2023年10月11日、藤井聡太が、王座戦に勝利し、ついに8つの将棋タイトルをすべて制覇して8冠という偉業を成し遂げた。

これがどれほどすごいことなのか。

もうこの私が、大谷翔平と藤井聡太には国民栄誉賞を許す!

 

 

藤井聡太のおかげもあって、今、世の中は空前の将棋ブームである。

将棋を観ることを面白くしているのが、AIによる形勢(勝率)判定で、一手指す毎に、どちらが何パーセント優勢か、勝利確率が表示される。

最近では、将棋を観て楽しむ人たちを「観る将」と呼ぶようだが、かつてないほど「観る将」の数は増えて、若い女子たちも当然参戦している。

藤井聡太の追っかけ女子たちは、たとえ将棋のルールなどわからなくても、一手毎に藤井が優勢なのか劣勢なのかはAI判定でわかるので、藤井が次の手をうんうん考える仕草や苦悩する姿に、一緒に身悶えしながら応援するのである。

 

とりわけ、今回8冠を達成した、永瀬九段(王座タイトル保持者)との最終戦は、とてつもなく劇的な幕切れであった。

恐らく現在の棋士の中でも、最も藤井を研究している永瀬九段は、ずっと有利に盤面を支配し、誰もがこの一戦は永瀬九段が勝利して、2勝2敗として、最終決戦にもつれ込むと思いながら見ていたはずだ。

 

 

AIは、人間が間違えることがあるので、勝利間違いなしでも「100%対0%」とは表示されずに、「99%対1%」と表示されることになっている。

最後10分あまりになったとき、永瀬九段はついに、AI予想99%勝利という表示がされて、藤井の投了目前と思った報道機関の記者たちは控え室から会場に移動し始めていた。

ここで永瀬九段は勝利を目前としながら、次の一手を間違え、まさかの悪手を指してしまったのだ。

永瀬九段のAI勝率は、99%からみるみる降下し、そこから藤井の奇跡の巻き返しが始まり、ついに最後の10分で藤井が大逆転勝利したのである。

 

 

まさかの悪手を指してしまった直後に、自分でも気がついた永瀬九段は頭をかきむしった。

人間は間違えるし、失敗するし、過去を忘れてしまうし、後悔をする。。。

ああ何と人間とは愛しいものなのか。。。

この永瀬九段の身悶える灼けるような後悔の姿に、多くの人は胸を熱くしたに違いない。

こんな人間的な勝負がある限り、AIはたとえ人間に勝利しても、人間の魅力には遠く及ばないのである。

 

永瀬九段が間違えてしまった原因の一つに、持ち時間制度がある。

今回の王座戦では、考えるための「持ち時間」は、両者5時間ずつであった。

最終局面で、両者とも自分の持ち時間を使い果たし、1分以内に次の手を指さなければいけなくなった。

このため、次の手としていくつか考えているうちの一つを1分以内に決めなければならず、永瀬九段はたまたまその時考え中だった手を指してしまったのであろう。

十分な持ち時間があれば、ありえないミスだった。

 

今回、永瀬九段には、「永世王座」という称号もかかっていた。

この「永世」という称号は、言ってみれば「殿堂入り」のようなもので、大変名誉ある称号なのだ。

タイトルによって多少条件は違うが、通常、5期連続でそのタイトルを保持すれば、「永世」を名乗れるので、今回、4期連続でタイトルを守ってきた永瀬九段には、この名誉ある「永世王座」の称号がかかっていたのであり、大きなものを失うことになったたった一手のミスは、悔やんでも悔やみきれないものとなった。

 

ちなみに、「永世名人」という称号は、1949年に日本将棋連盟が規約改正して、名人位を通算5期以上保持した棋士に与えられる称号として創設され、木村十四世名人から十九世名人の羽生善治まで6人(存命者4人)いる。

なぜ木村名人が十四世かと言えば、もともと江戸時代に、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号として、一世から十世までの名人がおり、明治以降は年功ある実力者が推挙されてXX世名人という称号を名乗り(十一世~十三世)、永世名人制度が創設された後、名人位を通算8期保持して引退した木村義男が推挙されて、最初の「十四世(永世)名人」となったのである。

このように、「XX世」と名乗るのは、「名人」だけである。

羽生のあと、誰が二十世名人となれるか注目されているが、今のところ、藤井をおいてほかにいないであろう。

 

