我が国でのコロナ禍が始まってほぼ1年。

 

 

 

残念ながらこの1年、ほとんどの時間を家で過ごす生活、車を使って動いても半径5、6キロ圏内での生活がすっかり定着してしまった。

 

 

 

昨年、コロナの第3波が始まった頃までは、地上波テレビのワイドショー等で流れるコロナ関連情報をよく見ていたが、いつの間にか見なくなった。新型コロナウイルスの実状が、かなり正確に把握されてきたこともある。また半年以上、自分なりの感染予防策を取り、それに沿った生活してきたことで、ここをしっかり対処すれば大丈夫かな・・・・・という目途が付いてきたこともあるだろう。

 

 

 

地上波テレビを見なくなってきた中で、NHKBSの再放送番組を見ることが多くなっている。NHKも国内外を問わず、あちこちへ出掛けての自由な取材や番組制作が難しいのだろう。この1年間よく見てきたが、再放送どころか再々放送も結構増えている。

 

 

 

 

そうした中、ある番組を見ながら、私は小学生時代の担任だった先生のことを思い出していた。

 

 

 

 

( 学校の近くに小さな牧場があった。そこの牧草地に6年生のお別れ遠足に出掛けた時の写真だ。4年生くらいか? 一番上がその先生だ。)

 

 

 

 

先月だったか、NHKBSの「プレミアムカフェ」の中で、『 あの夏 -60年目の恋文-  (初回放送2006年) 60年後の奇跡の再会』 という番組が流れていた。私は 「あれっ、以前見た番組だな・・・」 と思ったが再び見入っていた。

 

 

 

やっぱり、この番組は私にとってコロナ禍に入って2回目の視聴だった。視聴者からの再々放送の要望が多かったのだろう。

 

 

 

NHKの番組紹介のページから簡単にその内容を紹介しておこう。

 

 

・・・・・太平洋戦争のさなか、国民学校で教育実習についた川口汐子。彼女が受け持ったのは4年生男子のクラス(略してヨンダン)。教え子のひとり、岩佐寿哉にとって汐子先生は初恋の対象だった。その2人が往復書簡を交わし、60年ぶりに奇跡の再会を果たす。少年の日の初恋がいま蘇る。

 

 

 

その国民学校は奈良市内にあり、当時の先生のお住まいは京都、そして再会時のお住まいはたしか姫路が舞台だった。先生と生徒の60年ぶりの再会の様子の映像に、教育実習時の当時の写真や、学校から近い春日奥山にみんなで出掛けた時のイメージ映像などを織り交ぜながら、お茶の水女子大に学ぶ川口先生のお孫さんの語りを通して番組は進んだ。

 

 

 

今回調べていくうちに、この番組の初回放送の前年、おふたりはその出会いへの思いを、「あの夏、少年はいた」 という本にして出版されていたことを知った。 ( 「あの夏、少年はいた」 川口汐子・岩佐寿哉共著 れんが書房新社 2005年発売)

 

 

 

しかし残念なことに、おふたりとも再放送までの間に他界されていたことのお知らせが、放送の中であった。

 

 

 

( 川口汐子先生と岩佐少年の当時の顔写真。)

 

 

 

 

私はその番組を見ながら、自分の60数年前の担任だった、T先生のことを思い浮かべていた。

 

 

 

 

私が小学校に入学したのは戦争が終わって8年目の昭和28年だ。鹿児島県の霧島国立公園 (現在は霧島錦江湾国立公園) 内にある、1学年1クラスの小さな山あいの小学校だった。正確にいうと、実家近くにある別の小学校の入学式に参加した私は、それから1週間後、その小さな小学校に校長として赴任することになった父親の異動で、姉とともに転校してきたのだった。

 

 

 

1年生の時はU先生という年配の女性の先生だった。年配といっても小学1年生が見ていた記憶だから、30歳か40歳台だったかもしれない。

 

 

 

そして2年生になった時に、担任の先生が代わった。T先生という若い男性の先生になった。

 

 

 

そのT先生には5年生まで4年間担当してもらった。そして6年生になる1958年(昭和33年)の春、再び父親の転勤で、私は30キロほど離れた別の小学校に転校していった。それ以来2006年までの48年間、私はT先生とお会いすることはなかった。

 

 

 

