2011.06.02 帝釈天 インドラーの悟り
今日も、魂の内なる声。耳には聞こえない、魂の沈黙の声に耳を傾けましょう。
魂は、目には見えず、耳には聞こえず、手にも触る事は出来ません。
しかし、見えず、聞こえず、触れないものが、世界の根源にあります。
そうした、朽ち果てない世界を、人はどうしたら、生きている間に体得出来るでしょうか?
というより、人は何故、魂の本質に目覚めようとしないのでしょうか?
今日はこういう問題について考えてみたいと思います。
仏教で、帝釈天という神がいます。
この神は、実は今より三千八百年も昔、インドに実在した、修行者でありました。
インドでは、インドラーと言います。
インドラーは生まれながらに、博覧強記、記憶力が抜群の子供でありました。
その時あなたは、そのインドラーの近く、身内のひとりとして、このインドラーの成長を、見守っていたのであります。
インドラーは、記憶力が抜群で、古代の聖典をすらすらと記憶し、そして、中でも卓越していたのは、死にかかった生命体、人でも植物でも動物でも、元通り生き返らせる事が出来るという、並外れた力を持っておりました。
インドラーの父は、バラモン階級の総まとめ役のような存在でありました。当然インドラーは、その跡を継ぐものと誰もが思っていました。
しかし、インドラーには、心に翳りがあったのです。
生まれつき、天然痘のような病気にかかり、全身のあちこちに腫れ物、おできのようなものが、成人しても残っていました。
インドラーはその事を大いに恥ずかしがり、自分はバラモンの長など、受け継ぐに相応しくないと、悩んでいたのです。
人はそのような事を全く気にしませんでした。
しかし、インドラーは、大いにそれを悩んでいたのです。
結婚適齢期になっても、インドラーには相手が出ませんでした。
きっとそれは、自分の腫れ物、病気のせいだと、悩むようになったのです。
インドラーは、どうして自分がこんなに惨めな病気になったのかと、思い悩みました。
そして、至った結論は、自分の家が、こんなに贅沢をしているせいではないかと思ったのです。
インドラーは家の財産を、貧しい人々にどんどん分け与えました。
そしてわざわざ高価なまつり道具や、祭典の儀式の一式を、自分の腕自慢で、ことごとく壊していったのです。
家は傾き、一家は皆貧乏になりました。
それでも、インドラーの病気は治りませんでした。
父親はインドラーをこっぴどく叱りました。
しかし、叱る度に、インドラーの根性は、ますます曲がっていったのであります。
ある時、インドラーが湖に腰を掛けていました。
あなたはそっと近付くと、インドラーを慰めようとして言いました。
「この湖には、不思議な効力があると言い伝えられています。
好きな時にこの湖に来られて、沐浴をなさると、あなたの病気はすっかり治ると思います。」
すると、インドラーは、メラメラと怒りを表して、髪の毛を逆立ちにし、あなたに向って激しい怒りを見せて言いました。
「お前までがこの私を侮辱する気か!」
「どうしてですか?私はあなたに楽になって欲しいから言っているだけです。」
「何を言うか。この湖面に写る、この自分の醜い姿を、この湖に来る度に、俺は何度でもそれを瞼に焼付けなければならんではないか。」
あなたは愕然としました。ここまで根性が曲がっているとは。
しばらくすると、インドラーは一族の前から姿を消しました。
もの皆には、俺はしばらく、須彌山で修行をして来ると言い残し、その通り、それから激しい、苦行の日々が始まったのです。
ある時は切り立つような、岩場に結跏趺坐し、ある時は自分の体を逆さ吊りして、谷底を睨みつけながら、何時間も逆さまになりました。
しかしそれでも一向に彼の病気は良くなりません。
彼はたいそう苛立ち、そして終いには、村人に悪さを働くようになってしまいました。
“須彌山の近くでは、この山の近くには、真っ赤な顔をした悪い鬼が出るそうな”という噂が広まってしまったのです。
