『福田村事件』鑑賞《追記 2024.9.12》「映画=史実」ではない | 歴史の散歩道~KANAのひとりごと

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『福田村事件』


本日9/3(日)2本目🎦


関東大震災後に起きた千葉県『福田村』での殺戮事件…

※大正12(1923)年9月1日関東大震災後の混乱及び流言蜚語が生み出した社会不安の中、9月6日四国香川県から来ていた薬の行商団15名が、千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)で地元の自警団に暴行され9名が殺害された事件。


関連で6000人者方が犠牲になったとエンドロールにありました。


観逃さなくて、良かった。


不安をあおる社会・政府・マスコミの虚偽に、己れの恐怖心と歪んだ正義感が、不信感や不安感を増大させ、平常心を失くした典型的な結果の事件ですね。。


観る価値あります💡


本日9月6日は『福田村事件』から

100年が経ちました。


 映画『福田村事件』予告編




 

 初日舞台挨拶『福田村事件』





◤ 上映劇場、全国一挙に拡大決定! ◢

9月末より、公開劇場一挙に広がります!
ミニシアターから全国へ!
日本語字幕付き上映も各地で順次はじまります

上映劇場の詳細情報は以下公式サイトにて☟
fukudamura1923.jp

スクリーンでご覧ください🎥


《追記:2024.9.12木》

「映画=史実」ではない 


「福田村事件」史実と異なる映画に憤慨 
誤解を解くために語り続ける
「この現場で起きたこと」

2024/09/12 千葉日報Yahoo!news共同連携企画 

https://news.yahoo.co.jp/articles/baf041d78d30c6cf5dfb8be50ab3ae0f425631f8


関東大震災直後の 1923年9月、福田村(現在の
千葉県野田市)で起きた「福田村事件」
子どもや妊婦を含む9人が自警団に殺された。 
100年の節目を迎えた昨年は、同名の映画が
公開されるなど事件が広く知られる機会となった。 
人権教育の研修などで現地を案内する同市の
市民団体代表の市川正廣さん(80)は「関心が
高まった」と歓迎する一方「フィクションと
史実の区別が付かない映画が誤解を生んだ」
と史実を語り継ぐ難しさをかみしめる。
保存会と遺族らは9月6日、101年目の命日に合わせ
事件現場近くに石碑を建て「未来に伝える」
誓いを新たにした。 
 ●未来への伝言  石碑に刻んだ福田村事件
「過ちを繰り返さぬよう真実を伝え続けます」
同市の市民団体「福田村事件追悼慰霊碑保存会」
が開いた追悼行事。
 犠牲者が亡くなって101年となった6日、
現場近くの霊園に新たな石碑が披露された。 
 碑文には「社会不安の中、さまざまな差別が
複合して事件は起こりました」との概要や、
風化させない取り組みの必要性を訴える文言
を刻んだ。
遺族関係者10人を含む約40人が参列。
市川さんは「私たちが事件を忘れず、真実を
未来への伝言として伝えていく。そういう思いで
建てることができた」と感慨深げに語った。

霊園には21年前に建てた「関東大震災福田村事件
犠牲者追悼慰霊碑」があるが、墓碑を兼ねている
ため、事件を説明する文はなかった。 
昨年の100年の節目を契機に慰霊碑を訪れる人が
増えたこともあり、新設した。 
 ●映画「福田村事件」が招いた " 誤解 "  福田村事件は関東大地震から5日後の1923年
9月6日に発生した。香川県から薬の行商で福田村を
訪れ、茨城県側に向かおうとしていた男女15人が、
同村と隣の田中村(現在の柏市)の自警団に襲われた
2歳、4歳、6歳の子どもや妊婦を含む9人が殺され
遺体は近くの利根川に投げ込まれた。

市川さんは「100年の節目の昨年、映画の公開も
あり多くの人が関心を持った」と振り返る。
一方、事件の周知は進んだが、真相を知る
「認知」までは途上と課題も指摘する。

昨年公開された事件と同名タイトルの劇映画
「福田村事件」について、市川さんは企画段階で
製作側に協力した。しかし完成した内容は
「行商の人などの描き方がひどい」と憤慨する。
具体的には、行商人らしくない服装や、効果の
ない薬を売りつける場面、自ら被差別部落出身
であることを語る場面などが史実と異なるという。
行商団は香川県が交付した証明書を所持して
薬を販売していたほか、当時は現在よりも
被差別部落への差別が厳しかったと指摘。
「犠牲者、被害者の名誉を傷つけ、差別が
広まってしまう描き方だ」 
 ●「映画=史実」ではない
 
実名明かした遺族の覚悟
フィクションと史実の区別が付かないことで
史実を伝える活動にも影響が出ているという。
学習会で事件を説明した際、参加者から
「映画の内容と違う。間違ったことを言っている」
と詰められたことを紹介。
「映画のストーリーが
史実であるかのように広まっている。誤った内容が
一人歩きして定着することを危ぶんでいる」
と嘆く。
6日の追悼行事に参列した遺族関係者も同じ思いだ
中嶋英喜さん(55)は「将来、映画を見た人が
内容を史実と思ってしまうだろう」と懸念を
示した

