9月26日(月曜日)、残念なニュースが届いた。

 

 

 私と同学年で元・西鉄ライオンズのエースだった池永正明さんが、25日に逝去されたという訃報だった。

 

 

 

( ありし日の池永正明さん。いい顔だ。享年76歳。後ろに最優秀新人賞や最多勝利投手賞のトロフィーが見える。)

 

 

( 池永さんの死去を知らせる9月27日の朝日新聞朝刊。)

 

 

 

 

 今から57年前の1965年(昭和40年)3月、18歳になったばかりの私は、福岡市にある大学に入学するため、鹿児島の田舎町から九州一の大都市・福岡に出てきた。その同じ春に高校を卒業した2人の球児が、福岡市を本拠地とする西鉄ライオンズに入団してきた。ひとりは関門海峡をはさんだ山口県の下関から、もうひとりは徳島県の最南端・宍喰町から九州にやってきた。

 

 

 下関商から入団したのが池永正明さんで、徳島県の海南高校から入団したのが尾崎正司さん、後のゴルフ界のレジェンド・ジャンボ尾崎さん(退団後、尾崎将司に改名)だった。

 

 

 池永さんの下関商は、1963年の春のセンバツで全国優勝、夏は準優勝、尾崎さんの海南高校は、1964年の春のセンバツで全国優勝を飾っている。ドラフト制度は2人が入団した翌年から導入されているが、2人とも今でいえばドラフト1位候補の筆頭だった訳だ。

 

 

 

( 入団直後の左・池永正明投手、右・尾崎正司投手。2人とも初々しい。中央は当時の西鉄ライオンズ・中西太監督。)

 

 

 

 しかし池永さんは、尾崎さんが「こんな凄いピッチャーがいたんじゃ、俺なんか投手で飯が食えるはずがない」と、野球を諦めゴルフに転向するきっかけとなった・・・というエピソードが残るほどの剛腕投手だった。

 

 

 

 ゴルフ界に転じた尾崎さんの大活躍は皆さんご存じの通りだが、プロ野球投手としての成績は、3年間で20試合登板、0勝1敗の戦績が残っただけだった。

 

 

 

 一方、池永さんは入団の年、20勝10敗で新人王を獲得、衰えの見えていた稲尾和久投手(1937年生~2007年没・別府緑丘高~西鉄)に代わって、一気にライオンズのエースになった。

 

 

 

 しかし、6年目に入った池永さんは「黒い霧(八百長試合)事件」に巻き込まれる。池永さんは、「先輩投手から預かってくれと言われたカネを押入れにしまっていただけで、絶対に八百長試合などしていない」と主張した。刑事事件としては不起訴処分になったものの、1970年5月、日本野球機構は池永さんを永久追放処分とした。池永さんはそれ以来、プロ野球のマウンドに立つことができなくなった。

 

 


 まだ若い23歳でプロ野球界を永久追放された池永さんは、プロ入りしてからの5年間で99勝、6年目の1970年も開幕後2ヶ月弱で4勝上げていたが、プロ通算103勝で終えることになってしまった。

 

 

 池永さんの5年2ヵ月間のプロ野球投手としての通算戦績は以下の通り。高卒で入団して5年、毎年約20勝あげていた計算だ。

 

 

 登板数238試合、うち完投92試合、うち完封24試合、10365敗 防御率2.36だった。見事な成績だ。

 

 

( 身長175cmと上背は大きいとは言えなかったが、滑らかながら力強いフォームだった。)

 

 

 

 永久追放になった後、西鉄ライオンズの先輩や友人知人たちが、池永さんの処分取り消しを求める署名運動を何回も起こしたが、なかなか復権の道は開けなかった。支援した先輩や友人の中には稲尾和久さんや尾崎将司さんらの名前もあった。しかしそうした地道な運動が実り、2005年4月25日に池永さんへの処分はようやく解除され、35年ぶりに池永さんは復権した。

 

 

 こうしてプロ野球の指導者や解説者等への道が開けたが、35年という時間はあまりにも長く、活躍の場は広がらなかった。

 

 

 池永さんについては、今年6月23日付けの下記ブログで少し詳しく紹介していますので、ご覧いただければ嬉しいです。(枠内をクリックすれば開きます。)

 

 

 

 

 

 さて、今年のプロ野球のペナントレースも最終盤を迎えた。25日にはセ・リーグで東京ヤクルトスワローズが優勝を決め、2連覇を果たした。パ・リーグの優勝は、ソフトバンクホークスかオリックスバファローズに絞られ、私が応援する埼玉西武ライオンズは今年も届かなかった。

 

 

 

 私は池永さんの訃報に接し、いつのまにか昔の西鉄ライオンズやプロ野球を振り返っていた。そして「昔の投手は本当に、毎日毎日よく投げていたなあ・・・」と、しみじみと当時の思い出にふけっていた。

 

 

 

 すこし数字を見てもらおう。

 

 

 池永さんがフルシーズン在籍した1965年~1969年の5年間平均と、今年の現時点でのプロ野球・現役投手第1位との比較です。(今シーズンは各チームとも残りわずか数試合となっていますが、数字は9月27日現在です。)

