こんばんは。


先日深草館の記事upした際、今回ご紹介する龍岸寺の事を書いてましたが・・・




記事まだupしてませんでしたね(・ω<;)ゞイヤァ



なのでここでupさせて頂きます(汗)




カーナビでもここに来るルートが表示されなかった。。。道の年期を考えても新しく出来たルートではなく、むしろ長い事ここの道自体を認知されないままなんでしょう(汗)


地図もって行ってヨカタヨw


大泉寺に引き続き

羅漢像群が駐車場に見られます。。。こちらの羅漢像の方が大きかったです。
(勿論数は少なかったですが・・・って大泉寺の羅漢像が数多過ぎるんです(-人-;))


羅漢様とは?の解説



御本堂(-人-)


御本堂脇に六地蔵様

その六地蔵様の解説の脇に真田信尹の墓所案内と

駐車場脇に境内案内があるので、まず迷う事は無いと思います。



墓地高台の中ほどに真田信尹墓はあります。






さて、真田信尹って名前はあまり聞いた事が無いと思われます。


そこで、どんな人物?って思う方に簡単な説明をw





真田信尹は真田幸隆4男で、加津野氏に養子に出されてたが、長男信綱・次男昌輝が設楽原合戦で落命した事で真田家に戻って来た。


兄昌幸と同い年とされている事から側室の子説があるが、実は4人共同じく正室・恭雲院の子という矛盾がw(双子ではないか?説も)


武田家滅亡後は天正壬午の乱を経て兄昌幸とは別の道を進み徳川家康に仕えたり羽柴秀吉に仕えたり蒲生氏郷仕えたり・・・最終的には徳川家に出戻りw


関ヶ原合戦では徳川本隊の使番として仕事をし、真田昌幸・信繁親子の助命にも携わったんだとか


大阪の陣では甥・信繁に対して工作する役も(ここで1000+α石加増され、最終石高5000+α)


真田家としてだけでなく、この時代には珍しく長命で、信之(享年93)に継ぐ長生きしたとされてます(享年86)


と、簡単ですが信尹さんの経歴ですた(-ω-;)



オマケに真田信尹の子孫は徳川家に代々旗本として仕え、明治時代まで存続したそうです。

なので、真田家は信之・信繁・信尹の3人の子孫がいるんですね。。。現在では結構な人数存在すると思われます。。。子孫の方々、自慢できますね(笑)





なんかガッツリ説明回になってしまいましたw


でわ今回はこの辺りで( -ω-)/