来年の大河ドラマ「光る君へ」の放映開始が近付くにつれて、今年の10月くらいから源氏物語関連の書籍がハイペースで数多く出版されており、2008年の源氏物語千年紀のブーム以来の盛り上がりを見せている。
まだこんなに影響力があったんだという驚きも含めて、大河ドラマの影響力の大きさに驚くと同時に、そもそも世の中で、こんなに多くの人が、源氏物語について本が書けるんだと、日々、感心している。
そこで再び、源氏物語の初心者向け読書案内をさせていただきたく思うわけだが、一般の人の入門書と言えば、大和和紀(やまとわき)の漫画「あさきゆめみし」に尽きると言っても過言ではなく、また、それほどこの漫画はすぐれていて、多くの人に源氏物語を理解させる偉大な功績を果たしているのだ。
もっと深く古典文学を学びたいと思う人や、「あさきゆめみし」を読んで、実際の源氏物語の現代語訳や原文などを読んでみたくなった人を除けば、恐らく、これだけで十分なのである。
「あさきゆめみし」(1979-93年)は、過去に、大型版、文庫版、完全版など、何度か出版されているが、一番新しいものは、2021-22年に講談社から出版されたかなり紙質のよい新装版というものだ。
私は漫画はだいたいi-Padを使って電子ブックで読むので、「あさきゆめみし」も電子ブック化されている完全版で、何度か読んでいる。
「あさきゆめみし」を、子供の受験勉強用に大人買いする親も多くいるようで、毎年、12月と4月に重版がかかると言われており、ベストセラーの学習参考書並の売れ行きである。
何しろ、1993年に14年かけて完結して以来、2021年11月にはシリーズ累計発行部数として1800万部を突破し、現在では2000万部を突破しているのではないかと思われるのだ。
当然、世界各国で翻訳されているようだ。
ちなみに「紫式部」のことは、英語では通常、”LADY MURASAKI"と言い、ややレディガガ風に呼ばれている。
一方、「紫の上」は、英語では単に「MURASAKI」と訳されるのが通常のようだ。
「あさきゆめみし」は、細かい部分では創作も加えながら、大筋ではほぼ正確に源氏物語のストーリーを再現しており、さらに心理描写においても、深い理解と解釈を示していると言える。
数多くの源氏物語の漫画の中でも、突出した絵の美しさを誇り、また唯一、宇治十帖まで全編のストーリーを漫画化した大作で、現代にこの漫画があることは、大変に幸運なことであると言わざるを得ない。
ところで、2019年3月5日~6月16日まで、3ヶ月あまりに渡って、ルーブル、エルミタージュと並んで世界三大美術館と称されるニューヨークのメトロポリタン美術館において、源氏物語特別展「The Tale of Genji : A Japanese Classic Illuminated」が開催された。
日本からも多くの源氏関連の文化財が貸し出され、空前絶後の規模の源氏物語特別展となったのだが、ここに「あさきゆめみし」の原画もいくつか展示され、また、MET(メトロポリタン美術館のこと)のHPにおける「Tale of Genji」のページには、大和和紀が紫の上を描く動画などもアップされている。
さらに、現地におけるトークショーにも大和和紀は招かれて、ハーバード大学の教授と登壇して対談が行われた。
大和和紀も、今や75歳になり、このような海外でのトークショーなどに、今後登壇するのは難しくなるだろうから、海外のファンにとっては大変貴重な機会となったはずだ。
この時、METでの特別展用カタログとして、METが出版した368ページに及ぶ「The Tale of Genji : A Japanese Classic Illuminated」という分厚い本(カタログ)は、高価な美術書並みの立派な本なのだが、今ではMETのホームページから、オンラインでも見られるし、PDFでダウンロードまでできるようになっていて、誰でも手に入る。