 

先発数 

池永正明(西鉄)35試合

セ・森下暢仁(広島)26試合  

パ・高橋光成(西武)26試合

 

完投数

池永正明(西鉄)18試合

セ・伊藤将司(阪神)6試合 

パ・山本由伸(オリックス)4試合

 

完封数 

池永正明(西鉄)5試合

セ・青柳晃洋(阪神)他 2試合 

パ・山本由伸(オリックス)他 2試合

 

投球回数 

池永正明(西鉄)285回

セ・森下暢仁(広島)173回  

パ・山本由伸(オリックス)186回

 

 

 ただ、プロ野球に詳しい方ならお分りでしょうが、昔と現在のプロ野球はだいぶ様相が変わりました。

 

 

 川上哲治監督時代の巨人に、リリーフ専門投手『八時半の男・宮田征典投手』が登場したのが、1963年(昭和38年)です。池永さんが西鉄に入る数年前に、日本プロ野球界にも「投手分業制」のきざしが芽生えていたのです。

 

 

 

 現在は、先発投手が6、7回くらいまで投げ切れば、あとはセットアッパーや抑えのリリーフ陣で逃げ切るという戦い方が基本になっていますから、完投や完封は極端に減りました。また肩への負担軽減の観点から、投球回数、投球数も管理されるようになっています。昔のように「先発投手は、1試合投げ切ってはじめて一人前」という風潮は消えました。

 

 

 

 ここで昔の驚くべき『鉄腕投手』の数字を紹介しておきましょう。

 

 

 

 若いプロ野球ファンから見ると信じられないような数字だと思いますが、それはそれで、当時はワクワクしながらラジオの実況放送や翌日の新聞を楽しみにしていたものです。

 

 

ひとつは年間勝利数

 

 

1961年(昭和36年) 稲尾和久(西鉄) 42勝(14敗)

 

 

( 若い頃の稲尾和久投手。)

 

 

 

 稲尾さんは池永さんが入団するまでの西鉄のエースで、通算276勝137敗の名投手でした。今年のセ・パ通じての最多勝利はおそらくオリックスの山本由伸投手の15勝か16勝だと思います。私の記憶では、最近の年間勝利数では、2013年の田中将大投手(楽天)の24勝(0敗)がダントツです。これも「投手分業制」が定着した中では凄い記録です。

 

 

 

 稲尾さんの時代は、ドーム球場など無く雨天中止も多くありました。ペナントレースが終盤になれば、雨で流れた試合を消化するため、1日に2試合対戦するダブルヘッダーがよく行われました。そうなると、稲尾さんは第1試合で完投勝利を挙げて、第2試合もベンチに入り、同点の場面でリリーフをして勝利することもありました。「1日で2勝」ということもあった訳です。

 

 

 ちなみに、この年(昭和36年)の稲尾さんは78試合に登板し、何と投球回数は404回も投げています。うち30試合が先発で、そのうち25試合完投しています。ということは残り48試合はリリーフだったということです。先発にリリーフにフル回転だったことがよくわかるデータです。

 

 

 

 

 もうひとつは記録というより、鮮明な記憶に残っている投手です。現在は辛口の解説者として活躍されている権藤博さん(1938年生~・鳥栖高~ブリジストンタイヤ~中日)です。

 

 

( 中日ドラゴンズ時代の権藤博投手。)

 

 

 

 稲尾さんが年間42勝を記録した1961年(昭和36年)に、中日ドラゴンズに入団した権藤さんは、その年35勝をあげ、翌年にも30勝をあげました。しかし、酷使がたたり翌年以降は3年間で17勝しか勝てず、5年間で投手生命を終えました。通算戦績は82勝60敗。しかしその数字以上に強烈な印象を残した投手でした。

 

 

 権藤さんには当時の奮闘ぶりを伝える流行語が残っています。「権藤、権藤、雨、権藤、雨、雨、権藤、雨、権藤・・・」 来る日も来る日も雨や移動日を除き「先発・権藤」が続くのを皮肉ったものでした。今では考えられないローテーションです。

 

 

 

 ・・・私は池永さんの思い出を振り返りながら、彼らが活躍していた頃のプロ野球の余韻に浸っていました。

 

 

 

 

 下のブログは1年前の2021年9月2日に投稿したものです。池永さんと学年は一緒ですが、社会人野球を経て西鉄ライオンズに入団した基満男内野手の、現在のお元気な姿と私の思い出を紹介したものです。よろしかったらあわせてお読みください。(枠内をクリックすればご覧いただけます。)

 

 

 

 

 

 やはり、池永さんの訃報は寂しい。

 

 ただ同世代のスター選手が亡くなった以上の寂しさだ。

 

 戦後すぐ生まれ、同じ時代の空気の中で育ってきた思い、加えて18歳から同じ福岡・博多の風に吹かれて成長してきた思い・・・・・が、そうした感情にさせるのだろう。

 

 

 池永さん、ありがとうございました。

 

 

 

( 下関商時代の池永正明投手。胸の大きな「S」が印象的だった。)

 

 

 

(注)新聞記事を除く写真はネットよりお借りしました。ありがとうございました。