2007.10.14 草木染職人の心得

 

 今ここに横たわっているあなたは、親や先祖から与えられた肉体に仮の姿として宿っておるだけで、それはあなたという魂を入れる器に過ぎないということを自覚することです。

いかに今ある生活が不自由に見えても、それはつかの間の不自由。魂は鳥のように大空を羽ばたく。

そなたは、霊界にあっては鳥のように羽が生えて、自由に空を飛んでおった。

その自由な束縛の無い心を、不自由な環境に生まれたとしても失うことなかれ。

たとえ親やパートナーが、どうしようもない生活上の癖を持ち、それによって悩み苦しんだとしても、自分まで心を苦しめてはならない。

人の姿をみて、一喜一憂すること無かれ。

霊界にいる時の、自由な鳥のような気持ちを失うなかれと教えられて、今生もまた生まれてまいりました。

なぜ霊界でこのような鳥の姿になって、大空を舞っておったか?

それは前世に秘密があるのであり、飛鳥の都において、大空を飛ぶ鳥に身も心も焦がし、大空を自由に飛び回るその鳥となりたい。 憧れたからであります。

広々とした心で、茜色に染まりゆく奈良の都を見て、功成り名遂げて、一代を終わらんとする時に、いつまでも、この茜色を心に留めおきたいと、願ったが故に、霊界において、鳳凰のような姿となり、大空を舞ったのであります。

こうして、奈良の時代において、自由の境地に至った。その喜びの境地に浸ったが、実はそこまで至るまでにも、いくたびかの紆余曲折があった。

今日は、魂を、磨き向上させていった、一職人の話を致しましょう。

 

さて、奈良に都が構えられておったのは、ほんのつかの間でありまするが、そうした俗世の権力組織のありざまとはまた別に、いつの世もこつこつと、己の技を磨き、己の御霊を向上させんとする、職人たちの姿がありました。

山科の里において、草木染という技を一途に究めんとして、誠心誠意、己の技に打ち込んでおった時代があったんです。しかし、なかなか思うように己の技が究まらない。

大勢の弟子を抱えた先生の下で、修行をしておりますが、思うように草木染が描けないのであります。それは自分の常識観念と言うものが邪魔を致します。あまりにも模様を描き過ぎると、地味な印象を与えてしまう。かといって、一点だけを描いたのではこれは単調すぎるし、その中間を描きたいのだけれども、今度は肝心の色が出ません。渋柿色の、ちょっと黄いばんだ、オレンジ色が好きなんですが、その色をなかなか、形に表わす事ができません。草木の種類を増やしましたが、一緒であります。

こうして百人近くおった門弟の間で、自らも技の向上を競いますが、なかなか芽が出ないのであります。

そうしている間に、明らかに自分よりは、腕が劣っているとみれる人たちが、どんどんと師匠に認められて、そして自分の村に帰って、草木染の職人として生きることを許されます。しかし、長い間修行を重ねておった自分のほうが、明らかに腕が上なのに、なかなか師匠から認可状をいただけません。次第に心にあせりと不平不満がくすぶってまいります。

おかしい。明らかに自分のほうが腕前が上なのに、なぜお師匠様は自分を認可していただけないのだろう。私はお師匠さんに嫌われているんだろうか?いつになったら私は独立できるのだ。また一人前の職人として、いつになったら自分を認めて下さるのかと、疑心暗鬼が持ち上げてまいります。これではいけないと思って、誠心誠意、芸の道に打ち込めば打ち込むほど、己が尽くした苦労が報われない。自分の運命を呪ってみたくもなるのです。

これほどまでに、誠心誠意打ち込んでも、なおも花が開かぬ。己はよほど業の深き星の元に生まれてきたのだろうか?それとも、口下手であるがゆえに、なかなか認めてもらえないのだろうか?あるいは、自分のアピールする力が弱すぎるのだろうか?

自分の意思が弱いのだろうか?どのようにしたら、人々の気を引くことができるのか?気の強い人がどんどんと認可されるのだろうか?どうなのだろうか?自分の腕前が、社会的に評価されませんと、自分というものと社会の間に、大きな黒い溝ができたように感じられて、何をするにつけても、歯車の合わない、なにかこう切り離された孤独な気持ちが、ずしりと己が心の中にのしかかってくるのであります。

社会というものはえこひいきするものなのか?あるいは自分の悪口をだれかが言いふらした結果、どんなに自分に才能があっても、自分がとりたてられないのだろうか?

何かが狂っているのだろうか?自分の努力が足りないのであろうか?

