最近ずっと忙しかったのは、飛行機を売ったり買ったりしていたからだ。

考えてみれば、普通にこんなことを言われたら、聞いた人は???と思うだろう。

でも、本当のことだから仕方ない。

仕事柄、時々、飛行機を売ったり買ったりしている。

勿論、為替ディーラーのように、一人で売ったり買ったりしているわけもなく、売り手・買い手のグループ会社等複数の会社が絡んで、それぞれの頼む弁護士事務所も入り、何人も関わって売買は行われるのである。

 

 

人は、知っているようで、案外、飛行機というものを知らない。

例えば、飛行機には、普通、2基のエンジンがついているが、整備の時期がくると、取り外して、他のエンジンを借りて飛んでいたりするのだ。

また、自分のエンジンも、整備が終わると、ほかの飛行機に貸していたりする。

また、数億円かけてオーバーホールされたエンジンは、ほぼ新品同様になるので、機体が傷んだ古い中古機などは、機体そのもの(エアフレーム)にあまり価値はなく、エンジン価値の方が大きかったりする。

 

簡単に言えば、飛行機を買うということは、新造機ならばメーカー(ボーイングとかエアバス)に、中古機ならば現在の所有者にお金を払って、飛行機の機体とエンジン2基の所有権を自分の物だと登録機関に登録することなのだ。

即ち、航空機の機体(エアフレーム)、エンジン1、エンジン2、という3つの物について、必要な国や国際機関に製造番号や所有者名を登録するのだ。

中古であれば、手形の裏書きのように、新造機がメーカーから渡された後、所有者の履歴の連続がわかるような証明書(Bill of Sale)を買い手に渡すことになる。

 

航空機の値段というのは、主なメーカーであるボーイングやエアバスでは、一機の値段は公表しているものの、エアラインからまとめてオーダーを受けると大幅なディスカウントがあったりするので、一概にいくらと言えるものではないが、上の写真のような、通常LCCが使うナローボディの旅客機ならば、新造機で60億円程度、中古では当然古さによって違うものの、大体売買されるのは20~40億円くらいなものだ(飛行機は大体30年くらい使える)。

尚、機内に通路が2本ある飛行機をワイドボディ、通路が1本の飛行機をナローボディと呼んだりする。

 

売買当日には、まず、どの国で売買を行うかを決めなければならず、消費税などは売買した国の税制に従うことになるので、当該航空機が、税制メリットのある国の空港に着陸している時間に取引を行うことが多い。

取引は、売り手・買い手それぞれの担当弁護士(事務所)が、電話またはメールでリアルタイムに連絡をとって、飛行機の着陸を確認後、離陸するまでの間に、各種契約書がサイン済みなことや、売買代金が指定口座に入金されていることなど売買条件が満たされていることを確認し合って、何時何分、どの空港で売買成立として記録する。

こうした取引は、日本時間では深夜となることがしばしば(というより普通)である。

 

売買時に、所有するエンジンが別の機体についていることもあって、そんな場合は、2機の飛行機が、同時に(通常同国の)空港に着陸していることを確認しなければならない(エンジン2基が別々の機体についているような場合があれば、3機という可能性もありうるが、これはさすがにあまり例がないようである)。

所有する機体(エアフレーム)は空港に着陸したが、所有するエンジンを搭載したもう1機が遅れていたりすると、せっかく着陸している1機が飛び立ってしまうのではないかなど、気をもむことになる。

 

今年は、1月1日に能登半島での大地震があり、1月2日には、羽田空港での日航機と海保機の衝突炎上事故が起こって、正月気分も吹っ飛び、大変な幕開けとなった。

海上保安庁の飛行機は、地震被災地に緊急支援物資を運ぼうとしていたわけで、地震が起きなければ、この事故も起きなかったと思うと、誠に気の毒である。

この日航機炎上事故において、379人の乗客・乗員全員が無事脱出できたのは奇跡であり、脱出を誘導した日航機のクルーは、見事としか言いようがない。

2009年1月15日に、米国ニューヨーク上空で、制御不能に陥った航空機を、機長の決断により、ハドソン川に無事着水させて乗客を救った「ハドソン川の奇跡」は、トム・ハンクス主演で映画化されたが、今回の日航機の脱出も映画化されてもおかしくないほどの奇跡である。

