こんばんは。
えー今回は会津若松に拠点を構えていた蒲生家関連記事になります。
秀吉から伊達政宗や徳川家康への牽制役として会津に転封となったとされる蒲生氏郷。
九戸政実との戦いで総大将を演じ、いいように翻弄されて評価が下がったとされてます。。。
能力あったのは間違いないと思いますが、いきなり大禄をもらったが為に対応が追いつかなかったからでは?と個人的には思うのですがw
そもそも九戸政実を主人公とした小説で九戸政実を持ち上げる為に蒲生氏郷がヤラレ役になったので、誇張されている面も多かったんだと思いますけど。。。
そんな蒲生氏郷が急死(井戸水に毒を盛られた説が強い)した後、紆余曲折を経て減封されはしたものの家康の娘を正室とした蒲生秀行が初代会津藩主になります。
ただ氏郷の代から蒲生家内では権力争いが絶えず、病弱だった秀行も早世。
更にその息子・忠郷が後を継ぐものの、忠郷も疱瘡を患って早世。。。
そんな蒲生忠郷の眠る高巌寺
お寺の裏手に解説と
蒲生忠郷のお墓があります。
そしてところ変わって興徳寺
お寺の御本堂がなかったんですよね?
あまり深く探さなかったのもありますが。。。
奥には蒲生氏郷のお墓があります。
先ほど蒲生氏郷は毒殺されたとされた。。。と書きましたが、
・秀吉の朝鮮出兵に強く反対した為に秀吉サイドに暗殺された説
・あえて朝鮮出兵させて弱体化した豊臣家にとって代わろうとしたのを邪魔する氏郷を除こうとした家康サイドに暗殺された説
の2通りあるんですよね。
後に徳川家と厚く繋がる事になる蒲生家、それは家康の後ろめたさからその子孫を手厚く扱ったのでは?
ま、家康の指示ではなくその参謀たちが行った可能性もありますが。
こうして手厚く祭られている氏郷・・・短い間の支配でしたが、会津での評判はやはり良かったんですかね?
そういえばあまり加藤嘉明の名前を会津では見ていないような。。。
蒲生氏郷墓
織田信長に見いだされ、その娘を正室とした氏郷も、意外と地味に最後を迎えてしまったんですね。。。
どちらかというと「俺が」「俺が」タイプではなかったのかもしれません。
撫で牛・・・せめて高台に配置してあげればよいのに。
撫でるが人足腰弱いと逆に大変なんですが(←(-ω-;))
興徳寺敷地内にあった瑞雲閣・・・これが興徳寺の御本堂。。。ではないですよね(汗)
幕末に関連した建造物らしいですが、たぶん当時の泥沼戦関連のものでしょう。。。ということでスルーw
と、蒲生家の当主のゆかりの地巡りも兼ねての会津若松散策の1シーンをお届けしましたw
またワンクッション開けて、次回より一昨年夏の東北行軍シリーズラストのセット記事になります。
でわでわ( -ω-)/