最近(2024年1月)、岡崎武志の「古本大全」(ちくま文庫)という本が出た。

これがなかなか痛快なオタク本で面白い。

 

 

新しく出たといっても、何も新しい内容というわけではなく、岡崎武志という人は、古本のことばかり書いている人で、既に絶版となっている以下4冊のちくま文庫から、そのエッセンスを集めた本なので「大全」というわけなのだが、決して「古本」そのものに関しての「大全」というわけではない。

 

- 「古本でお散歩」(2001年)

- 「古本極楽ガイド」(2003年)

- 「古本生活読本」(2005年)

- 「古本病のかかり方」(2007年)

 

ちくま文庫も、よくまあこんなテーマの本を出し続けたと思うのだが、この著者の「女子の古本屋」(2011年)と「古本で見る昭和の生活」(2017年)は、同文庫でまだ流通しているというので驚く(さらに後者については電子ブック化までされている)。

最近では、ネットで古本も探せるようになり、昭和の時代の神保町古本屋巡りとは、だいぶ古本探しの様相も異なってきてはいるものの、古本オタクの本質的な要素は変わらず、その微妙なおかしさが、こうして絶版となった本の再版と共に蘇ることを喜ぶと同時に、古本オタク道の入口にも届かない私としても、読んで共感する部分は多いのである。

 

 

 

もともとこの人には、「蔵書の苦しみ」(2013年)という名著があって、この本もまた、ずいぶん笑える本なのだが、増殖し続ける本に苦しみ、処分は試みるものの、売った翌日にまた同じ本を買ったりして、未練たらたらな著者には好感が持てるのだ。

さらに、この本を読むと、私の部屋を埋め尽くすダンボ-ルの本の山も、この人に比べればかなりマシなのではないかと、妙に安心させてくれるのである。

ただ、この本に出てくるように、本を溜め込み過ぎて、その重量で床をぶち抜いた人の話など読むと、自分の家の床がどれほどの重量に耐えられるのか、やや不安になってくる。

私は、仕事を引退したら、3ヶ月は家に籠もって、本の整理を行うことを決意しているのだが、それまで我が家の床たちには、重量に耐え抜いて大過なく過ごして欲しいものだ。

 

 

さて、「古本大全」に戻ると、いきなり最初のエッセイ「買った本、全部読むんですか?」という話に感動する。

岡崎は、この問いは、古本のことわかってねえなあと、一発でわかるリトマス試験紙のようなもので、この質問を受けるたび、「おめえさん、トウシロ(素人)だな」と賭場のやくざみたいな心境になると述べている。

少しでも古本の泥沼に足を濡らした者なら、ぜったいに吐けっこないせりふだと言う。

本は読むものだと思っている人にとって、読める許容量以上の本を買うのは無駄なことだと思う気持ちはわかるが、だからおめーはトウシロなのだと喝破し、買った本を全部隅から隅まで読むなんてこと自体、下品なことなのだと述べ、さらに次のような先人達の名言を紹介している。

永江朗 「本を最後まで読むのはアホである。」

唐沢俊一 「古書は集めるためにあるものである。読むものではない!」

 

そして岡崎自身は、「1年に古本を千冊以上買って、しかも新刊書にも手を出して、時々、著者から送られてくる贈呈本もあって、図書館から借りてくる本だってあるのに、読むわけないだろう、全部なんて。」と言い切る。

古本族は、タイトル、著者名を見て、装丁、造本を点検し、奥付や挿絵、目次も見て、あちこち手で観察して、目でなでながら買うことを決める。

その時点で元は取れており、その本は「読んで」しまったのだという。

中身をじっくり追っていくというのは、また次の段階の話なのだ。

 

わかる!実によくわかる!

こう言い切ってくれるところが痛快である。

そこから古本屋の作法なども、古本屋の様子が目に浮かび、実に面白い。

但し、神保町の古本屋巡りをしたことがない人や、古本に全く興味もない人にとっては、時間の無駄となる本である。

 

この10年あまり、私が多少なりとも古本に興味を持ったのは、いわゆる全集ものからだ。

昔は、個人文学全集などはよく出版されていたのだが、最近では流行らないようで、紙の本で全集が出版されることは稀である。

かつては10年に1度は増補出版され、岩波書店のドル箱とも言われた「漱石全集」なども、前回(2016-20年)出版されたときには、初めて「定本」と銘打ち、紙の本はこれが最後という意思表示のように思われたのである。

岩波の「漱石全集」のように愛され、過去、多くの人が購入した全集の場合、新たな版が出ると、買い替える人もかなりいるので、大量の古い「漱石全集」が持ち込まれることを恐れた神保町の古本屋には、「古い漱石全集お断り」の貼り紙を出したところもちらほら見受けられた。

