上田秋成(うえだあきなり)は、江戸時代の1734(享保19年)に生まれ、文化6年(1809年)に享年76歳で没した江戸時代後期の読本(よみほん)作者、歌人、茶人、国学者、俳人である。

現代では、専ら「雨月物語(うげつものがたり)」(1776年)の作者として知られるが、本居宣長との論争でも知られる(といっても、一般人は別に知らない)。

要するに、本居宣長の頃の人で、国文学者だと思っておけば間違いない。

 

「雨月物語」は、怪異小説と呼ばれる奇妙な短編物語9篇から成り、現在においても一部の熱狂的な愛読者を持つ幻想物語である。

上田秋成と言ったら、この「雨月物語」と、晩年に書いた「春雨物語(はるさめものがたり)」(1808年)の2冊を覚えておけばまず問題ないのだが、通常は「雨月物語」だけで十分である。

 

 

 

そもそも上田秋成を読んでみようと思ったきっかけは、三島由紀夫が上田秋成を溺愛しており、1949年6月に書かれたエッセイ「雨月物語について」において、以下の通り、「歩右の書」とまで言っているからだ。

 

「戦時中どこへ行くにも持ちあるいていた本は、冨山房百科文庫の「上田秋成全集」であった。座右の書のみならず、歩右の書でもあった。」

「雨月物語の裏面に流れる劇(はげ)しい反時代的精神と美の非感性的な追求とが、あのころの私を内面から支える力として役立ったように思われる。」

(三島由紀夫「古典文学読本」(中公文庫)より)

 

三島は、怪異小説というものが読者の感性に訴える性質のものであるからして、情感たっぷりに感性で書き上げるのではなく、むしろ淡々と透徹した美の追求から創造された彫刻的な文体、冷たい非感性的な文体で美を探求していることに感動しているようで、怪異の効果として、一種の抗議としての意味を読み取っているらしい。

いかにも三島らしいとらえ方ではあるが、そのように難しく考える必要もなく、美的感性や、物語の怖さ、不思議さを面白いと思えばそれでよいのである。

 

さて、「雨月物語」は、以下のような9つの怪異な物語から成る。

1.白峯(しらみね)

2.菊花の約(きっかのちぎり) 

3.浅茅が宿(あさぢがやど)

4.夢応の鯉魚(むおうのりぎょ)

5.仏法僧(ぶっぽうそう) 

6.吉備津の釜(きびつのかま)

7.蛇性の婬(じゃせいのいん)

8.青頭巾(あおずきん)

9.貧福論(ひんぷくろん) 

 

それぞれ奇妙な話で、まるで「鬼滅の刃」に出てくる鬼たちの過去や、それにまつわる人の弱さ、哀しさの原点のようにも思えて、元祖・鬼滅の刃とでも呼びたくなる。

とはいえ、やはり原文で読むのはなかなかの難物である。

本当は格調高い原文で読みたいものなのだが、いちいち注を見ながら読み進むのは、なかなかの苦行でもある。

 

そこで役に立つのが、2016年に出版された武富健治の漫画訳「雨月物語」である。

漫画訳というだけあって、かなり原文に忠実に漫画化されており、なかなかよくできているのだ。

この本の帯では、又吉直樹が写真入りで絶賛している。

ほかにも「雨月物語」は、何度か漫画化されていて、どれもそれなりに楽しめる。

中には、現代に置き換えたインスパイア系漫画まであって、やはり現実離れした物語が、漫画の題材にはしやすいのかもしれない。

 

 

忘れてはならないのが、溝口健二監督(1898-1956年)の名作映画、「雨月物語」(1953年)である。

これは白黒映画で、「雨月物語」9篇のうち、「浅茅が宿」と「蛇性の淫」の2篇を組み合わせてストーリーを構成しており、戦乱と欲望に翻弄される平民を描いて、海外でも非常に高く評価され、第13回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞している。

この白黒映画は、AmazonのPrime Videoならば無料で観ることもできる。

「雨月物語」の怪異な話を、能の幽玄世界の中に描き、人の愚かさ、哀しさ、優しさを描いた心うたれる名画である。

 

 

この映画には、魔物として、やはりこの人しかいない、京マチ子が主演。

京マチ子(1924-2019年)は、原節子(1920-2015年)と同時代を生き、共に95歳で没している。

原節子が清純な乙女を演じたのに対し、京マチ子は魔性の女の役が多く、黒澤明監督の「羅生門」(1950年)で一躍、日本を代表する国際的女優となった。

 

 

映画の「雨月物語」においては、平民が戦乱と魔物による欲望に翻弄されて、家庭が崩壊していき、最後に本当に大事だったものに気付くのだが、既に家族は亡くなっているといった何ともやるせない現実が描かれている。