先生という職業は異動が多いうえに、当時は車で自由に行き来する時代ではなく、気軽にお会いにいくということは考えられなかった。しかも鹿児島で先生になると離島勤務は避けられず、T先生もたしかトカラ列島の悪石島に勤務されたことがあった。

 

 

 

 

( 小学校近くの高台に登れば、桜島と錦江湾を望むこの写真と同じ風景がいつも見られた。)

 

 

 

 

さて、本論に入ろう。

 

 

 

私はまもなく74歳だが、今日の話は、小学2年生から5年生まで担当していただいたそのT先生が中心だ。

 

 

 

T先生が着任された時は、19歳だった・・・・・ということを、しばらくして私は知った。

 

 

 

T先生は、実はまだ正式な先生の資格を持たない”先生”だったのだ。

 

 

 

”代用教員 (だいようきょういん)” という言葉がある。

 

 

戦前の小学校などに存在していた教員資格を持たない教員のことだ。T先生は、戦後昭和29年に教員としてスタートされているが、T先生もそのスタート時点では、いわゆる ”代用教員” と同様の資格だったということだ。

 

 

(ご参考) 「代用教員」について

明治5年の学制発布以来、小学校の教員は師範学校で養成することになっていたが、師範の卒業者数が足りなかったため、必要な有資格者を確保することが難しく、”代用教員”という無資格教員を採用していた。NHKBSの番組で紹介された川口汐子先生は奈良県女子師範に学び、そこの教育実習で、それまでは同師範の付属小学校だった国民学校の4年生の岩佐さんらを短期間教えておられたようだ。

一方、”代用教員”になったうえで、在職中に小学校教員検定を経て、正規の教員免許を持つ教員になった方も多い。代用教員の経験を持つ著名人も多い。古くは五島慶太、石川啄木、宇野千代、1900年代の生れでも小津安二郎、坂口安吾、竹下登、宮尾登美子らがいる。

戦後は 「小学校の教員は免許状を有する者でなければならない」 とされたが、依然として続いていた教員不足を背景に、それまでの”代用教員”には臨時免許状が付与されている。新制大学の教育学部で養成された教員が安定的に確保されるまで、新制の高校卒業者にも臨時免許状が付与され、小中学校の教員として採用されていたようだ。

 

 

 

T先生もそうした臨時免許状で、昭和29年に教員としての人生をスタートされたのだろう。

 

 

 

 

昭和29年の2年生の時に話を戻そう。

 

 

夏休みに入ると、T先生が東京の玉川大学(注)に勉強に行かれたことをよく覚えている。その年だけだったか翌年の夏休みにも行かれたかはよく覚えていない。校長をしていた父親が、19歳か20歳になったばかりのT先生が、東京の大学で勉強をしないといけない理由について、まだ小学2年生だった私に話してくれたのを、おぼろげながら覚えている。

 

 

注:玉川大学

1929年(昭和4年)創立。創立者・小原國芳。1950年(昭和25年)文学部教育学科に通信教育課程設置。創立者の小原國芳は鹿児島県川辺郡(現・南さつま市)の出身。苦学して鹿児島県師範学校に入学している。このことも、T先生が玉川大学の通信教育課程を選び、正式な免許状を習得するために同大学で勉強された理由の一つかもしれない。

 

 

 

当時、東京まで行って正式な教員になるための勉強をするということは、現在の海外留学以上の、精神的負担や経済的負担があっただろうということは十分推測できる。鹿児島から東京まで、丸1日24時間汽車に乗って移動していた時代である。

 

 

 

( 2年生になった時の記念写真。中央のネクタイ姿がT先生。上右端が1年生の時の担任だったU先生。)

 

 

 

 

前述の通り、2006年に開催された小学時代の還暦同窓会で、それこそ48年ぶりにT先生に再会した。

 

 

 

当然のことながら、私たちよりひと回り年上の先生はすっかり年を取られていたが、昔と同じ表情豊かな元気な先生のままだった。

 

 

 

地元に住む同級生から、千葉から遠路はるばる私が参加すると聞いておられたこともあったのか、48年振りとはいえそれほど劇的な再会シーンにはならなかった。その時は大半の同級生たちとも48年ぶりの再会だったこともあり、T先生とゆっくり話すことはできなかった。

 

 

 

それから数年して、今度は少人数でT先生を囲んでの集まりが故郷であった。

 

 

