よく世界の十大小説を選ぶ人がいる。

 

中でも有名なのは、1954年に刊行された、サマセット・モームのエッセイ「世界の十大小説」(岩波文庫)であろう。

そこで取り上げられた10の小説とは、掲載順に、以下のものである。

 

1.フィールディング 「トム・ジョウンズ」 イギリス 1749年

2.オースティン 「高慢と偏見」 イギリス 1813年

3.スタンダール 「赤と黒」 フランス 1830年

4.バルザック 「ゴリオ爺さん」 フランス 1835年

5.ディケンズ 「デイヴィッド・コパフィールド」  イギリス 1850年

6.フローベール 「ボヴァリー夫人」 フランス 1856年

7.メルヴィル 「白鯨」 アメリカ 1851年

8.エミリー・ブロンテ 「嵐が丘」 イギリス 1847年

9.ドストエフスキー 「カラマーゾフの兄弟」 ロシア 1879年

10.トルストイ 「戦争と平和」 ロシア 1869年

 

これらの作品に特に文句はないのだが、基本的に長編大作ということになっている。

また、どれも19世紀以前の作品なので、当然、「20世紀の十大小説」を書く人が出てくる。

 

篠田一士のエッセイ、「二十世紀の十大小説」(新潮文庫)においては、プルースト、ボルヘス、カフカ、ガルシア・マルケス、ジェイムズ・ジョイスと当然の顔ぶれが揃っている中に、なぜか島崎藤村の「夜明け前」が入っている。

 

日本から1つ入れるのならば、私なら、紫式部の「源氏物語」か、三島由紀夫の「豊饒の海」を選ぶのだが。。。

 

さらに、池澤夏樹の「現代世界の十大小説」(NHK新書)における10人の作家になると、ガルシア・マルケス以外、一般人は知らないのではないだろうか。

また、この人は、必ず、石牟礼道子の「苦海浄土」を入れたがるクセもある。

 

彼が編纂した「世界文学全集」(河出書房)は、現代世界の小説が多く取り上げられており、いわゆる昔から有名な世界の名著を期待すると大きな間違いとなる。

 

同じく池澤が編纂し、昨年、角田光代の「源氏物語」訳が完成して完結した「日本文学全集」(河出書房)も、必ずしも日本文学定番の名著が集められているわけではなく、古典文学が多いのも特徴である(これには少し賛同できるが)。

 

村上春樹は、これまでの人生で巡り会った最も重要な本3冊として、以下を上げている。

1.レイモンド・チャンドラー 「長いお別れ」

2.ドストエフスキー 「カラマーゾフの兄弟」

3.フィッツジェラルド 「グレート・ギャツビー」

 

要するに、皆、自分の好みで好き勝手に選んでいるわけだが、サマセット・モーム基準で、二十世紀から選ぶとすれば、プルーストの「失われた時を求めて」は必ず入ってくるし、トーマス・マンの「魔の山」だってある。

 

ソ連崩壊前には、反体制派の作家として話題となったソルジェニーツィンの大作「収容所群島」(新潮文庫)などは、もう廃刊となっていて、読む人もなさそうだ。

 

そんなロシアでは、安部公房の「砂の女」が大人気らしいが、やはりロシアの民衆の閉塞感に強く訴えるものがあるということなのだろうか。

 

19世紀までの長編大作の中にだって、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」もあるし、ゲーテの「ファウスト」だってある。

長編でなくても、シェイクスピアとか、文学史上は入れてもおかしくないだろう。

 

そんな中で、やはりドストエフスキーはすごいので、作品だけで言うならば、後期の長編は全て入ってきてもおかしくない。すなわち、

1.「罪と罰」

2.「白痴」

3.「悪霊」

4.「未成年」

5.「カラマーゾフの兄弟」

 

私は、「白痴」が好きで、何度か読んだ。

 

また、トルストイだって、

1.「戦争と平和」

2.「アンナ・カレーニナ」

3.「復活」

は、世界文学を代表する長編大作だ。

 

「アンナ・カレーニナ」は、その有名な書き出し、「幸せな家族はどれもみな同じように見えるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。」という言葉だけでも名作である。

 

人の幸せは底の浅いもので、それ以上幸せになれと言われても限度があるものだが、不幸は底なしに奥深く、次から次へ、これでもかと襲ってくる。

幸福は薄氷の上に成り立っていて、それを意識して大事にしていないと、ある日突然踏み外し、深い深い不幸の沼の中にずぶずぶと入ってしまう。

 

こうした長編大作ばかりではなく、私としては、やはり、ボルヘスは入れておきたいし、詩人だって、ランボー、ヴェルレーヌくらいは入れたくもなる。

 

やはり、世界の十大小説など、選ぶこと自体無理があり、あまり意味もないのである。

 

では世界文学で何を読んだらいいのかと聞かれたら、私は1冊だけでよいと答えたくなる。

それは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」である。

 

それはまるで、JAZZの世界で、マイルス・デイビスの「カインド・オブ・ブルー」について、「JAZZという音楽は、この1枚を残すために存在した」と言うJAZZ評論家がいるようなものだ。

 

それほどカラマーゾフは、人間を深く考えさせるものを持っているのである。

あとは、プルーストの「失われた時を求めて」を読んでいれば、大概の人が世界文学に費やせる時間は終わってしまうものだが、無理して読むこともない。

 

プルーストの「失われた時を求めて」は、私が社会に出て初めてもらった少額のボーナスで、真っ先に買いに行った思い出がある。

新潮社から箱入りで出版されていた、当時としては唯一の翻訳で、1万円以上したので、学生時代にはなかなか手が出せない本だった。

 

 

これはまだ翻訳がこなれていなくて、その後、二人の訳者の一人であった井上究一郎が筑摩書房の「プルースト全集」で初めて個人全訳を行い、現在は、ちくま文庫で出ている。

 

またその後は鈴木道彦が個人全訳を行って集英社文庫となり、最近では、岩波文庫で吉川一義が個人全訳(完結)、光文社文庫で高遠弘美が個人全訳刊行中と、一気に出揃って、ようやく翻訳も熟成してきた感じがある。

 

「失われた時を求めて」は、「源氏物語」と比べ評されることもあるが、どちらも一生に一度は読みたいものではある。

さらに何か読みたければ、日本文学を読んだ方がよい。

 

私自身は、今後は少し勉強して、日本の古典文学を読んでいきたい。

ドナルド・キーンも言っているように、日本人は、少し古文を勉強すれば、素晴らしい日本の古典文学が読めるのに、それをしないのは勿体ないことに思えるからだ。

 

少なくとも日本人以外が、日本の古典文学を読むのは至難のわざなのだから。

 

<了>