「雨月物語」の幻想そのものより、幻想に惑わされた人々の欲望が引き起こす日常の崩壊の方がよほど悲劇なのである。

京マチ子については、いずれ何か書かざるをえないが、ここでは控えることにする。

 

 

「雨月物語」の9篇全てを漫画化しているのは、武富健治のもののみだと思うのだが、通常は、9篇中、3篇くらいの話を漫画化しているものが多い。

それらの中に、必ず含まれている話が「蛇性の淫」であり、「蛇性の淫」は「雨月物語」の中で、はずすことができない中心的な怪異譚となっている。

そのことに、私は何の文句もない。

 

ところで、三島由紀夫は、「上田秋成全集」(全1巻のもの)を常に持ち歩いていたくらい好きだったというので、よせばいいのに、私も「上田秋成全集」を読んでみることにした。

どれも今は絶版なので、なるべく新しく出版されたものの方がよいだろうと思って、中央公論社の「上田秋成全集」(既刊12巻)の古本を買った。

これは、1990年~1995年にかけて、12巻まで出版されたところで止まっているものだ。

本当は、全13巻、別巻1という予定だったらしいのだが、12巻まで出したところで、編者が亡くなったりして、もはやそれ以上編集することが困難になり、さらに出版したところで、そもそも売れる見込みもないので、中央公論社はそれ以上出版することを断念したようだ。

おかげで、ずいぶん中途半端な全集となった。

 

さらに送られてきた本を見てびっくりしたのだが、本来、上田秋成の本には、びっしりなければならないはずの「注」がないから、読んでも意味がわからない。

いよいよ中途半端な上に、まともに読むこともできない全集で、そのまま段ボール箱に入れられて積まれる運命となった。

そのうち、どこかの積まれた段ボール箱から出てきたら、すぐに古本屋に売ろうと思っている。

 

 

瀬戸内寂聴も、70歳を過ぎてから、「源氏物語」の翻訳を始めるに当たって、出版社から本当に最後まで訳せるのか(途中で死ぬんじゃないか)と心配されたという話をどこかで読んだ。

全集などを集めていて、一番困るのが、この途中で打ち切りというものである。

 

私はかつて、講談社のダブルCDマガジン「モーツァルト」(2010年)で痛い目にあった。

クラシックをほとんど聴かない私だが、このシリーズが出始めるに当たって、ついつい、一度はモーツァルトくらい全曲聴いてみるかという気になったのが間違いだった。

このシリーズは、2010年5月から隔週で出版され、2枚ずつCDがついて、全25巻、50枚のCDでモーツァルトのほぼ全曲を、やや古い名演で収録し、価格も適当で、写真や解説がついた美しいマガジン企画だった。

 

 

それが、2010年12月の第15号までで、唐突に打ち切りになったのである。

理由は、「都合により」としか書かれておらず、講談社が思ったほど売れなかったのか、版権の問題でも起きたのか、全くわからないままに終わってしまった。

Amazonにも、その最終号となった15号のコメントには、やるせない怒りの声が載っているが、講談社のような大手の出版社が、このような裏切りをやってはいけない。

おかげで私のクラシック入門は、そこで心を折られたまま今日に至っている。

 

さらに、現在、私が読む気力があるうちに完結するかどうか、或いは未完結のまま中途半端に終わってしまわないかと心配しているのは、ほかにも以下3つほどある。

 

1.「失われた時を求めて」(光文社古典新訳文庫) 全14巻予定

・ 2010年に刊行が始まって、既に12年が経つが、第6巻までしか出ていない。

・ 第6巻が出てから、既に4年以上が経つ。

・ 翻訳者の高遠弘美は、現在、70歳である。

・ 高遠さん、別の本を出したりしているが、ここは一つ翻訳に集中していただいて。。。

 

 

2.「ミシェル・フーコー講義集成」(筑摩書房) 全13巻予定

・ 2002年に翻訳の刊行が始まって、既に20年以上が経ち、現在、11巻が既刊となっている。

・ 11巻目が出てから、5年以上が経つ。

・ フランス語の原典は、1997年に刊行が始まり、2015年に完結した模様。

・ 翻訳チーム、あと残り2巻、頑張って欲しい。。。

 

 

3.「定本 夢野久作全集」(国書刊行会) 全8巻予定

・ 2016年に刊行がはじまり、6年が経ち、第7巻までは順調に出てきた。

・ 第7巻が出てから、2年以上が経つが、最終の第8巻がなかなか出ない。

・ 遺族から未公表原稿の提供もないのが最初からわかっており、それでなぜ「定本」とつけるのかという批判もあった。

・ 何かもめてなければよいが。。。

 

 

こうしてハラハラしながら完結を見守るのも、シリーズものの喜びと言えよう(本当か?)。

 

<了>