映画の負の影響も感じている。知人らから
「犠牲者の親せきなのか」と電話を受けたり、
地域で県外ナンバーの車や知らない人をたびたび
見かけたりと「二次被害」にさらされている。
谷生右京さん(47)は「子どもがまだ小さい。
何が起こるか分からないのは不安」と述べた。
一方、中嶋さん、谷生さんとも昨年の追悼行事では
匿名で取材を受けたが、今年は実名で応じた。
「名前を隠すことは先人に対し背を向けている
感覚がある」「黙っていては差別の問題は
なくならない」と思いを明かした。 
 ●虐殺はなぜ起きた 背景に「複合差別」
むごたらしい虐殺がなぜ起きたのか。
市川さんが強調するのは、複数の差別意識が
重なった「複合差別」が背景にあるという点だ。

一行は被差別部落出身で地元で職を得ることが
難しく、行商に生活の道を求めていた。
震災直後の混乱で朝鮮人による略奪や放火を伝える
デマが広がり、各地で民間の自警団による朝鮮人に
対する暴行、虐殺など殺傷事件が起きていた。
福田村でも武装した自警団が警戒を強めており、
そこに現れた行商団が不審者と疑われた。

市川さんは講演で「押し売り」「浮浪人」とともに
「不正行商人」の通報を呼びかける当時の警察
ポスターを紹介する。だが「不正」かどうかは
外見では分からない。社会が動揺する中、人々の
警戒心が増幅され、自警団には行商団が
「あやしい一行」と映った。 
 ●「朝鮮人と誤認説」に一線画す
 
行商団の男性証言
当時13歳で行商団の1人として事件に遭遇し
奇跡的に助かった男性は、後の聞き取りに
地域の警戒ぶりを以下のように証言している。

福田村で薬を売るために戸別訪問すると
「消防組とか警備員とかがずっとついて来て、
家に入ると3人ぐらいが竹やりを持って
『おまえ、どこから来たのか』と聞くので鑑札
(薬の販売証明書)を見せ、信用してもらって
奥で話をした。こうしたことが何回かあった」
市川さんは、行商団が朝鮮人と誤認された説とは
一線を画す。聞き慣れない讃岐弁で朝鮮人と
間違われたというのが定説とされてきた。
「裁判で被告は『朝鮮人と間違えた』と答えている
私は罪を軽減するための方便とみている。
『朝鮮人であれば殺してもよい』
との考え方につながらないか」

香川県の遺族と交流を重ね遺族宅を訪ねると、
仏壇にある位牌に「殺されたり」「惨死す」
などの記載があった。
「遺族は今でもこのような位牌に線香を上げ
拝んでいる。事件は終わった話ではない。
今でも続いている」 
 ●人権教育の題材
市川さんは自ら語り部として現地での学習会の
ほかに県内外で講演を続けている。
約20年間で案内した人は約3千人に上る。

「人の命が奪われることはあってはならない。 それがこの現場で起きた」
8月7日、同市三ツ堀の香取神社。鳥居の下に
小中学校の若手教員らが足を進めた。行商団のうち
助かった6人がいた場所だ。少し離れた場所に
かつて水茶屋があり、その前の腰掛けにいた9人が
犠牲になった。市川さんは消防活動などで使う
とび口を手に「これらが凶器になり(犠牲者は)
頭を割られ、体を刺された」と当時の様子を
説明した。
埼玉県から訪れた教員らは事件現場や近くにある
追悼慰霊碑を巡り、市川さんの話に耳を傾けた。
研修は人権教育担当者が対象で、20年ほど前から
続いているという。今回の研修に参加した小学校長
は「20年前にも研修でここに来た。市川さんは
その間、地道な活動を続けている。正しい歴史を
広めていると感じた」と感想を述べた。 
 ●2市長が弔意
100年の節目の昨年、地元自治体との距離も
縮まった。野田市の鈴木有市長は6月の市議会
一般質問で「被害に遭った人たちに謹んで哀悼の
誠をささげたい」と答弁。柏市の太田和美市長も
9月の市議会一般質問で「亡くなった方々の
命の尊さを思うと誠に心が痛む」と述べた。

30年近く事件の真相究明などに取り組んでいる
市川さんは「公の責任者が(公式の場で)弔意を
示したのは初めて。市民運動などの活動が社会的な
関心を高め、それが後押しした」と感慨深く語る。

同時に、映画によって広がった誤解を解くため、
後世に伝える活動を継続することの必要性を
改めて感じている。

20年前に追悼慰霊碑を建立する際は「福田村事件」
と刻むことさえためらう状況があったという。
地元にとっては負の歴史で触れられたくない空気
があった。市川さんは「こうした考えを解放
できるかが課題。乗り越えないといけない」
と力を込める。 
 ● 「3人は地震で死んだのではない」 
標準語を話せない地方出身の青年を虐殺 
関東大震災・検見川事件 差別偏見の根絶願い、
千葉市花見川区で慰霊の集い
2024/09/07 千葉日報
https://www.chibanippo.co.jp/news/national/1273093





『こんにちは、母さん』