何か、才能だけではだめな、別の要素が必要なのかと思って、神頼みもしてまいりますが、なかなかうだつがあがりません。このようにして、苦しみの日々が続きますと、しだいにまじめに芸に打ち込むのも、ばかばかしくなります。自分より遅く入ったものが、先に認可されて独立していく日に、

「私を祝福して欲しい。」

とその人に言われたが、出てくるものは、恨めしそうな表情ばかりでありました。

「あなたは私より修行の年限が短いのに、もう独立なさる。あなたには、際立った才能がおありなのね。」

ほめ言葉とも嫉妬ともつかぬ言葉が、口をついて出るありさま。こんなことではいけないと思いながらも、しかも、どうすることもできない、己の葛藤と矛盾に悩み苦しみます。

自分はそれほどまでに、業が深いのだろうか?仏教の道ではどうなのかと思って、仏教のその道の先達を訪ね歩いても、

「いえいえ、仏教には、出世ということについては、説かれておりません。死後の魂の安楽のみがかいてあります。」

という、むなしい答えがかえってくるばかり。

これでは仏教の道にも救いの道はない。神社に行ったけれども無駄であった。

そうしてみると、思い出されてくるのは、幼少期から自分を励ましてくださった、お父さんやお母さんのことだ。

「いいかい、たえよ。この世にはどうにもならぬものがある。それに反発してはならぬ。

じいっとじいっと耐えていくのだ。名前のようにね。」

そういわれた言葉が思い出されます。

してみると、今の自分の境遇は、どうしようもない境遇であって、じたばたしたところでこの重石を取ることはできない。ただただ名前のごとく、ひたすら耐えていかねばならぬのか?まわりが、相手が変わるまで待ち続けるしかないのか?大きなチャンスがめぐって来るまで待つしかないのだろうか?

仏教にも答えがなく、神社にも答えがない。また道の先達に聞いても答えはかえりません。

また、自分よりも早く独立していった人間を、心の中であれこれと思い浮かべても、とりたてて才能のきらめきというものもなければ、自分が学ぶべき点もないように感じられます。そうしますとこの場所で、草木染を勉強すること自体に目的と意義を失い、心の中には虚しさが募ってくる。ただただ虚しい日々が続くならば、いっそ草木染の仕事は辞めて農民にでもなろう。

そうやってぼんやりと川岸に腰をかけて、石ころをポンと川に投げますと、パシャンと波紋が広がってまいります。ある夏の日の昼下がりでありました。いつもと同じように、草木染の修行を終えますと、川原に腰をかけまして、ぼぉーっと川面を見ておりました。水が流れております。あの川に逆流がないように、私の人生にも定めという、どうしようもない抵抗することのできない力があって、私を一定方向にしか流そうとしないようだ。この流れに逆らっても無駄なのね。

いつの日か、平凡な、その日暮らしのような心境となっておりました。

そうして川をじぃっと見ておりますと、村のわらべたちが水浴びをしております。夏とは申しましてもすでに盆を過ぎまして、水の温度も冷たくなっておりました。わらべたちがはしゃいでおります。そして水から上がって、わらべたちがゆっくりとこちらに向かって歩いてまいりました。あなたはいつになく、声をかけてみる気になったんであります。わらべのひとりに声をかけてみました。

「どう?もう水は冷たいでしょ。どうなの?」

「えっ?水が冷たいって?」

「そうよ。もうお盆も過ぎたことだし、川遊びしたらさぞ冷たかったでしょ。」

「えっ?水?冷たくなかったよ。あったかかったよ。」

「あら、そうなの?あったかいの?」

「うん。まだあったかいよ。」

そうなのか。川の水はまだあったかいんだわね。そうやってわらべたちが、あなたから別れていきました。そこへまた、別の村のわらべたちが、わぁっと集まって水遊びをいたします。

「ねえねえ、あなたたち。さっき聞いたら川の水冷たいって。だから遊ぶのはやめたほうがいいよ。」

「でも、さっきの人はあったかいって言ったよ。」

「うん、そうね。お姉さんも不思議に思ったの。でもね、冷たいって聞いたわよ。どう?」

「いや、あったかいよ。」

不思議に思った。とうに盆を過ぎておったから、この川にくるまでに、しきりにもう川の水もずいぶん冷たくなったろう、という話を聞いていたからだ。ところが、このわらべたちは口々にあたたかいというではないか。そういえば、さっき通り過ぎていったわらべもあたたかいといった。