(永世名人)

・ 木村義雄十四世名人

・ 大山康晴十五世名人

・ 中原誠十六世名人

・ 谷川浩司十七世名人

・ 森内俊之十八世名人

・ 羽生善治十九世名人

 

将棋は、AIの発達で飛躍的に進化を遂げた。

AIは、人が指したら何百年もかかる数の過去の棋譜を記憶しており、忘れることなく、さらに新しい棋譜の蓄積が行われて強くなるばかりなので、人がかなうわけがない。

現在の棋士たちで、AIを使わないプロは皆無である。

今や子供たちでも、過去の棋士たちが長年かかって築いてきた定石や戦法を、即座にAIが打ってくれるので、すぐに身につけることができるのである。

藤井聡太を破る相手は、「まだこの世に生まれてきていないのかもしれない」と言われているが、次の世代は予想を超える速さで追いついてくるかもしれない。

また、藤井聡太は、その朴訥として謙虚な姿勢から、若い女子のみならず、年配のご婦人方にも、羽生結弦のような人気があり、また、師匠である杉本八段も、頻繁にテレビに出て、弟子を解説することによって有名人となって、どこかほっこりさせてくれるのである。

 

 

将棋タイトルは、スポンサーがつけば増えてくるので、私が小学生で将棋に夢中になっていた頃は5つしかなかったのだが、今は8つある。

今まで、その時のタイトルをすべて独占制覇した棋士は、以下の4人しかいない。

制覇した日と、その時のタイトル数、年齢を調べてみると、藤井聡太の突出ぶりがわかる。

 

1.升田幸三  1957年7月11日(3冠) 39歳

2.大山康晴  1959年6月12日(3冠) 36歳(*)

3.羽生善治  1996年2月14日(7冠) 25歳

4.藤井聡太  2023年10月11日(8冠) 21歳

(*)大山名人は、その後、タイトル数が増えるにつれて、4冠独占、5冠独占を達成。

 

羽生は、その後の長期に渡る羽生時代を築いたすごさがあり、今後、藤井聡太がいつまで自分の時代を続けられるか注目されるが、藤井は羽生を十分に超える可能性を秘めている。

そもそも、8冠もタイトルを取るためには、毎月のように自分の獲得したタイトルの防衛戦があって、そのタイトルを防衛しながら新たなタイトルを獲得して積み上げていくという、とんでもない闘いを繰り広げなければならない。

次は、いつまで8冠を維持できるかということになるわけだが、8冠揃う日がきたというだけで、奇跡的なことなのだ。

ちなみに、羽生の7冠は、1996年2月14日から7月30日まで、167日続いたのである。

 

 

現在の将棋界における8つのタイトルとは、「竜王・名人・王位・王座・棋王・王将・棋聖・叡王」という8つである。

私が小学生の頃は、5つのタイトルで、「名人・王位・王将・十段・棋聖」というものだった。

大山康晴(我々は常に大山名人と呼ぶクセがついている)の全盛期で、人気の高かった升田幸三にはやや衰えが見え、若き天才と呼ばれた加藤一二三が彗星のごとく登場してきた時代だった。

 

最近でこそ、対局中に、扇子を片手で少し開けては閉じて、ぱちんぱちん鳴らしながら考える棋士はあまり見かけないが、昔は扇子を持っている棋士が多かった。

我々兄弟が小学生で将棋に夢中だった頃、父親の会社に将棋二段を持っている人がいて、東京の将棋連盟に行った時のおみやげとして、升田幸三の書が印刷された扇子をもらったことがある。

「奇手」だったか「妙手」だったか、そのような二文字が書かれていて、升田幸三とサインがあり、我々は大喜びでその扇子を鳴らしながら、将棋を指すシブいガキだったのである。

 

 

その後、将棋界は、中原誠、谷川浩司の時代を経て、羽生善治の長い天下となっていく。

何しろ、羽生は、もう一度何かのタイトルを獲得すれば、通算100期のタイトル制覇という偉業を達成するのだ。

既に大山康晴の80期を大きく超えており、この羽生の記録を超えるとしたら、藤井聡太しかないだろうが、これは容易なことではない。

例えば加藤一二三のように、彗星のごとく現われ、天才と呼ばれて記録を塗り替えるスピードで八段まできたが、それ以上の伸びを欠き、頭打ちとなった例もある。

ちなみに、私が銀行で国際企画部にいた頃、シカゴ支店に送り出した若者と壮行会として二人で飲んでいたとき、彼の嫁さんが加藤一二三の娘と聞いて驚いたことがある。

 

