NHKに『小さな旅』という40年の歴史を持つ紀行番組がある。

 

 

 先週だったか、久しぶりに見た『小さな旅』の舞台は「北千住」だった。妻と見ていて 「北千住はいつも電車で通っているけど、乗り換え以外ほとんど歩いたこともないね」 とふたりの話が一致した。

 

 

 いつでも行ける・・・と思えば、なかなか行かないものだ。私が東京タワーに初めて登ったのは、首都圏に住んで43年目の一昨年だった。

 

 

 さて、この放送時間25分という短い紀行番組は、観光名所を訪ねたり美味しい店を紹介したりはしない。訪れた街の暮らしやそこに住む人々を紹介する番組だ。

 

 

 

 ところで、私は東京の中でも「お茶の水・神保町界隈が好きだ」ということは、このブログでも何回か書いてきた。

 

 

 

( 駿河台の「明大通り」から水道橋方面に伸びる「とちの木通り」の歩道に埋め込まれたプレート。「マロニエ通り」とも呼ばれていたような記憶がある。平成7年頃私はこの通りを1年間通勤で歩いた。)

 

 

 

 この街が好きな理由は、今まで書いたブログの中で言及しているが再掲しておこう。(注・最後に、これまで書いたお茶の水・神保町関連の投稿ブログを添付しています。)

 

 

 丸の内線・千代田線という通勤路線の沿線だったこと・長い間勤務した大手町から歩いて10数分だったこと・出向した会社の本社があったこと・娘たちが高校と大学を過ごした街だったこと・・・そして、私の好きな食べ物屋、書店、喫茶店等が点在していたことだろうか。

 

 加えてかなり建て替わったものの、著書を通じて存じ上げる方々と関係の深い「文化学院」や「アテネ・フランセ」、「山の上ホテル」ほか、昔の建物が当時を偲ばせる形で残っていることも大きい。

 

 

 要するに、そうしたものと私の思い出が混在して醸し出す街の空気がなんとも心地よいのだ。

 

 

 

 ついでに、54年前、私が初めてお茶の水界隈を歩いた思い出を書いておこう。2018年5月投稿のブログより)

 

 ・・・九州で学生時代を過ごした私には、昭和40年代の大学紛争や、活字を通して見聞きする東京の学生文化の場面場面で、お茶の水や神保町という街の名前を目や耳にするのが多かったこともある。1969年(昭和44年)大学4年の最後の春休みに小旅行で上京した。私にとってはたしか2回目の東京だったが、その2か月前にあった「東大安田講堂事件」の現場にも足を運び、東大のある本郷からお茶の水界隈を歩きまわった思い出がある。今思えば4月からの就職を前に、なんとなく学生時代の自分なりの総括をしたかったような旅だった・・・

 

 

 

 さて5月11日、私は後発白内障の手術翌日の診察を10時半ごろに終え、お茶の水の聖橋近くにいた。

 

 

 

 写真左側のビルに眼科クリニックがある。奥に見える高い建物は東京医科歯科大学病院。お茶の水近辺には、他にも順天堂大学病院日本大学病院ほか大きな病院が多い。

 

 

 

 

 

 診察が終わったら、以前から気になっていた水道橋のラーメン屋に行こうと考えていたが、開店までまだ時間があるので歩いていくことにした。

 

 

 ついでに、3年半ぶりにお茶の水・水道橋・神保町界隈を散策しようと、私は “小さな旅” に出発した。

 

 

 

 眼科クリニックのビルの南側に、道路をはさんで建つニコライ堂(日本正教会・東京復活大聖堂)。お茶の水のシンボルの一つだ。1891年竣工。関東大震災後1929年に修復。

 

 

 

 

 明治大学駿河台キャンパス。この一帯には文科系の多くの校舎がある。写真の掲示板の最下段に「阿久悠記念館」の文字が見える。OBである作詞家・作家の阿久悠さんの作品や自筆原稿などの資料が展示されている。

 

 

 

 

 

 

 「明大通り」から「とちの木通り」に入り西に歩いていくと、駿台予備校の看板が見える。まさに “駿河台” の中心だ。この ”台地” は、北側は神田川に急激に落ち込み、西側へは「さいかち坂」、南側の神保町方面には「錦華坂」「男坂」「女坂」等で下っていく。

 

 

 

 写真にある歩道の並木が、「とちの木(マロニエ)」だ。

 

 

 

 

 

 駿台予備校2号館から50mほど歩いた右側に見えてくる、このアーチの入り口を懐かしく思う方々は多いだろう。

 

 2018年閉校になった「文化学院」の保存された建物の一部だ。1921年に創立された専修学校で多くの人材を輩出してきた。日本で初めて男女共学、男女平等教育を実施した。またキリスト教精神や西洋文化的教育を実施、多くの外国人教師を招いた。制服はなく私服でしかも洋服がほとんどだったらしい。戦時体制下での弾圧は当然だった。しかし創立の趣旨に賛成する多くの著名人、文化人が教師陣に名を連ねていた。

 

 

 

 

 

 さらに歩いていくと左手に「アテネ・フランセ」が見えてくる。こちらはピンクの建物が印象的な1913年創立の語学学校。「文化学院」同様自由な学風で、多くの仏語教師・文学者・翻訳家・通訳・言語学者等を輩出している。氏名は省略するが、昔の受講者のリストを見るといかに多くの人材がここで学んだかが分かる。

 

 

 

 

 

 さらに進むと水道橋方面への下り坂が始まる。「さいかち坂」だ。下り終わるとJR水道橋駅で、その向こうが「東京ドーム」だ。

 