さすがMETと言いたいところだが、この高額で分厚くて重い大型本を、Amazonで手に入れて喜んでいた私としては、かなり悔しい。
セントラルパークの東側に聳え立つ神殿のような巨大建造物、METについて語り始めるとキリがないのであるが、私はニューヨーク駐在時には、METの年間会員になったりして、何度も足を向けた。
METでマスコット的存在になっている古代エジプト出土のカバの像は、ウィリアムという愛称で呼ばれ、私などは、METのお土産の陶器のウィリアムを何種類か合わせて10個くらい買って、玄関にカバの群れをつくって喜んだりしているのである。
話はそれたが、かくも「あさきゆめみし」は世界的に評価されている漫画なのであり、数多くある源氏物語の漫画の中で、別格の存在なのである。
ほかの源氏物語の漫画は、小学生の学習用、高校生の受験用といった感じのものに加えて、オトナのエロ漫画まで幅広くあるから、要注意である。
まあ純粋に源氏物語という古典文学を知りたい場合には、ほかの漫画を読む必要はない。
そんな「あさきゆめみし」なのであるが、つい先日(2023年11月)、別冊太陽のムック(太陽の地図帖)の1冊として、「大和和紀『あさきゆめみし』と源氏物語の世界」という見ていて大変楽しい本も出版されて、おすすめなのである。
さて、こうして「あさきゆめみし」を読んでおけば、それだけで知識は十分ではあるものの、実際に「源氏物語」を読んでみたくなった人は、現代語訳の多さに、一体誰の訳を読めばいいんだとたじろぐであろう。
私は何人かの現代語訳を読んでいるが、最初に読むのであれば、やはりベストセラーになった瀬戸内寂聴訳(講談社文庫全10巻)をお薦めしたい。
全10巻は長すぎるという人には、つい先日(2023年11月)、名場面を集めて1冊に編集し直した、「寂聴 源氏物語」(講談社)という抄訳版全1冊も出版されており、寂聴源氏をざっと読むには便利であるが、これには宇治十帖が入っていないので、最後の姫君として登場する浮舟を読めないのは、やはり残念と言うほかない。
本当に源氏物語に関しては、読者の様々にニーズに応えて、出版社が手を変え品を変えて企画・再編集などしているので、誠に心強い。
ただ同じような本が大量に出ていることで、かえって読者は何を選べばよいのかわからなかったり、私のようにひたすら無駄な買い物をしてしまったりという弊害もある。
瀬戸内寂聴のベストセラーが出る前にも後にも、有名な現代語訳はあり、まずは与謝野晶子に始まって、谷崎潤一郎、窪田空穂、円地文子、田辺聖子、橋本治、大塚ひかり、舟橋聖一、今泉忠義、玉上琢弥、尾崎左永子、上野榮子、中井和子、中野幸一、林望、角田光代などが訳しており、さらに現在、現代語訳を手掛け途中の作家もいる。
私が残念に思うのは、川端康成訳で、これは読んでみたかった。
寂聴さんが亡くなる少し前に書いた朝日新聞のコラムで、寂聴さんは、川端康成がホテルで源氏物語の現代語訳を行っている原稿を見たと書いてあった。
ただ、寂聴さんも、川端康成がこれを完成させられるとは思っていなかったようだ。
この川端康成の現代語訳の遺稿は、どこを探しても見つからない(全37巻もある川端康成全集にも収録されていないのである)。
寂聴さんは、円地文子訳の「源氏物語」(新潮文庫)第1巻の解説でも、川端康成が源氏物語の現代語訳に取り組んでいることに触れている。
円地文子が、命がけで「源氏物語」の現代語訳に取り組んできた様子を間近に見ていた寂聴さんは、その命を削る迫力を感じつつも、出家して70歳を過ぎてから、自身も「源氏物語」の現代語訳に取り組み始め、出版社に完成できるのか心配されながらも、ついに6年かけて完成させた。
寂聴さんは、円地文子とは違って、なるべく原文に忠実に訳そうと努めたと述べている。
それだけ円地文子は、自分の中に源氏を取り込んで、熱に浮かされて自分の妄想を魂と共に吐き出すような現代語訳をしており、川端康成は円地源氏について、「円地さんの小説、創作ですよ」とまで言っている。
