生きる!! (水頭症/苅部泰子)
Amebaでブログを始めよう!

●はじめに

 人は誰しも、一度は生きてきた証を残したいと思うのではないだろうか。
特に障害者は、暮らしの中で口には表せない思いを知って欲しいと願っている。
 たくさんの苦労をかけた両親、苦しみや悲しみを受け止めてくれた友人、愛しい子どもや家族に贈りたいと思う。
願わくば、障害者を抱えている家族には一筋の光に、障害者と触れ合うことのない人方には、障害者への理解への第一歩になればと思う。
 「障害」は不便で、不自由で、不都合であっても決して「不幸」ではないことを知ってほしいと願うのである。 
(NPO法人レインボーブリッジ 担当:山田,村上)

頑張れ!泰子 -娘へのメッセージ-

 あなたが生まれたのは真夏の暑い日ざしが照りつける日だった。とても元気な産声を上げ、この世に産まれでてきた。誰もが感じる親としての喜びの日だった。
 ところが、一ヶ月検診の時、「少し頭が大きいので、大きな病院で診てもらってください。」と言われた。頭の大きいような感じはあったが、元気で母乳の飲みも良かったので何のことを言われているのか、すぐには理解できなかった。
 紹介状を手に大学病院を訪ねた。検査の結果「水頭症」という診断が下された。
聞いたことも無いような病名。医者はなにやら説明をしてくれているのだが、
「どうして、病気なんかに。私の何がいけなかったの。猫のせい?」あれこれと思いは堂々めぐりをしていた。
 治療は、頭から腹膜まで管を通し脳水の循環を良くするのだと聞かされた。
こんな小さな体を切り、管を入れる。涙がこぼれ落ちた。でも、手術をすれば、普通の生活を送ることができるという言葉に救われた。私たちは手術の成功を祈るしかない。
 主治医は「手術は大成功だ。」誇らしげに話した。これで普通に兄と同じように育てることができる。ほっとした。
 けれども、あなたの成長は遅く、歩くことができたのは3歳になってからだった。あなたの成長と共に母親としての手助けが必要であることを覚悟しなければならなかった。
 あなたは我をとおすことも多かった。親の言うことを聞いてくれれば、これほどにハラハラすることはなかったのにと思ってしまう。普通校への入学、就職結婚、いつも驚かされてきた。あなたとの暮らしは、驚きとあきらめと忍耐と感動の繰り返しだったように思う。
 今あなたは一人の母となった。普通の女の子が夢見る生活を自分の手で掴み取った。これまでにも増して思い通りにいかないこともでてくるのだろう。でも、あなたは9回の手術に耐え、伴侶を得、そして子どもまで授かった。その強さで家族とあなたを知るたくさんの人たちの手を借りながら、生きていって欲しい。
 もちろん、私たちも力の限りの援助をしていきたいと思っている。できれば、
もうあまりびっくりさせないで欲しい。がんばれ、泰子。

夏休みなのに

 そうしていくうちに小学1年生・・・初めての夏休み。
誰もが学校生活の緊張から開放されて何かワクワクするような楽しい日々が送れる。私もそんな期待いっぱいだったある日
「少しお母さんと遠くへお出かけして来ない?」と母が言ってきた。
「えっ?何処?」と思いながら連れて行かれたのは・・・大学病院。
(なんで?私はどこも痛くないし、何でもないのに…)
私は驚いて言葉も出なかった。

 でも私の体には異変が起きていたのだった。私はまだ小さかったのであまり痛みも感じていなかったし、多少の痛みでも気にはならなかった記憶がある。でもそれは子供だった私の感覚で、母から見れば「最近頭痛が多いし、様子がおかしい」私の病気の変調だった。
それで母は夏休みの長期の期間を利用して検査を受けさせようと考えたのだった。今親となった私からみれば子供の身体を心配した両親の気持ちは理解できるが、子供の私にとっては楽しみにしていた夏休みが台無しにされてしまう思いと「どうしてこんな処に連れてきたの?!」と、母にだまされた気がして涙が止まらなかった。
果たして検査の結果は母の予感は的中していた。
私の頭の中の血腫は大きくなっていたのだ。
この血腫の正体は水頭症の後遺症。頭部に衝撃を受けると中ですぐ出血してしまうのだがそれが血液の塊となって頭に残るのだ。
ただ、その血腫があるにしても初めのうちは症状も軽く、頭痛もないので私自身は母が感じたほどには変化に気付かなかった。
 入院後しばらくは毎日検査、検査で明け暮れた。中にはまるで手術のようなつらい検査もあった。そんな日は母も一晩中私のそばで付き添っていてくれたことを記憶している。
楽しみにしていた夏休みもそろそろ終わる「昭和44年8月28日」小学1年生の私は左側にできた血腫の摘出手術を受けた。

 手術後の経過は順調だったが、脳の手術のためか目までが腫れ上がってしまい目が開けられない状態になってしまった。不安な日々・・・
そんな中、ようやく目が開けられた日の事は今でもはっきり覚えている。
私の目に映った紫色の「ダリア」の花。それは父が丹誠込めて作った花で、私がダリアが好きな事を知っていた父が病室まで届けてくれたものだった。
それからの私は順調に快復して行った。
これでもう大丈夫。楽しみにしていた夏休みは残念だったけど「泰子、元気に復活!」のはずだった・・・。

しかし、しばらくすると体調が崩れてきた。
おかしいと思った両親は再度、大学病院の脳外科に私を連れて行った。
結果は・・・またもや入院。
今度は右側にも脳血腫があることが分かった。
あのくやしい夏休みから1年も経たない「昭和45年5月13日」小学2年生の私は再度手術を受ける事になった。
 その当時の医師によると「脳室の中というのは、脳壁という壁で仕切られているため1度に全部見ることは難しく、仮に見ることができたとしても、2つ1度に摘出することはできない」ということだった。