 

私の場合、かつて欲しいなと思いつつ、とても買えなかった全集が、最近では全巻揃って、1~3万円くらいで手に入ることに驚き、つい買ってしまった全集がいくつかある。

例えば、米川正夫個人全訳の「ドストエフスキー全集 全20巻、別巻1」(河出書房新社)は、8,000円で手に入り、「鏡花全集 全29巻」(岩波書店)は、15,000円だった。

もう買うしかないだろうという迷いのない値段である。

こうして、あっという間に、部屋が段ボールだらけになってしまったのである。

以前は、我が家に人を呼んだりしたこともあったのだが、コロナの期間に人が来訪することもなくなったのをいいことに、せっせと段ボールを積み上げて、今ではとても人に部屋を見せられる状態ではなくなってしまった。

 

 

また、「源氏物語」をはじめ、日本の古典文学に興味を持ち始めたことも、古本道へつながった原因の一つである。

岩波書店や小学館の日本古典文学全集も、今では古本でしか買えないし、「源氏物語」の有名な現代語訳ですら、例えば以下のものは文庫本でありながら絶版となっていて、古本でしか買えない。

- 円地文子訳 「源氏物語」(新潮文庫)

- 大塚ひかり訳 「源氏物語」(ちくま文庫)

- 今泉忠義訳 「源氏物語」(講談社学術文庫)

そもそも、文庫本として「源氏物語」を切らしているというのは、出版社としての矜持が問われる問題で、いかがなものかと思ってしまう。

また、中野幸一訳の「正訳源氏物語」(勉誠出版)も2巻、3巻が絶版となっているが、この2冊はオンデマンド版として手に入れることができるので許容範囲である。

 

こうした絶版本の復刊を求める「復刊ドットコム」というサイトがあって、ネットで復刊して欲しい本のリクエスト投票をして、多数のリクエストがあったものは、実際に出版社に復刊交渉をしますというサイトだ。

私も当然、いくつかリクエストを出しているのだが、時々チェックしてみると、私の1票しかリクエストが入っておらず、全く役に立たない。

仕方なく、直接、出版社に電話して復刊を要求し、丁重に断られたこともある。

 

このように、欲しいと思った本が手に入りにくくなっていることは、案外よくあることなのだ。

それは経済や金融などの専門書であったり、古典文学であったりするわけだが、Amazonのマーケットプレイスなどでは、こうした本は、足下を見てかなりのプレミアムを乗せて、定価より高く出品されていることが多い。

本物の古本オタクたちは、こうした古本相場をよく知っており、ほとんど骨董品のように本を探すので、神保町を歩いて、いくつも古本屋をひやかし、値段における掘り出し物を探すと同時に、本当に貴重な発見物などを探すことを至上の喜びとしている。

このように本との出会いを求めて、心に余裕を持ちながら、古本屋散歩をする分には心穏やかでいられると思うのだが、何か特定のどうしても欲しい本を探すとなると、心も乱れて苦しく、かなり疲れるものだ。

まあ古本に限らず、人はどうしても欲しいと思うものがあると、苦しむものではあるが。。。

 

私が大学生時代に覚えているのは、岩波文庫の森林太郎(森鷗外)訳の「ファウスト」を探したことと、一橋大の経済学者である荒憲治郎先生が書いた「経済成長論」(岩波書店)という本を探したことである。

どちらも、1回では見つからず、日をおいて、数回、神保町を訪ねて、ついに見つけて喜びに震えた記憶がある。

岩波文庫の森林太郎訳「ファウスト」はかなり傷んでいたが、上下2冊を1,500円で買った。

ところがその後、岩波文庫でも復刻版が出たり、ちくま文庫の「森鷗外全集」などにも入って、新品の文庫本を購入できる機会が何度もあり、実にがっかりさせられた。

このように、後日、何らかの形で新刊本が手に入れられる機会があることも古本のリスクなのだが、欲しいと思って探しているときには、目の前に欲しい本があれば、そんなことを考えて踏みとどまる余裕はない。

ちなみに、岩波書店というのは、創業者である岩波茂雄が、1913年に神保町に開いた古書店が、その始まりなのである。

荒憲治郎先生の「経済成長論」もずいぶん探したが、ある日、神保町で非常な美本が見つかり、興奮した。

こんなきれいな状態で見つかると思っていなかったので、大事に取っておいて、とうとう読むことはなかったのだが、就職してから、荒憲治郎先生を尊敬する一橋大出身の部下に自慢したら、その本を非常に欲しがったので、ついあげてしまった。

こうして正しい人の手に渡ると、本も幸せであろう。

 