円地源氏は格調高いとよく言われるが、その好き嫌いは分かれるところだ。
大和和紀は「あさきゆめみし」を描くにいたって、この円地源氏を愛読し、ことあるごとに読み返して、漫画化する際にも、円地源氏を読んだおかげで、自分というフィルターに通し、自分の解釈をしていっても良いのだと思ったと述べている。
一例をあげれば、夕顔の帖において、六条御息所が源氏と一夜を共にし、翌朝、けだるそうに起き上がる有名なシーン。
原文においては、
-御頭(みぐし)もたげて見出だし給へり。
としか書かれていない。
この短い原文が、瀬戸内寂聴訳においては、
-女君は御帳台の中からまだ身も心も甘いけだるさにたゆたいながら、ようやく頭を持ち上げて、外をご覧になりました。
となる。
これが円地文子訳になると、
-女君は静かに身を起こして外の方へ眼を向けられた。枕元の御髪筥(みぐしばこ)にうずたかくたたなわっていた黒髪が、女君の起き直ってゆかれるのにつれて音もなくゆるゆると背を伝い上がってゆき、やがて黒漆(くろうるし)の滝のように背中一面に流れた。
となるのである。
原文とは相当異なっているものの、この見事な描写には絶句するしかない。
一方、全体に敬語もなるべく使わずに、流れを重視して、淡々とした訳文になっている最近の角田光代訳においては、
-六条の女君は頭をもたげて外をながめやる。
という記述にとどめており、原文に忠実とは言えるかもしれないが、高校の受験参考書の訳文のようで面白くない。
円地文子訳「源氏物語」は、新潮社から単行本全10巻で出版され、その後、新潮文庫(全6巻)となっているが、今では古本で買うしかない。
この円地文子訳「源氏物語」の装丁のため、日本画家の故高山辰雄(文化勲章受章者)は、源氏物語シリーズとして装丁画を制作した。
後に、故高山画伯の自宅兼アトリエは、改装されて小劇場等に利用できる多目的スペースとなり、「アトリエ第Q藝術」として成城学園前に開館した。
山下智子さんの「京ことば源氏物語」東京語り会は、2ヶ月に1度、この「アトリエ第Q藝術」で開催されており、たまに故高山画伯の絵を飾って語ってくれる時もある(上記写真)。
さて最後に原文であるが、昔の定番と言えば、岩波の(新・旧)日本古典文学大系であったと思うのだが、現在、一番標準的になっているのは、小学館の新編日本古典文学全集のものであろう。
でもこれとて「源氏物語」(全6巻)を揃えようとすれば、古本で買うしかなく、やはり、簡単に手が届くのは、岩波文庫の「源氏物語」(全9巻)ということになる。
岩波文庫版は、新日本古典文学大系をベースにして、字を読みやすく大きくして、最近新たに刊行されたもので、圧倒的におすすめではあるが、これとてそうやさしくはない。
注釈を本文の横に添う形でつけて、結構読みやすく工夫されているのが、新潮社の日本古典文学集成で、これはまだAmazonで手に入る。
私は、だいたい岩波文庫と、新潮社の日本古典文学集成の「源氏物語」を同時に開いて読んだりしている。
さらに深く古典の用語解説まで詳細に知りたい人には、信じられないようなオタクページがあって、このページを発見したときには、驚愕した。
「源氏物語の世界 再編集版」というもので、物語を鑑賞しながら読むというよりは、研究者向けである。
但し、誰でもネットで見られる素晴らしいページなので、一度はのぞいて見てほしい。
源氏物語の世界 再編集版 (genji-monogatari.net)
かくも「源氏物語」は、ハマると怖い沼のように深く引きずり込まれそうになるので、大和和紀ですら、「あまりの魔力にこれ以上近づくのをやめようと幾度も思いました」と述べている。
私の場合、金銭面と家のスペースというとても悲しい理由で、深く入り込むのはそろそろ控えようと思う昨今の出版ラッシュなのである。
(紫の上)
<了>