3週間前だったか、NHK・BSの10分番組『沁みる夜汽車』の中で、以前放送された「乗客が見守った”最後の電話”~JR長崎本線」を、このブログでご紹介しました。

 

 

 『沁みる夜汽車』は、不定期の放送なのでよく見逃すのですが、先月23日に全国から集めた鉄道にまつわる5つの物語を1時間番組にして放送していました。今日はその中から家族の思いやりや、ねぎらいあう気持ちの詰まった心温まる話を紹介します。そして、その40年ほど前の話を視聴しながら思ったことを書いてみます。 

 

 

 

 

 

 

 あらすじは、NHKの紹介から転記します。

 

 北海道に暮らす西谷旬子さん。子どものころ楽しみにしていたのが、母とふたり、JR千歳線に乗って札幌のデパートに行くこと。父と弟をふくめ4人家族だったが、デパートには3か月に一度、女性だけで出かけた。心ゆくまで楽しんで来い という父の思いやりだった。それに応えたいと父や弟に喜んでもらう贈り物も懸命に探す母と娘。夜はお土産のお披露目とごちそうで、ひときわにぎわう茶の間・・・家族の思いやりが光る、デパートの日。

 

(注・TVに登場した旬子さんと家族は一般の方ですが、ご家族のいい表情をお伝えしたくて、写真をTV画面から3枚お借りしました。ご容赦ください。)

 

 

 5つの物語すべてがそれぞれにいい話で、それこそ ”沁みて” きました。なかでも最初に紹介された『デパートの日』、この ”普通の家族の小さなエピソード” が心に残り、いつまでも私を温かい気持ちにさせてくれました。

 

 

 それはこの4人家族の年齢構成が、我が家とほぼ同じだったことが大きいかもしれません。ご両親は私たちの一つ上のようでした。そしてこの物語の主人公・旬子さんは私の長女と、弟さんは次女と同年齢でした。

 

 

( 40年位前の旬子さんのご家族。)

 

 

 

 私がすぐ思ったのは、お父さんの優しさでした。

 

 

 40年前と言えば、1983年(昭和58年)です。その10年前の1973年には高度成長期も終わり日本は安定成長期に入りましたが、時代はバブル前夜ともいえる好景気が続き、地価の高騰で混乱した世の中に突入しようとしていました。お父さんは市役所に勤務と紹介されていましたが、おそらく民間同様、大変忙しい時代だったと思います。

 

 

 そうした中でお父さんは、お母さんに3か月に一度「デパートの日」を設けて、娘の旬子さんとふたりだけで、ゆっくり札幌の街やデパートで楽しんできなさい と送り出していたということです。

 

 

 時代背景から考えると、一般的にはお父さんは家族のために朝早くから夜遅くまで一生懸命働き、家事と子育てはお母さんに全部一任していた時代です。旬子さんのお母さんにとっても、家事や子どもの世話から解放された貴重な1日だったことでしょう。

 

 

 

( お母さんが楽しみにしていた「デパートの日」は、旬子さんにも当然楽しみだったようです。お母さんを独り占めにできる日だった・・・と話していました。)

 

 

 

 ふたりはJR千歳線に乗って札幌に向かいます。

 

 厳密にいえば、40年前はまだJRではなく国鉄です。千歳線は札幌~苫小牧間、約70㎞を走っています。

 

 

 

 

 

 

 再現シーンで、札幌に着いたふたりは買い物を楽しみます。旬子さんはお母さんと一緒に、洋服をいろいろ探して試着しながら楽しそうです。

 

 

 そして、家で留守番をしているお父さんと弟へのお土産を探します。お父さんへのお土産はネクタイが多かったそうです。再現シーンでは、弟からブロックのおもちゃを頼まれていたようで、旬子さんはブロックの商品名を書いた紙切れを手にあちこちと探し回り見つけます。

 

 

 お母さんは、お父さんに似合うネクタイを探して、札幌市内のデパートを5つも回ったこともあったそうです。現在では、札幌のデパートも例外ではなく苦戦しているようですが、40年前はまだまだデパート全盛の時代でした。

 

 

 いろいろな店を回って比較しながら、目的のものを探して購入する行動を「買い回り」と言っていましたが、ネットでの買い物が主流になり始めた今でもあるのでしょうか。

 

 

( 再現シーン。お父さんのネクタイを選ぶふたり。)

 

 

 

 昼ご飯の時間になりました。お母さんはいつも自分の洋服などを買うことは少なかった・・・と旬子さんは記憶していました。しかし昼ご飯だけは、いつもお母さんの大好きな「鍋焼きうどん」だったそうです。

 

 

 

 いくつものデパートを回りながら、家族のためにより良いモノを探して買い物をするお母さん、自分のモノはほとんど買わず、ただ大好きな「鍋焼きうどん」をいつも美味しそうに食べるお母さんの様子を見ながら、旬子さんは何を感じていたのでしょうか。

 

 

 

(再現シーン。お母さんの好きな「鍋焼きうどん」を一緒に食べる。旬子さんも好きでした。)

 

 

 

 美味しいアツアツの「鍋焼きうどん」をお母さんとふたりで食べながらも、旬子さんは、お父さんや弟に申し訳ないなあ・・・という気持ちが消えなかったようです。

 