 

ところで、本当に欲しいと思う古本を探すのは、ヒリヒリする思いがして苦痛以外の何ものでもなく、古本屋を巡って探す楽しみなどというゆとりはない。

古本は、金を出せば手に入るというものではなく、もはやどこにも売っていない本は、それを持っている人が、場に出してくれない限り、手に入らない一品物だからである。

まあ最終的には図書館で探せばよいのだが、それは「読みたい」古本の話であって、読みたいだけでなく「所有したい」古本の場合は、いつまでも場を見張って、どこかに出品されていないか探し続けることになる。

昔は、何度も神保町に通い続けるしかなかったのだが、今ではネットで探し続けた方がずっと簡単で効率的だし、その本に巡り会える可能性も高い。

欲しい古本を、日々、探し続けることは、決して楽な道ではなく、かなりの試練なのだ。

 

そうした古本探しの苦しみを長らく忘れていたが、最近、久々に味わうこととなった。

どうしても欲しい本があり、それがどこにも売っていないのだ。

というより、Amazonのマーケットプレイスで、何冊かプレミアム付きで出品されていたので注文したところ、併売品なので別の場で既に売れてしまっていたとしてキャンセルされ、あわてて別な1冊というように次々注文し続けたのだが、見事に次々と同じ理由でキャンセルされて、結局、その本はすべてが場から消えてなくなってしまったのだ。

こんなことがあってよいものだろうか!

誰かが私の動きを察知して、買い占めに走ったとしか思えないような衝撃を受けた。

 

さらに驚いたことに、ヤフオクで出品されて、「すぐに落札」という価格で落札したのだが、落札後になって、実は在庫がありませんでしたという信じがたい連絡があり、愕然とした。

これは、もはやヤフオクの出品ルール違反だろう。

まるで私の動きが誰かに見張られているような気持ち悪さを感じた。

 

こうして手に入らないと、ますます欲しくなるものだ。

その本は、源氏物語の「浮舟」に関する本だったのだが、その後、もしかしたらと思って、神保町の古本屋も一通り回ってみたし、京都に行ったときにも、京大周辺の古本屋を2、3軒回ってみたりもしたのだが、どうしても見つからなかった。

 

 

それから数ヶ月、Amazon、Rakuten、日本の古本屋、ヤフオクのサイトを、1日に1回は見るようにして、出品を見張っていた。

そして、先日、ついにヤフオクに出品されたのである。

入札期間は2日間しかなく、この2日間を見落としたら、機会を逸してしまうことにもなったのでほっとした。

まずは出品されたので、ここから先は、価格の闘いになる。

 

今まで無駄にした時間と労力、神保町の古本屋の対応や、京都の古本屋の書棚が目に浮かび、今回のチャンスに多少高くても絶対に落札するつもりで入札した。

誰も気付かなければよいのだが、、、と願ったが、やはり競合者が現われ、敵もかなり覚悟して臨んでいるようで、厳しい闘いとなった。

ヤフオクの場合、残り時間10分くらいになって、もう落札したものと油断しているところへ、突然、終了間際の時間帯を狙って高値入札してくる輩がいるので、終了時間前の10分くらいは緊張して目が離せない。

残り時間10分くらいで高値更新がされてしまったら、瞬時に、いくらまで自分は払えるのか判断して、再入札しなければならない。

今回も、残り時間10分を切ってから、やはり高値更新されてしまった。

こうなってくると、闘争本能に火がついて、本当の本の値打ちなど考える余裕もなく、高値更新されるとかっとなって、相手を打ち負かすことに夢中になり、思わぬ散財をしがちである。

ついに定価の10倍くらいでタイムオーバーとなり、私が落札した。

 

オークションの後、ほっとすると同時に、冷静に振り返れば、そんな高価な古本だったのだろうかと、やり過ぎ感もなかったわけではない。

古本を高く買うという概念を理解しない家内には、とても話せないなと思う。

そもそも家内は私のブログに興味がなく、読もうともしないから、ここに書いても安心だ。

でも、なんで読まないんだ(まあこれは関係ない話だが)?

 

予想金額よりかなり高い落札に、やや頭が熱くなり、心臓も不整脈気味に波打ち、後ろめたい気持ちが、いつも夏の終わりに季節を惜しんで感じるそこはかとない後悔のように心に残っているものの、私は何とか強引に落札価格を忘れて喜ぼうと、シャンパンを開けて祝杯を挙げ、さらに散財してしまったのであった。

新しい空気を吸い込もうと、窓を開けて冬の外気にあたる。

酔いとオークションの熱戦後のほてりに、冷たい冬の夜風が心地よい。

 

 

<了>