 

 左側に見える「東京デザイナー学院」は、私が出向していた法人の経営する専門学校のひとつだ。1963年創立だから60年の歴史があり、これまで多くのアニメーター、漫画家、イラストレーター、デザイナー等を輩出している。

 

 

 

 

 

 

 冬季に5センチも雪が積もると上りも下りも大変だった「さいかち坂」を下り水道橋に着いた。

 

 

 私は今日の主目的だった「中華そば・勝本」に急いだ。

 


 開店時間の11時を少し過ぎていたが、前の歩道には10名ほどが並んでいた。すでに第一陣は入店していた。

 

 

 

 

 

 ほどなく順番が来て着席、出てきたラーメンが下の写真だ。

 

 

 食べながら荻窪の「春木屋」のラーメンに似ているなあと思った。「春木屋」より少し甘めだったが、ラーメンの旨さは優劣や勝ち負けではなく食べる人の好みだ。ここも美味しかった。

 

 

 

 

 

 

 今日の主目的を終えた私は、神保町の古書店街を回ってお茶の水方面に戻ることにし、白山通りを神保町交差点に向けて歩き始めた。

 

 

 ちょうどお昼とぶつかったので、ランチに出てきたサラリーマンで街は混み始めていた。

 

 

 ランチといえば30年ほど前、駿河台で勤務していた頃、「いもや」のトンカツ店によく通っていたがコロナ以前に閉店してしまった。天ぷらや天丼の店もあったがまだあるのだろうか。もともと学生街のこの辺りには安くて旨い店が多かった。

 

 

 

  ところで、私には気になっていた古書店がひとつあった。主にキリスト教関係の古本を扱っていた「友愛書房」だ。

 

 

 コロナ前までは年に数回訪問していたが、当時すでに「顧客が少なくなってきたなあ」と思っていたので、まだ営業しているかどうか心配だったのだ。

 

 

 やはり閉店していた。

 

 

 

 

 

 ネットで確認したら今年2月、75年の歴史に幕を下ろしたとあった。出版業界全体が厳しい経営環境になってきた昨今、宗教哲学分野を専門とする古書店の経営が難しくなってきたことは容易に想像できた。

 

 

 「友愛書房」閉店の記事を見て、同じく神保町にある「山陽堂書店」も気になったので調べたら、こちらもすでに閉店していた。「山陽堂書店」は、岩波書店やみすず書房の古本を専門に扱う古書店だった。

 

 

 私はこの店で、みすず書房からの出版が多く、その著書「生きがいについて」で知られる精神医学者・随筆家の神谷美恵子さんの書籍を揃えた。

 

 

 私が45年間お世話になったふたつの古書店が神保町から無くなっていた。寂しい限りだ。

 

 

 

 神保町交差点に着いた。写真にある岩波神保町ビルの10階にあった映画館「岩波ホール」はすでに閉館した。この7月29日でまる一年経つ。再開はしないのだろうか。

 

 

 

 

 

 私は、靖国通りの一本裏の通りを東に歩いた。

 

 

 「アカシア書店」の店頭に置かれたワゴンの古本を高齢の男性が手に取って読んでいた。”囲碁・将棋 趣味の古書” とあるが、ファンの方ならご存知の有名店らしい。HPを見たら、現在名人戦を戦っている藤井聡太棋聖もプロになる前、おばあさんと来店されたとあった。

 

 

 

 

 

 さらに歩くと、錦華通りにぶつかる手前に数年前まで「中華そば・伊峡」という老夫婦で営む小さな店があった。しかし数年前に靖国通りをはさんだ反対側に移転した。この店にもよく通った。素朴な味の醤油ラーメンだった。

 

 

 その近くに、写真のような雑居ビルが出来ていた。いかにも昭和を感じさせる佇まいだが、神保町は少しずつ変わっていることを改めて感じた。

 

 

 

 

 

 さらに歩くと夏目漱石が学んだ「錦華小学校」があったところに出る。現在は3校が統合され「区立・お茶の水小学校」となっているが、全面建て替えの工事中だった。また隣の「錦華公園」も工事中で閉鎖されていた。

 

 

 

 公園脇の急な坂を登ると「山の上ホテル」の裏手に出る。さらに明治大学の校舎にはさまれた「錦華坂」を登って「とちの木通り」に戻ってきた。

 

 

 

 やや歩き疲れてのどが渇いていた私は、明治大学前のサンマルクカフェに入った。そして一息入れてから、千代田線の新御茶ノ水駅に向い帰路に就いた。

 

 

 

 

 

 

 この日の歩数は9129歩だった。そのうち、お茶の水・神保町界隈を歩いたのは6000歩くらいだろう。ということは、約4㎞の私の「小さな旅」だった。

 

 

 

 当たり前のことだが、街はやはりその時代を反映し、その街で現在暮らしている人々、働いている人々、あるいは訪ねてくる人々にとって一番いい形に変化していく・・・

 

 

 社会でだんだん少数派になっていく世代、街に出掛けることが減っていく世代にとっては寂しいことだが、私たちも現役時代にはその街から多くの恵みやもてなしを受けてきた・・・

 

 

 私にとって、お茶の水・神保町界隈が、そうした街のひとつであったことは間違いない。

 

 

 

 

注)今まで投稿してきた、お茶の水・神保町界隈の散策ブログ4編を添付しておきます。よろしかったらお読みください。枠内をクリックすればお読みいただけます。

 

 

(2016年3月21日投稿)

 

 

(2018年5月31日投稿)

 

 

(2019年1月24日投稿)

 

 

(2019年10月10日投稿)