお祝いをのべ、名も聞かずハダカで別れた。
あれから幾月たったろう。
初々しい花嫁さんの衿足を、私の指がときどき思い出す。
彼女いま、しあわせかしらん?
(東京都台東区の銭湯「三筋湯」)
また、2015年9月に投稿された『読むと心が暖かくなる文章 「花嫁」石垣りん』というタイトルのブログに、次のように書いて上記と同じ全文が紹介してあった。
・・・作家「清水義範」の文章読本に、読むと心が暖かくなる文章の実例として、詩人の石垣りんさんの「花嫁」という短文が引用されていました。たしかに読んでいてふと心が和み、いい気分になる文章と思うので紹介します。この「花嫁」という短文が雑誌「暮しの手帖」に掲載されたのは1967年(昭和42年)だった。その当時は銭湯利用は当たり前のことでした・・・
今週のブログは、この花嫁と石垣りんさんの銭湯での出会いと何とも言えない暖かいやり取りをお伝えしたかっただけです。
だから、朝日新聞の鷲田清一さんのコラムと石垣さんの随想全文を、読者の皆さんにそのままお届けするだけで十分だと私は思っていますので、今回の本文はここまでです。
( 随想「花嫁」を所収しているエッセイ集「朝のあかり」。全文を読みたくなった私はAmazonに発注した。中古本で724円だった。)
・・・ここからは、私がこの短い随想を読みながら勝手に想像したこと、思ったことですのでよろしかったらお読みください。この短文が伝えたかったことを解説したり、補完するものではありません。
まず、石垣さんがこの「花嫁」を書いたのが、「暮しの手帖」に掲載された1967年(昭和42年)とすれば、彼女は47歳だった訳だ。衿を剃って下さいと頼んできた女性が30歳台前半とすれば一回りちょっとの年の開きであっただろう。母親と娘というほどの年齢の開きではないが、生涯独身だった石垣さんの目には、この細身の花嫁はどう映ったのだろうかと思ってしまった。
石垣さんは当時まだ銀行員として働いていた。また経済的には必ずしも豊かとは思えない花嫁も、文中で石垣さんが推測しているようにその前日まで働いていたとすれば、日頃似たような時間帯にこの銭湯を利用していたかもしれない。文中にも ”その晩もおそく、流し場の下手で・・・” とある。
石垣さんは ”見かけたことのない女性がそっと身を寄せてきて・・・” と書いているが、花嫁は石垣さんを銭湯で時々見かけていたのかもしれないと思った。そして石垣さんの銭湯での普段の振舞いや雰囲気から、もし結婚式前夜の銭湯でご一緒だったら、衿を剃ってもらえないか頼もうと思っていたかもしれない・・・と私は勝手に推測していた。
私はこの風景を頭に描きながら、まるで昭和映画の巨匠・小津安二郎監督作品のいちシーンを見ているような錯覚に陥っていた。
文中に ”美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじをたれている・・・” という部分がある。ここに2回出てくる ”ゆたか” という言葉の対比がじつに鮮やかだ。
この銭湯での暖かい出来事があってから50数年経過しているが、間違いなく先に出てくる ”ゆたか” さは広がった。しかし後に出てくる ”ゆたか” さは、果たしてどうだろうか。
私は人間の喜びは、悲しみや怒りと同じだけ生まれ広がると思いたいのだが、今の時代、そうした喜びを感じたり表現することにどこか遠慮してしまう、抑えてしまう風潮があるような気がしてならない。
さて話は変わるが、私は6歳から11歳までと15歳から22歳までの入浴は銭湯だった。厳密にいうと11歳までは、鹿児島・霧島温泉郷にある集落の共同浴場に毎日入っていた。
友だち連中とはよく共同浴場で一緒になり遊んだが、たまには大人に怒られた。親父や母親とは夕方暗い中を行燈を片手に歩いて行った。標高の高い霧島は冬は冷え込む。温泉から上がって家に着く頃には、濡れたタオルが凍って固くなることもあった。懐かしい思い出だ。
博多での都会育ちの妻も小さい頃、銭湯の一番風呂に入ってよく友だちと泳いだ・・・という思い出話を時々する。
他人と一緒に入浴する銭湯や共同浴場では、不思議と多くの思い出が生まれるものだ。
( 山形県・蔵王温泉の共同湯。私が昔利用していた霧島温泉郷の共同浴場に雰囲気がよく似ている。)
また、21世紀は ”個” の時代でもある。
暮しのさまざまなシーンが、個人で、お一人様で過ごせる仕組みや商品で満たされている。他人と接点を持つ機会を我々は意識して減らし、ひとりで済ませてくださいという社会をあえて作ろうとしているようにみえる。
”人間の喜びのゆたかさ” が外に伝わる、その喜びのゆたかさに触れて、そのご本人に ”お礼を言いたいような気持” になる機会が生まれることはますます減っていく・・・
最後に、1月8日の朝にあった小さなエピソードを書いておきます。
私たち夫婦は恒例の我が家の合同新年会を上野で開催するため、最寄り駅に徒歩で向かっていた。
すぐ近くの写真館の前で着飾った娘さんがお母さんと一緒に車から降りてきた。成人式の写真撮影とすぐわかった。
その母娘は付き合いのない知らない家族だったが、私たち夫婦はどちらからともなく「おめでとうございます」と声を掛けた。妻はさらに「おきれいですねえ、良く似合っていらっしゃいますね」と添えた。
朝から良いモノに出会ったなあ・・・という気持ちで、しばらく駅に歩いていると妻が言った。
「運転席でお父さんもニコニコ顔だったよ」
その家族の喜びのゆたかさに触れたような気分だった。
(ご参考) 石垣りんさん
石垣りんさん(1920年・大正9年~2004年・平成16年 84歳没)は、日本の詩人。東京生れ。1934年赤坂高等小学校を卒業し、14歳で日本興業銀行に事務見習いとして就職。以来1975年の定年まで勤務し家族の生活を支えた。はじめ、少女雑誌に詩を投稿し1938年仲間と同人誌「断層」を創刊。銀行員として働きながら詩を次々と発表。第19回H氏賞、第12回田村俊子賞、第4回地球賞受賞。
(注)新聞記事以外の写真はすべてネットよりお借りしました。ありがとうございました。