丸岡城には隣接したお寺がありまして

(丁度北側にあった高土塁と水堀の、道を挟んで向かい側)



解説版にもありますが、丸岡城とこのお寺[天澤寺]にある加藤清正のお墓がセットで山形県指定史跡になっております。


正門はお城側ではなく、東側からのびた参道の先にあります。

参道には六地蔵(-人-)

上ノ山城主・里見氏墓



・・・上ノ山城ってどこにあるんだろ?


近くにあったなら痛恨の見落としだな(;ω;)



天澤寺入口


御本堂(-人-)


ま、実際はお城側から入ってから最初に参拝したんですがw

(後から自転車でさも正面から来た如く写真撮ったのが実ですw)



御本堂左手には加藤清正公墓山門が

右上に「清正閣」とあり、

山門上には虎の絵が。

虎之助と呼ばれていた事、朝鮮の易で太閤殿下へ虎退治して肝を送った事からやはり加藤清正には虎のイメージが色濃くありますね(^ω^)
(現代に生まれていたら熱烈なタイガースファンだったに違いない(笑))


山門潜った突当りには、息子・忠廣家臣のお墓



加藤忠廣が肥後から左遷された際に国元から一緒に着いてきてくれた加藤清正妻(加藤忠廣母)・天応院の主治医だった英梅庵の墓


武士と同等かそれ以上の忠臣ですね(;Д;)カンドウシタ!



山門突当りを右に曲がった突当りにある加藤清正廟所


生前の清正にはまったく縁もゆかりも無い地に埋葬されるとは、当の清正本人も想像もしていなかった事でしょう(汗)


もう有るのが当然とばかりに虎の像が(笑)

 


 

 

加藤忠廣は捨扶持1万石を頂いて丸岡屋敷(城)で生涯を送ったとされていますが・・・確かに全盛期に比べれば年俸1/50くらいにはなってますが・・・政治を行わない実で1万石もらってれば十分贅沢な生活出来たのでは?

もちろん家臣を養う必要があったのでそれなりに厳しかったんでしょうけれど。。。


でも最下級の足軽は2、3石くらいしかもらえていなかった(ハズ)事を考えれば、戦争さえなければ(戦役を課させられなければ)十分お金持ちだったと思えるんですがw

(あの本多正信だって江戸幕府出来るまでは1万石だったんだし)




・・・当時の事情知らないからね・・・実際はかなり厳しかったんでしょうね(=ω=)ゞ






いずれにしてもなんでこんなところに加藤清正のお墓が?の理由は息子がここに減封させられて鶴岡にやってきたから。。。と言う事なんですな(-Д-)b





といった所で今回はこの辺で( -ω-)/