「人生に二度読む本」は、城山三郎と平岩外四による2005年2月11日発売の書籍です。
(講談社刊)
この本は、12冊の名作を紹介した本です。で、
その12冊とは次のとおり。
夏目漱石「こころ」
アーネスト・ヘミングウェイ「老人と海」
太宰治「人間失格」
フランツ・カフカ「変身」
中島敦「山月記・李陵」
ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」
大岡昇平「野火」
ジェイムズ・ジョイス「ダブリンの市民」
ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」
リチャード・バック「かもめのジョナサン」
吉村昭「間宮林蔵」
シャーウッド・アンダーソン「ワインズバーグ・オハイオ」
今回は 続いて同じ中村敦 著の 『山月記』を読むことにしました。
(『李陵』のほうを先に、前後して今回は『山月記』です。)
巻末の解説は川西氏が解説されていますが、先生である高橋和巳氏の解説が名文であり、それをそのまま引用されていますので、私も引用させていただきます。
文芸評論家 川西政明の解説より
次に『山月記』であるが、これが困ってしまった。実は
この作品については、私の先生である高橋和巳が若い日に 書いた「中島敦『山月記』について」という文章がある。これが名文で、しかも若い人向きに書いてある。私がどんなに知恵をしぼってもとてもこれ以上には書けないので、ぜひともこれを読んでほしい。
《 文学することの悲しみ、とりわけその挫折の悲哀について書いた
作品は少なくない。中島敦の『山月記』は、しかし
それが人間の存在のあり方に対する懐疑にまで深められて
いる点で、群を抜いて秀れている。中国の唐代隴西の李
徴なるもの、己れの才におごり、下級の官吏として大官の
前に膝を屈するよりは、詩家として名を百年に残そうとする。
生活は困窮し、しかも志はならず、遂にある夜発狂して闇の中にかけだしたまま帰らない。彼はその居傲(きょごう)ゆえに虎に変じてしまったのだ。友人の袁俊が監察御史(えんさん かんさつぎょし)となって
旅する途次(とじ)、ある山中でこの虎と化した李徴に会う。作品
は虎に変貌しながらも、なお、人間の心を残す李徴の、かつての友人への悲しい語りかけによって構成されている。
李徴はいう。なぜこんなことになったのだろう。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受け取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめなのだ、と。
もっとも純粋な人間の贖罪の具であるはずの文学への執着が、
かえって妻子をかえりみず、友人を傷つけ、己を損ない、人を人以外のものに化せしめる。文学はそういう危険な毒をもつものだが、その毒
の認識が同時に、世阿彌の「能」における怨念による人間以外のものへの変化のように、心のあり方いかんによって他のものに変じうる存在としての人間の存在認識にも達しているのが、この作品の忘れがたいところなのである 》
一度読めば、誰しも白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮する
李徴の虎を忘れることはないだろう。
おしまい