この一つ一つが、世界中に存在する核兵器の数を表現しているのです💣
その数…実に13865個💣
その内🔴🔴2つの赤い点は
1945年8月6日広島
と
1945年8月9日長崎に
落とされた原子“核”爆弾…💣💣💨💨
「核兵器がなくなるまで、
私たちは長崎や広島のことを忘れてはいけないし、
一歩ずつでも歩みを進めなくてはいけない」

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映画『日本のいちばん長い日:聖断』
「命を捨てて日本国民を救った昭和天皇の終戦の “ ご聖断 ”」
大東亜戦争の終結。
それは昭和天皇の命がけの決断でした。
8月6日、広島に史上初めて原子爆弾が投下されました。
9日には長崎に2発目の原爆が投下されました。
沖縄を収めていた連合国軍は10月には南九州に上陸する計画でした。
そして11月には関東地方に上陸を敢行する計画も立てられていました。
また9日には日ソ不可侵条約を一方的に破ってソ連軍が満州や樺太に侵入してきました。
終戦を急がなければソ連軍は北海道に侵攻し占領していたでしょう。
やがては本州にも上陸したに違いありません。
当時、軍部は徹底抗戦を主張していました。
国民は一億玉砕という軍部とマスコミの扇動に操られていました。
本土決戦では数十万、数百万の犠牲となったでしょう。
さらに国土は徹底的な破壊を受けたことでしょう。
最悪の場合には日本という国自体が消滅していたかも知れません。
そのような悲劇を回避できたのは昭和天皇の御聖断でした。
陛下以外にはこの戦いを納められませんでした。
昭和20年8月9日の御前会議。
会議の席上、戦争を終結させるか否かについて、いろいろな論議がでました。
戦争継続3人
戦争終結3人
議論は対立し決まりませんでした。
しかし最後に鈴木総理大臣が立って、
天皇陛下に
「陛下の思召しをうかがわせて下さいませ」
とお願い申し上げました。
天皇陛下は
「それでは自分の意見を述べるが、みなの者は自分の意見に賛成してほしい」
と仰せられました。
陛下は
「自分の考えは先ほどの東郷外務大臣の意見と同様に、
この戦争を無条件に終結することに賛成である」
と仰せられたのであります。
部屋はたちまち号泣する声に満ちました。
敗戦を受け入れることは陛下の処刑を受け入れることを意味していたのです。
陛下はじっと斜め上の方をお見つめになっていらっしゃいました。
そして白い手袋をおはめになった御手の親指を眼鏡の裏にお入れになって、
何回となく眼鏡の曇りをおぬぐいあそばされておられました。
やがて白い手袋をおはめになった御手で、両頬をおぬぐいになりました。
陛下御自身お泣き遊ばされていることを拝しました参列者一同、
身も世もあらぬ気持でその時ひれ伏し泣くほかなかったのでございます。
陛下は
「念のために理由を言っておく。
自分の務めは先祖から受けついで来た日本という国を子孫に伝えることである。
もし本土で戦争が始まって本土決戦ということになったならば、
日本国民はほとんど全部、死んでしまうだろう。
そうすればこの日本の国を子孫に伝える方法はなくなってしまう。
それゆえ、まことに耐えがたいことであり、忍びがたいことであるが、
この戦争を止めようと思う。
ここにいる皆のものはその場合、自分がどうなるであろうと心配してくれるであろうが、
自分はいかようになってもひとつもかまわない。
この戦争を止めて国民を一人でも多く救いたいという自分の意見に賛成してほしい」
陛下は胸からしぼり出すようにして途切れ途切れに述べられたといいます。
このようにして大東亜戦争は終わりました。
すなわち大東亜戦争が終わったのは、
自分の身はどうなっても国民を救わなければならない、
このような天皇陛下の必死の思いによって終戦の御聖断は下されたのです。
終戦の御聖断は憲法に定められた立憲君主の立場を超えたものでした。
それは国民を救いたいという願いからの決断でした。
8月15日、玉音放送で終戦の詔勅が全国に放送され、
国民に呼びかける陛下のお言葉に全国の国民は泣き崩れました。
今日の日本があるのは、
国民のためを思い、自らを犠牲にして終戦を決めた昭和天皇の御聖断にあることを
忘れてはなりません。
「四方(よも)の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらむ」
明治天皇の御製
四方八方の海で暮らす人たちはみな同じ兄弟姉妹なのに、
どうしてその人達と波風を立てて争うのだろうか。
(開戦の時の昭和天皇の言葉)