「あったかいはずなんかないよ。冷たいはずよ。だから体に悪いから上がっておいで。」

「ん?お姉さん、冷たくなんかないよ。」

「そうなの?」

「うん。冷たいかどうか、自分の体で感じてみなよ。」

わらべにそう言われたんです。そうして、わらべたちに手を取られて、川岸に近づいてまいりました。

「どう?おねえさん、冷たいかい?」

「そうねえ。そういわれてみれば、思ったほど冷たくないね。」

「だろう。人の話なんてあてにならないよ。寒いか暖かいか、自分の体で触れてみないとわかんないと思うよ。」

その時、電撃のように心に響くものを感じたんです。そうか。自分は村人の話を鵜呑みにしてた。

冷たいかあったかいかなんて、人の話を聞いている間は、わかんないんだ。所詮、冷たいか暖かいかは、個人差があるんであって、結局自分が全身の肌で感じて見ない限り、わからなんだ。

そうやって、川面に向かってぶつぶつとつぶやいたんです。

「そうよね。あったかいか冷たいか、自分でしかわからない。人の話ではわからないんだわ。」

なにかこう、電撃のようなものが、自分の心に響いたんであります。ところがその光景を、お師匠さんがじいっと見ておりました。そしてゆっくりと近づいてまいりました。ふっと後ろを振り返りますと、草木染のお師匠さんが、足元を濡らしながら、自分のほうへ向かって近づいてまいりました。

「ああ、お師匠様。」

「うん。今あなたはおもしろいことを言ったな。」

「えっ。何か言いましたっけ?」

「もう一度言ってごらん。何てつぶやいたかね?」

「いいえ。取るに足りないお話です。」

「いいから言ってごらんよ。」

「あ、はい。冷たいかあったかいか、自分でしかわからない。」

「いい言葉じゃないか。おまえさんに欠けていたのは、一体全体、その言葉じゃないのか。」

「どういうことでしょうか?」

「おまえさんは人と比較して、自分のほうが上手いだろうか、下手だろうかと悩んでいただろ?」

「はい。」

「おまえさんの草木染が上手にできたか下手にできたか、自分で決めるしかないんじゃなのかい?」

「お師匠さんがお決めになるんじゃないんですか?」

「ちがうちがう。」

「お客さんがお決めになるんでしょうか?」

「ちがうちがう。私はここ数年のおまえさんの技の上達振りを見ているうちに、もういつ独立させてもいいなと思っておった。」

「そうなんですか。」

「ああ。ところがおまえさんには独立するにあたって、一番重要なものが欠けておった。」

「それはいったい何でございますか?」

「それは自信だよ。おまえさんは、今もし独立させたらいつも人の顔色を伺って、これってうまくできて

ますか?できてませんか?いつも人に気兼ねしながら人の顔色を見て自分の作品の価値を決めるだろう。そんな人間は独立したら、一年で店をたたんじまうよ。よく覚えておくんだな。芸の道は最後は自分で決めるしかないっていうことさ。上手いか下手か、よくできたかよくできないか、自分できめるんだよ。自分の商品の価値は、自分で決めてこそ価値がつくと思いなされ。そうでなければ、都の人間はたいそう目が肥えている。高い値段では売れやしないよ。高い値段で売れなければね、店なんて長続きはしないものさ。よぉく覚えておくんだね。」

「・・・ありがとうございます・・・」

初めて芸の道を通して、人間の生きる根本的な姿勢について悟ったのであります。

良いか悪いかは自分で決めよ。草木染の達人がそなたに残した教えの至上の教えのひとこまでありました。

もちろん最初は、基礎技術を身につけるまでは、いろいろと師匠から教わるだろう。

しかし、最後の最後にふんばりがきくかどうかは、自分がどう自分を評価するか、自分が

自分をみるまなざし。このまなざしを鍛えるところに、芸の本当の修行の道がある。人の目を気にしているうちは、道は開かれない。また、協力者も現れない。天命の道もまた開かれない。

草木染の道一筋に究めた師匠の言葉は、さすがに人生の冥利妙諦をついておったのであります。

他人の姿に動揺する心。いかに技が磨かれていても、心が磨かれていなければ、心技一体の名作を作ることはできない。

技が未熟であっても、自信がみなぎる者が先に独立していったのは、そのせいでありました。

心技一体といいながら、心をちょっと優先させて、技心一体でなく、何ゆえ心技一体と心を先にいうか。

まさしく、奈良の山科の里、草木染の達人が残した至上の言葉であります。自分で自分の心に白黒をつける能力がある。自分が正しいか正しくないかは、自分が決める。

こうして、自分が自分に自信を持ったとき、あなたのまわりの人々もまた、自分で自分に自信を持つ。あなたを中心にして、自信の輪が広がる。

ここに、今生の人生を紐解く、大きな鍵があるということに、目覚めていただきたい。

本日は、芸の道を通して淘汰した、冥利妙諦の一説、しかと心に留めおかれたい。

 

 

 

 

アカシックレコード書記官