あらためて、183㎝100㎏の私の巨体にビックリされた先生は、「あのはやと君が、こんなに大きくなったかあ・・・」とからかいながら、「はやと君のお父さんには本当にお世話になったなあ・・・・・」と、すぐ父親の話題を持ち出された。その時はすでに父親は他界していた。

 

 

 

そして、T先生が教員になられたキッカケの面白い話が聞けた。

 

 

 

地元の高校を卒業されたT先生は、故郷の町役場で働いておられた。役場に時々出入りしていた父親と会った時に、「教員にならないか」 と誘われたという。

 

 

当時、18歳のT先生が正職員だったのか臨時職員だったのか、どのような身分で役場で働いておられたは知らない。しかし、先ほど書いたように戦後10年も経過していない頃で、まだまだ教員不足が大きく、校長職にあった父親にとっても、教員の確保というのは大きな課題だったのだろう。おそらく、T先生の役場での働きぶりやお人柄、性格などを見聞きし、教員として十分やっていけると父親は確信し誘ったのだろう。

 

 

 

T先生が高校生の頃、もともと教員志望だったかどうかは聞き忘れた。T先生は、通信教育を受けながら正式な教員の免許状を取得し、いろいろ苦労しながらも校長まで勤め上げて定年を迎えられた。私の実家からもそう遠くないところでゆっくり暮らしておられる現在、「教員になってよかったなあ」 という思いからだろう、60年前まだ若造だった自分を 「教員にならないか」 と誘ってくれた私の父親に感謝されていたのだった。

 

 

 

( 入学時は古い木造校舎だったが、数年して鉄筋コンクリートの校舎に建て替わった。その屋上での写真だ。)

 

 

 

先生は、19歳で私たち2年生の担任になられたのだが、その時に起きたという、今まで全く知らなかった出来事も教えてくださった。

 

 

 

それは、”当初、私たちの担任はT先生ではなかった” ということだった。

 

 

 

教員になったばかりの新米のT先生は、3年生か4年生の担任の発令を受け、張り切ってその教室に入ったという。そして初めて担任する生徒たちを見まわしたら、自分の妹が席に座っていてビックリ、急いで職員室に戻り、校長である私の父親にその旨を話し、2年生の担任に変更してもらった・・・・・という話だった。まだ成人もしていない先生は、自分の妹が何年生かは知っておられたのだろうが、発令を受けた時は緊張からそこまで気が回らなかったのだろう・・・・・と、若い頃の自分を振り返って笑っておられた。

 

 

 

一方、私はわずか数時間だったかどうか知らないが、”幻の2年生の担任” がどの先生だったのか全く記憶にない。

 

 

 

T先生と語り合いながら、「親父が元気な時に、先生を交えてこういった思い出話を一緒に語り合いたかったなあ・・・・・」と、その10年ほど前に他界していた父親を思い出していた。

 

 

 

 

( 現在、小学校の跡地は消防署の分署になっている。大きな栴檀の木は60数年前のそのままだ。今は麓の中学校に統合された、すぐ近くの旧中学校跡地に移転している。)

 

 

 

 

現在の学校制度はよく知らないが、小学校から高校までは ”学級担任” という制度があった。中学校からは各教科ごとの専門の教員が配置されているが、その生徒の全般的な生活指導や学習指導、進路指導の責任を負うのは”学級担任”の先生だから、生徒と担任の先生との関係は濃かった。

 

 

 

車や公共交通機関で校区外から通勤される先生の多い現在とは異なり、私の小学校、中学校時代は、先生方も家族と一緒に校区内に居住されていて、休みの日や夏休みなど普段の接点も多かった。

 

 

 

高校までの12年間で、私は7人の ”担任” の先生方にお世話になった。その中で4年間という最も長い時間 ”担任” していただいたのがT先生だった。

 

 

 

7人とも素晴らしい先生方だったが、まだまだ我が国が貧しかった時代、霧島連山の中腹にある小さな小学校で、幼児から少年に成長していった時期、近くで寄り添って教え、一緒に遊んでいただいたひと回り上の ”若い先生” の思い出は今でも特別だ。

 

 

(注:小学校時代の写真は、60数年前の写真だったこともあり、そのまま添付させて頂きました。ご了承ください。)

 

 

 

 

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(ご参考) 小学5年生の時に父親に厳しく叱られた時の思い出を、5年前に投稿しています。よろしかったらタイトルをクリックしてお読みください。

2016年2月10日投稿