そしてあろうことか、村人を喰らい尽くし、その心臓を、火の神アグニに捧げているという、噂が広まりました。
あなたはこれ以上、義理の兄に、罪を犯さしてはならぬと思い、自分が犠牲になろうと思って、岩場に横たわりました。
インドラーがもし、自分の心臓を盗みに来るとすれば、満月の夜と決まっています。
あなたは意を決して満月の晩に、自分の心臓を、狙い撃ちするように、岩場の上に横たわりました。
案の定、月が高く昇った時、インドラーが近付きました。
そして、あなたを滅多打ちにしようと致しました。
その時、近くにあった水盆に、兄の顔が映りました。
兄は驚いて、石の斧を振り落としました。
「どうされましたかお兄さん。私を一思いに突いて下さい。」
「わしは今、赤鬼を見た。何も考えずに荒んだ日々を送っておったが、わしの顔がこんなに荒んでおったとは。」
兄はそれから、さめざめと泣き始めました。
しばらくして、インドラーは言いました。
「どうすればまともになれるのかの?この病気さえ治れば、わしはまともになれると思っていた。
全てはこの病気が治ってからの事だと。
他人に対して親切になれるのも、悟りを得るのも、全てこの病気が治らなければ得られないと思っておった。」
あなたは、優しくインドラーの背中を撫でた。
「勝とう勝とうと思って、こられたのですね。」
「そうだ。わしはこの病気に勝とうと思っておった。
しかしわしは今、お前の優しさで知った事がある。
わしが戦って勝つべきは、己自身であった。
父と戦い、人と戦い、病気と闘って得られたものは何も無かった。
戦いには全く意味が無い。己と戦う以外。
俺は、真の強さを得て、無敵になりたい。
無敵になるには、この世の相手という相手をことごとく打ち倒さなければ、無敵になれないと思い込んでおった。
しかし今こそ知ったのじゃ。
最後の敵は、己自身である。俺は俺に打ち勝つ。
何かから逃げる自分と、今日限りに決別する。」
そして、インドラーは君の勧めもあって、我が家に帰って来た。
それから、下積みの生活を始めたんだ。
床の掃除、庭の掃除、水汲み、食器を洗うこと、料理を作ること、それはバラモンがしてはならないことばかりであった。
本来は、スードラ即ち、下層階級の人間がすることをことごとくした。
「人前で威張りたいと思うのも、弱い心だ。何かを無性に得たくなる心も、弱い心だ。
何故なら、それがなければ生きていけない事を示しているから。
人に威張り散らすのも、それもまた弱い心から来る。
何故なら、人を見下さなければ、自分が尊いと思えないから。
何故この自分を尊いと思えなかったのだろうか?
何故何もしなくても自分が尊いと思えなかったのだろうか?
お金など、あっても無くても関係ないではないか。
俺は、俺から逃げていた事に気が付いた。
もう、この己から逃げる事はやめよう。
天然痘であろうと、何であろうと、そこから逃げる事はやめよう。
例え容姿がぼろぼろとなっても、それから逃げる事はやめよう。
逃げない生き方こそ、無敵の行き方だと、今なら言える。」
その時だった。インドラーの体内に、自己治癒能力が芽生え始めたのは。
「俺は、本当の、癒すという事を学んだようだ。
俺は今まで他人の病気を治したり、人の命を蘇らせたりしてきた。
癒すというのは、悪い状態を良い状態に変える事だと、思い込んでいた。
しかし自分の体だけは、悪い状態を良い状態に変える事は出来なかった。
今こそ掴んだぞ。本当の癒しの業を。
相手を癒すという事は、相手の病状がどうであれ、その状態そのものが、すでに治ろうとするプロセスだと、思うこと。
この俺が、俺以外の人間になれないように、相手も全く違う人間になることは出来ない。
この俺が今までしてきた事は、他人に別の人間になれと言っているようなものだ。
しかし、この俺は、俺以外の人間になる事は出来ない。
その俺が例え貧乏であろうと、金持ちであろうと、病気であろうと、健康であろうと。
不思議なことだ。