話は変わるが、私がシンガポール支店に駐在していた時、日本人の次長職は、私より一年上の先輩であるFさんと私の二人だけだった。

このFさんが、無類の将棋好きだったのである。

もともと私は、Fさんとは、京都の独身寮でも一緒で、その後、ニューヨーク支店でも一緒に働き、大変親しかった。

私の方が一足早くニューヨーク支店で働いており、その頃、MITに留学していたFさんが、ペルーに旅行中、集団スリにパスポートも含めて持ち物を全部奪われて、残ったアメックスカード1枚でホテルに暮らしていたときには、Fさんの依頼を受けて、ペルーの日本大使館宛に、パスポート再発行の為の身分保証のテレックスを、ニューヨーク支店のディーリングルームから打ってあげて、Fさんを救出したこともあった。

 

当時、シンガポールで、将棋盤が置いてあるカラオケバーを、Fさんが発見し、そこで将棋を指すために、部下の若者たちも連れて、何度もFさんとその店に行った。

若者たちが、飲んでB'zとかの歌声を響かせている中で、Fさんと私の次長二人は黙々と将棋を指した。

Fさんは、私よりかなり強かったので、Fさんが勝利することが多く、勝利して気を良くしたFさんは、よく尾崎豊の「I LOVE YOU」を気持ちよさそうに歌った。

仕方ないから、負けた私も越路吹雪の「ろくでなし」とか歌った。

 

ニューヨーク時代には、Fさんと同期で親友のTさんも調査部として駐在していた。

Tさんは、今やS大学の経済学部長をつとめる立派な大学教授となっている。

当時、Tさんはまだ独身で、こちらは無類の相撲好きだった。

東大の本郷近くに、元力士がやっている「浅瀬川」というちゃんこ鍋屋さんがあり、Tさんは学生時代から、「浅瀬川」の常連だったらしく、大相撲の新しい番付が決まると、必ず「浅瀬川」から、ニューヨークまで相撲の番付表が送られてくるので、Tさんはそれを部屋の壁に貼っていた。

 

当時はニューヨークで大相撲を観る手段がなかったので、Tさんは、NHKの大相撲中継の「初日」と「中日」と「千秋楽」の相撲ビデオを、自宅から航空便で送ってもらっていた。

Tさんに相撲ビデオが届くと、Tさんが誘ってくれるので、ご自宅に伺って、FさんとTさんと3人で飲みながら、よく相撲ビデオを観た。

相撲中継が終わると、「レッツゴーヤング」などという歌番組が始まって、我々は身を乗り出すのだが、見事に5分くらいでプツッと録画が切れて、我々をがっかりさせた。

実に潔く相撲だけが録画されているビデオなのであった。

私は、大相撲を観ながら、特に自分で相撲を取りたくなったりはしないのだが、FさんとTさんは、相撲を取りたくなるらしく、よく二人は相撲ビデオを見ながら、相撲を取ったりしていた。

話がそれたが、そのように気心知れた先輩のFさんなのであった。

 

 

以前もブログに書いたことがあるが、シンガポール時代に忘れられないのは、Fさんと二人で試した詐欺的養毛剤である。

Fさんは、髪が薄くなり始めていたが、先行する私は、もはや諦めの境地に達していた。

そんなある日、Fさんがやってきて、すごい特効薬を見つけたから、是非試してみろと言う。

それは「SURE MARK」という名前の診療所風の店で売っており、二種類の薬を寝る前に刷毛で頭皮にペタペタと塗るのだ。

まず、白いボトルに入った「STOP LOSS」という薬を塗り、次に黒いボトルに入った「SURE PLUS」という薬を塗る。

退行する頭髪を、「止めて」「増やす」というわかりやすいネーミングだ。

二種類塗ると、頭皮がカーカー熱くなってきて、いかにも効きそうだった。

二人とも効果が実感できないでいたある日、「SURE MARK」が、誇大広告で詐欺的商品を売ったとして当局に摘発されたという記事が新聞に載り、我々の試みもそこで終了したのだった。

 

だいぶ話が脱線してしまったが、とにかく藤井聡太の8冠という偉業には、全く脱毛、いや、脱帽するしかないのである。

 

<了>