 

 

また、航空機が着陸して、ドアが開く前に、機内には必ず業務連絡として「ドアモードを変更してください」というアナウンスが流れるが、これは、通常、航空機のドアが開くと、脱出用スライドシュートが自動的に作動して飛び出すようになっているものを、ドアを開けても作動しないように、乗務員はモードを変更する操作をしてくださいという意味だ。

こうしたことも、今回、初めて知ったという人も多いのではないかと思う。

 

さて、いろいろ関係ない話をしてしまったが、要するに、世の中、普通に生活していて、知らなくても全然困らない知識なんていくらでもあるものだ。

それどころか、どんな仕事でも、通常、そんなものは知らなくても、生活には困らない知識ばかりだ。

それなのに、なぜか人は、「哲学」こそ、実務の役にも立たない知識だと思っていたりする。

本当にそうなのだろうか。

 

私が池田晶子を「発見」したのは、2001年春、書店で「2001年哲学の旅」(2001年3月)という本を見つけたときである。

題名は勿論、「2001年宇宙の旅」をもじったもので、世界の哲学の名所ガイドみたいなものかと思って手に取った。

さらに、ややエキゾチックな美人の「哲学女子」が、哲学の聖地巡りをお手伝いというような軽いノリの本なのかなと思ったのだが、その序文を読んで、いきなり引きつけられ、パラパラとページをめくってその内容を見てみると、これは単なる「哲学女子」ではないなと直感した。

また、この本には、「哲学は誰にでも出来ます!」という帯が巻かれていた。

 

 

例えば、この本の「最先端の現場での考察」というコーナーにおいて、池田は、既に「スーパーカミオカンデ」を訪ねて、東京大学宇宙線研究所長であり神岡宇宙線素粒子研究施設長だった戸塚氏と対談を行っている。

小柴さんがノーベル物理学賞をとって、一般の人にもスーパーカミオカンデが有名になるのは、その翌年(2002年)のことであった。

そのほかにも、同じコーナーで池田が訪問して対談しているのは、「京大ウイルス研究所」と「国立がんセンター東病院」であり、その後、世界で起こったことを考えると、池田に先見の明を感じるのである。

 

 

そして、この本の2年後(2003年3月)に、池田は、ベストセラーとなった「14歳からの哲学」を上梓し、大ブレイクを果たすのだ。

 

 

「14歳からの哲学」でブレイクしてから、改めて池田晶子(1960-2007年)について調べてみた。

慶應女子高から慶應大学文学部哲学科に進み、大学生の頃は、アルバイトとして、雑誌「JJ」の読者モデルをやっていた。

大学時代に、著名な哲学者である中央大学の木田元に師事し、後に、埴谷雄高とも交流があった。

大学卒業後も就職はせず、モデル事務所に籍を置いて、次第に、文筆活動に専念するようになった。

「14歳からの哲学」以降も、「哲学エッセイ」と呼ばれる独特のエッセイを数多く執筆し、哲学者と呼ばれるより、文筆家と呼ばれることを好んだ。

 

 

「14歳からの哲学」では、中学生という、学校では「正しい答え」ばかり学ばされている一方で、恋愛など答えのない問題に悩み始める年頃に向けて語りかけ、強い共感を呼んだ。

実際に中学校の授業などでも教材として取り上げられるようになり、2003年7月には、ニュースステーションに出演した。

この時、私も実際に見ていたわけだが、池田は、十分に変人ぶりを発揮しただけではなく、答えのない問題を短時間で久米宏に問い掛けられて戸惑いつつも、人を引きつける魅力的な素顔も十分見せた。

今でも忘れられないのは、池田が、「考えること以外は、人生そんなにすることはないんじゃないか」、「人間には考えること以外にすることがないと確信した」といった発言を繰り返していたことである。