天然痘を治そうと思っていた時は、この天然痘を治す事は出来なかった。
しかしこの天然痘をそのまま認めた時、この天然痘もまた、治ろうとする現われであると認めた時、不思議なことに、跡形も無く俺の体はきれいになったではないか。」
インドラーはその事で深くあなたに感謝をした。
「お前はこの俺の、ありのままを見ようとしたのだ。
ありのままでそのまま、そのまま健康であると。
ありのままを、そのまま、大らかな心で認める時、
そこには、健康も無い、病気も無い、老いる事も、生まれる事も、死も無い。貧乏も、金持ちも無い。
ありのままに認める力。
長い長い生まれ変わりの中で、俺が本当に得たかった悟りはこれだ。」
人間の肉眼は、物を差別して見ます。
しかし、人や物事を差別せずに、その物事をありのままに見つめる目があります。
これを第三の目という。
第三の目には、人と比較する心も無ければ、優劣をつける心も無ければ、あれとこれを比較する心も無ければ、過去に囚われる心も無ければ、未来に過剰に期待する心もありません。
第三の目はたったひとつしかない。
たったひとつの目には、たったひとつのものしか見えません。
人も無ければ、自分も無い。
そこにあるのはたったひとつの命。
全てがたったひとつの命ですから、その命が他の命より優れているとか、この命があの命より劣っているという事もありません。すべての差別を超えた時に、インドラーは第三の目を開きました。
優劣比較の心を捨てた時に、インドラーは全てを見通す力を得たのです。
こうして帝釈天は、今も神界において、区別し、比較し、優劣をつける心を捨て、穏やかな心になるように、万象万物をその偉大な神通力で指導しておられます。
このたったひとつの目を、私達が獲得したその時にこそ、私達はすべての劣等感を超え、優越意識を捨てることが出来ます。
劣等感や、優越感を悪だとして、押さえ込む事は出来ません。しかし人々がひとつの目を身につけた時、人と比較する心を捨て、自ずと優越意識と劣等意識を、同時に越えることが出来ます。
そして今起きている出来事は、そのままで正しいのです。
差別意識を持った己から見ると、それはタイミングが早いとか、タイミングに乗り遅れたという表現を致します。
しかし魂の目より見る時、全てがそのままでグッドタイミングなのです。
乗り遅れるとか、先んじるという事はありません。
今の環境も、自分にとって過ぎるとか、足りないという事もありません。
全てがそのままで、自分にとって丁度いいのです。
住む家も同じです。もっと適当な家があるのではないかと、肉の目は思います。
しかし、魂の目で見ると、住む家はこの家たったひとつです。
そしてこの家が用を終えた時に、また別の家が現われるに過ぎません。
この人生では、たったひとつの事しか起きません。
そのたったひとつの事とは、自分に最も相応しい出来事であります。
自分に相応しい出来事以外は、起りようが無いのです。
全てが自分にとって、分相応な出来事です。
このようにして帝釈天は今でも、人々に、今の環境は、あなたにとって分相応である、そう思えた時、そしてそこから何かを学んだ時、また別の環境が開いて行く。
人生はその繰り返しだよと、日々の単調で、飽きやすい人間の心に、活を与え、日々を前向きに、生き生きと生きることを教えております。
このようにして身近で、インドラーの悟りを見たあなたは、この時心の中に、日々を生き生きと生きる事。物事をあるがままに認める事。起きた事は全て正しいと思う事。これらの悟りを得たのであります。
これらは現在でも、あなたの物の見方のバックボーンとなっているはずであります。
どうぞ、今日の話をきっかけとして、この教えをもう一度思い起こされ、インドラーが得た、たったひとつの神通力。
物事をあるがままに認め、あるがままの出来事を受けとめる。
そんな素晴らしい、人生が、今から展開します。
私の話を聞きながら、あなたの悟りを深めていただきたいと思います。