 

 そうした気持ちをずっと抱えながら、あっという間に家に帰る時間になります。もう少しお母さんと2人だけの楽しい時間を過ごしていたいという気持ちと、留守番をしているお父さんと弟さんへの思いが、旬子さんの中で交錯します。

 

 

 

 

 

 

 電車は朝とは逆に、家のある街に向かって札幌を出ました。

 

 

 家に帰り着きました。「もっとゆっくりしてくればよかったのに」と言いながら、お父さんと弟が笑顔で出迎えてくれます。その言葉を聞いて旬子さんは、「ホッとした」と回想していました。

 

 

 一生懸命探した2人へのお土産を渡し、夕飯を囲みながら旬子さんの家族が楽しそうに会話する声が聞こえます・・・

 

 

 

( 番組の最後に家族で出演されていたご両親。テーブルの上は昔のアルバムでしょうか。)

 

 

 

 さて、私は50歳まで銀行に勤務していましたが、第2土曜日が休日になったのが、旬子さんの思い出と同じ40年前の1983年(昭和58年)でした。それまでは土曜日でも夜まで残業していましたから、海外からの ”日本人は働きすぎ” という批判を受けて、他の土曜日も明るい時間に退社するようになりました。当時内勤だった私は、土曜日外に出ると太陽が眩しく感じたのを覚えています。

 

 

 

 ところで私は、2018年8月1日付けで 『68歳の母親が、44歳と42歳の娘に「絵本」を買ってきた。』 というタイトルのブログを投稿しています。

 

 

( 枠内をクリックすれば、開いてお読みいただけます。)

 

 

 

 私には、旬子さん姉弟と同じ年齢の娘たちがいます。彼女たちの小学校から中学校にかけての様子や情景を思い出そうとしても、なかなか出てきません。日曜日以外一緒に遊ぶこともなく、その日曜日もだんだん仕事上の付き合いで出かけてしまうことも多くなりました。

 

 

 

 上記のブログの中に書いている当時の様子を少し転記しておきます。 

 

 ・・・5月に絵本作家の「かこさとし(加古里子)」さんが亡くなられた時も、同じような気持ちになった。かこさんの絵本を知らなかった私は、疎外感をすこし味わいながら、家族のグループLINEでやり取りされる彼女たちのトークを読むだけだった。

 

 娘たちが小さかった頃、私がほとんど育児に目を向けなかったわけではない。しかし膝の上に乗せて絵本を読んであげた情景が全く頭に浮かんでこない。

 

 今から40年前の昭和50年頃、まだ土曜日は休みではなかった。よく働かされた時代だった。私は30歳前後だったが、それでも時間があれば、2人の娘を近くの公園に連れて行ったり、少し大きくなってからは、休みになれば今でいう「アウトドア」の遊びによく出掛けていた。

 

 妻は専業主婦だったので、2人の娘と一緒にいる時間は圧倒的に ‟お母さん” の方が長かった。その分、幼い娘たちの世話をしながら一緒に遊んだり、出掛けたりする機会は、‟お母さん” の方が多かったのは当然だった。

 

 とは言っても、4、5歳だった娘たちに絵本を読んで聞かせた思い出があまりないということは、「当時、育児は母親任せのところが多かったのだろう」と、40年経ってしまった今でも少しうつむいてしまう。

 

 

 

 だから、私は『沁みる夜汽車デパートの日』を見ながら、同時代を生きてきた旬子さんのお父さんのことを「優しいなあ」と感じたのでしょう。

 

 

 

 その娘たちも、今では母親になった。

 

 ふたつの娘たち家族を見ていると、長女は結婚後もずっと仕事を続け、次女も子どもが大きくなってから再び働き始めたから、ふたりとも専業主婦ではない。旦那さんたちも結構仕事が忙しいにもかかわらず、よく協力し合って家事や子育てをやってきた。

 

 

 40年前に比較して、家事に使う電化製品も進歩し、食事のありようも外食の増加、冷凍食品や加工食品の多様化などでだいぶ変わってきた。情報通信技術の飛躍的な進歩等で、旬子さんがお母さんとデパートに出かけていた40年前とは社会の仕組みがすっかり変わってきた。

 

 

 しかし時代が変わっても、世代を超えて家族の中で大事なもの、変ってはいけないものはあるはずだ。

 

 

 森田美由紀アナの飾らない淡々とした語りで進められる、わずか10分の短い番組『沁みる夜汽車デパートの日』は、そのことを改めて教えてくれたような気がした。

 

 

 

 

 最後に、先日「今年もこの季節になりました」のメールとともに、雛飾りの写真が送られてきた。その雛飾りは、娘たちが4歳と2歳だった1978年(昭和53年)に我が家に来た。今から45年前だ。

 

 

 今は、孫の中で唯一の女児がいる長女宅に飾られている。数年前から「全部飾ると部屋が狭くなるし、飾りつけや片付けが大変だ」と言って、内裏びなだけを飾るようになった。それにともない、三人官女・五人囃子以下の飾りはまた実家に戻ってきた。

 

 

 もうすぐ春が来る。旬子さんやご家族の住む北海道の春は、もう少し遅れるのだろうか。