今回、もしかしてと思って、YouTubeで探してみたら、何と、このときの放送がしっかりアップされていた(YouTubeは本当にスゴイ)。

 

 

池田は、「2001年哲学の旅」におけるインタヴュー記事でも似たようなことを言っていて、就職しないで文筆家となったことについても、「そもそも食べることを人生の目的にするくらいなら、飢え死にした方がいいと思ってるのに、どうして生活設計なんかできますか。こんなものは、成り行きですよ。」と答えている。

 

池田の著作を読んでも、どこにも答えは書いていないが、池田が繰り返し述べていることは、答えのない問題をひたすら自分で考え続けることの重要さである。

答えのない問題ー自分とは誰か、他人とは何か、死とは何か、人生の意味は?、心はどこにあるのか等々、ひたすら「考える」ということーそれが池田にとって生きる意味だった。

池田の著作を読んだときに感じる感覚、それを最近もどこかで感じたように思って考えていたところ、はたと思いついた。

そうだ、これは、宮崎駿監督のジブリ映画「君たちはどう生きるか」を観たときの感覚に似ているのだ。

生と死は「メビウスの輪」のようにつながっている。

 

 

2007年2月23日に、腎臓がんにより、46歳で死去したことを、新聞の死亡欄で見たときには、そのあまりに早過ぎる死に愕然とした。

喪主は、夫(伊藤實)となっていて、ほとんどの人は初めて池田晶子が結婚していたことを知り、ネットでは多くの人が驚きの声を上げていた。

後に、夫の伊藤實氏を理事長として、NPO法人「わたくし、つまりNobody」が設立され、池田晶子を記念して「わたくし、つまりNobody賞」が創設された。

この賞は、1年に1回、ものを考えて言葉にしようとする表現者に対して贈られる賞で、2007年の第0回池田晶子を創設記念の始まりとして、2008年第1回には川上未映子が受賞、以来、2023年第16回の町田樹まで、2010年の特別賞を含め、今まで18名に贈られている。

この賞での正賞は、池田が思想として好んだ「メビウスの輪」の指環である。

 

 

死を前にして、池田晶子は、自分の墓碑銘も言い残した。

 

墓碑銘とは、英語で「エピタフ(epitaph)」と言い、ロックでは最高の名曲の一つとされるキング・クリムゾンの「クリムゾン・キングの宮殿」において、LPレコードA面の最後に、グレッグ・レイクが歌い上げる「エピタフ」、それである。

キング・クリムゾンの歌詞においては、「Confusion will be my epitaph」と歌われ、墓碑に刻まれる言葉は、「Confusion(混沌)」ということになる。

 

 

池田晶子が言い残した墓碑銘は、「さて死んだのは誰なのか」というもので、夫・伊藤實氏によって、青山霊園に墓がつくられ、原稿用紙を模した表面の中央に、「さて死んだのは誰なのか」と刻まれている。

墓の上には、本のオブジェがつくられて、池田晶子の筆跡で「考える」と書かれている。

誠に潔い生き方をした人なのである。

 

 

1983年に浅田彰が「構造と力」を発表して、ニューアカデミズムのブームを起こし、OLまで持ち歩く哲学書と呼ばれた。

その後、低調な時代を経て、今また若者が哲学に目覚めているようで、現在45歳の若き哲学者、千葉雅也の「現代思想入門」(2022年)などという新書がベストセラーになっている。

 

 

また、東浩紀が「存在論的、郵便的」(1998年)というデリダ論を書いたときには、浅田彰により、「私は「構造と力」がとうとう完全に過去のものになったことを認めたのである」という宣伝文句が帯に使われた。

その「構造と力」は、出版40年を経て、2023年12月についに文庫化された。

若い人ばかりではなく、懐かしむオヤジたちも再び買ったりして、かなり売れているようだ。

文庫本の解説は、千葉雅也が書いている。

 

 

「構造と力」が若者のベストセラーとなった時代を聞いて、昔の人はこんな難しいものを読んでいたのかと尻込みする若者たちには、こう答えておこう。

当時だって、本当は、誰もわかっちゃいなかったんだと。

 

<了>