「あのころはフリードリヒがいた」

「ぼくたちもそこにいた」

「若い兵士のとき」

という三部作を読んだ。


第二次世界大戦中の、

ドイツの青少年(=著者)の体験談だ。


ところで私は小学生のときに

「アンネの日記」を読んで驚愕し、

過去にこんなことがあったのかと、震えた。


大学生のときはドイツへ留学したので、

ブーヘンヴァルト強制収容所を見学した。

卒業してから「夜と霧」を読み、

「白バラの祈り」の本と映画を知り、

そうして今回、この三部作にたどり着いた。


「アンネの日記」を読んで以来、

ずっと不思議だったのは、

なぜ戦争が起こるのか、

なぜ人種差別があるのか、

なぜいい人は殺されるのか、だった。


迫害されてかわいそうなユダヤ人に同情し、

反対にドイツ人には

多少の嫌悪を感じていたかもしれない。


ナチス=血も涙もない極悪集団、

そんな思い込みが頭から離れなかった。


けれど、ドイツに留学して

優しい人々にたくさん出会ったし、

また、いくつかの資料を読んでいるうちに、

ナチス全員が、非道だったわけではない、とわかった。


あの統制の取れた軍靴の音は、

一人でも乱れると、上官から死ぬほど殴られたり、

苛酷な環境での重労働などを強いられるからだ。


「ナチスが世界を恐怖に陥れた」とだけの認識だったが、

実は、ナチス内部の世界においても、

暴力と死と裏切りの渦中にあったわけで。


ヒトラーを擁護するわけではないが、

彼も一冊本を書いただけで総統としてまつりあげられ

良いように利用されていたかもしれないし・・・。


じゃあ、みんな、戦争の被害者じゃないか。


ナチスであろうがなかろうが、

ユダヤであろうがなかろうが、

みんな、その場その場で、

一生懸命だったんじゃないか。


それしか選択肢がなかったのではないか。


ひとりひとりから当時の話を聞いたら、

きっと、どの人も精一杯だったと言うだろう。


究極の選択をしながら、進むしかなかったのだ。


だとしたら、私には、

もう、誰をも責めることができない。


人間って、悲しいなあ。


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先日、朝日新聞の記事で見たが、

「当時ナチスだった人を、今裁くべき」

などという、ナチスという集団をひとくくりにして、

裁こうとしている流れがあるようだ。


しかし、こんなのは、ナンセンスだ。


ナチスにいたからといって、

全員が喜んで人殺しをしたわけでもないし、

片親がユダヤ人でその親を助けるために

あえてナチスに入党した人もいるし、

ナチス全員が、収容所の仕事をしたわけでも、

その全貌を把握していたわけでもない。


もし、ナチス=全員悪、という端的な考えをするなら、

それは、ユダヤ人=皆殺しだ、という考え方と

まったく同じであると気づいたほうがいいと思う。


また、一人の人を、善人悪人と、

決め付けることもできない。


ある日はちょっぴりの良い行いをしたり、

また別の日はチョイワルだったりすることができるのが

誰にでも当てはまる。

それが本当の人間の姿だからだ。


自分だって人間の一人で、

そういうヤジロベエみたいな存在なのに、

どうして他者を裁けるというのか。


もし、「自分はまったき善人である、

 だから、人を裁くことができるのだ」

などといえる人は、

自分のことを、人間のことを、深く知らない人だろう。


不完全な人間同士だからこそ、

お互いをいたわりあう姿が美しいのだろう。


ふう。なんかさー、ほんと、もう、やめようよ、

敵味方に単純に分かれるような戦争ごっこは。

グループひとつを簡単に敵視するのは。

いいことなんて、ひとつもないってばよ。


手をひとつ、パンとたたいて、

「はい!お互いの過去をゆるしあおう!」って、

ノーサイドになったらいいのに。

全部、水に流せたらいいのに。

お互い様なんだから。