東日本大震災の起きた6年前から、「3月10日」の出来事に関する報道が少なくなってきた。

 

 

新聞は限られた紙面、TVやラジオは限られた放送時間のなかでの構成を余儀なくされるので、「3月10日・東京大空襲」に関する報道が少なくなっているのは、ある程度仕方のないことではある。

 

 

私の実家は九州の田舎なので、1945年頃は一人も東京に親戚や友人知人もいない。そもそも私自身も、大空襲があったちょうど2年後の1947年3月に生まれている。

 

 

当たり前のことだが、被災地の東京周辺に住み始めた40年前から、「東京大空襲」に関するニュースや情報に接することが多くなってきた。70年経過して見事に復興した東京の街々を、散策する機会も多くなり、あらためて大空襲の規模の大きさ、その被害の悲惨さを感じることが多くなってきた。

 

 

 

昨年から読んでいる神谷美恵子さんの若い頃の日記に、1945年3月10日前後の東京の様子が書かれている。

 

一部転載しますので、72年前の出来事を静かに顧みる参考にしてください。

 

 

 

 

 

 

この当時、神谷さんは31歳。東京大学医学部に勤務する若手の精神科医。まだ独身で、お名前は前田美恵子さん。師事する先生は内村祐之教授、内村鑑三の長男である。

 

 

 

『神谷美恵子著作集 補巻1 「若き日の日記」 みすず書房』 より

 

1945年(昭和20年)

 

3月4日(日)   またまた雪が降った。牡丹雪だ。・・・朝の空襲に生命からがら逃げてきた家政婦の石上寿美恵さんも来た。この人は私のクランケである。家中、I家にお雛様のお祝いによばれて出ているので、前原さんと石上さんと三人で炬燵をかこみ、お雑炊を食べたり、

よもやまの話をする。

 

 

3月11日(日)   10日(土)朝、大学へ行く途を歩いていくと、一挙にして廃墟と化したあの街にはまだ煙立ち上り、ところどころは火の渦さえ吹き出している。顔面やけただれ、水ぶくれとなった罹災者たちが呆然として、とぼとぼと列をなして歩いている。うららかな春の陽の下に異様な臭気を帯びた熱気たち込め、さながら地獄の観あり。

11日(日)昨夜も今朝も午後も警報に悩まされながらも、ともかく日曜らしく充分眠り、本も読み、ものも考えられ、久しぶりで生きた心地がする。・・・

 

 

3月13日(火)   罹災被害者が病室へ回されてきた。悪臭を放つ瀕死の病人に対し、何等施す術もない---薬剤は助かる見込みの者にのみ用うべしとのお達しーーーのは苦しい・・・

 

 

3月16日(金)   罹災者の受持ちは新医局員ということになり、現在あらゆる罹災者は私と菊池さんの受持ちの第2号室に入っているので私たちだけで大忙しとなった・・・

 

 

3月18日(日)   今日も朝から病院で罹災者の世話。硫黄島陥落。先日の東京の空襲により焼失の家屋三十万戸、罹災者百万人、死者十万人余。

 

 

 

敗戦の色濃いこの時期、生活物資も乏しい中、戦争前と変わらず、季節の行事を楽しみ、親しい人々との日々の交わりを、普通に続けている様子がうかがわれる。そしてこうした中でもいつものとおり、本を読み、ものを考えるところは神谷美恵子さんらしい日常である。

 

5月25日には東京・東中野の前田家も空襲で罹災し、軽井沢に避難疎開。それでも美恵子さんは7月には帰京し、東大病院の精神科病棟に住みこみ、診療を続けている。そして8月終戦。

 

 

 

(3月10日に日付が変わってすぐ現在の江東区、墨田区、台東区を中心に空襲が始まった。大空襲後の惨状。蛇行する川は隅田川。右下の丸い建物は旧国技館とある)

 

 

 

(数か月に及ぶ東京大空襲の罹災エリアを示す地図。赤色の部分が罹災地域。現在の23区の中心部のほとんどといってもよいくらい広範囲に及ぶ)

 

 

 

 

 

 

 

(私の故郷は、当時田畑の広がる田舎で軍事施設からも離れており、大空襲の標的にはなっていないが、30㎞離れた鹿児島市内は、3月から8月にかけて8回の空襲があり、6月17日の空襲では2,000人を超す方が亡くなられている。鹿児島大空襲での死者の合計数は3,000人~5,000人と言われている)

 

 

 

 

このアメリカによる一連の大空襲の中で、広島と長崎に原爆が投下された。

 

平成3年から2年間、広島で勤務し、お取引先の被爆者の方とお話しする機会があった。当時すでに80歳を超えた方々がほとんどだった。

 

原爆の酷さを積極的に話してくださる方と、そうでない方々がいらっしゃった。

 

広島でお話を伺った時から、すでに20年が経過した・・・・