先日、「あのころはフリードリヒがいた」

という物語を読んだ。


第二次大戦中の

ドイツ人の少年から見た、

友人でユダヤ人の少年フリードリヒ。


ただ、ユダヤ人というレッテルだけで、

人畜無害のフリードリヒの家族は、

悲劇に見舞われる。


なぜ、このような惨劇が起きるのか。


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人は、レッテル(肩書き)に流されやすいと思う。


「新商品」「レア」「激安」と書いてあるだけで

本当に自分に必要かを考えないまま

レジのかごに入れている。


「敵」「厄介者」「犯罪者」というレッテルがあれば、

本当にそうなのかを深く考えないまま

平気で拒否したり石を投げたりつばを吐く。


表やグラフ、百分率、アンケート結果、計算に弱い。


とある数字が出たから、すぐ正しいと考える。

想定や仮定を、すぐ本当だと思い込む。

出されたものを、うのみにしやすい。


あるいは、流行や、多数派にのせられる。


まわりの様子を見て

「~しないと、おくれていると思われる」とか

「こうするのが正しいのだ」と

すぐ思い込んでしまう。


もしくは、その場の感情に流されやすい。


通常であれば「いいえ」と言うところを、

痛いのをやめてほしいから、「はい」といったり、

気持ちいいから、「はい」という。

ほかにもある。


ある集団がすばらしい(ひどい)と、簡単に考える。

けれど、集団のひとくくりの中には、

良い人もいれば悪い人もいる。

集団に惑わされ、構成員に目が行かない。


自分自身に軸がないと、

セーフティモードがないと、

いくらでも、人は、集団は、流されていく。


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私は、宗教なり道徳なりが、

ある種のストッパーになると思っていた。


けれど、その教義が、

「集団にとっての良い人間にならねばならない」

「集団のために個の尊厳を捨てよ」と

上から目線でものを言うのであれば、

それが逆に抑圧を生み

個人はいくらでもゆがむ。


その抑圧がふくらんだときに

「敵」というレッテルを見たら、

たまった怒りをレッテルに向けて放出する。


一人の怒りが、ほかの怒りにも火をつけ、

それが、暴徒と化す。


そこには「この辺でやめたほうがいい」

という、ストッパーなど、消し飛んでいる。


すべて燃えつくしたあとに、

「何をしていたんだっけ?」と

首を傾げるしかない。



こんな悲劇を繰り返さないためにも、

外的要因、内的要因にふりまわされないこと、

客観的で冷静な判断力が大切だ。


とにかく個々人が、

その場その場で、自分でものを考えること、

標識や信号を過信せず安全を第一にし、

アクセルとブレーキは自分ですることを

つねに自覚することが大事だと思う。


アクセルはいつでも踏めるのだから、

ブレーキからは足をはずさない。


まだ起きていない事故におびえるよりも、

いつでも止まれるよう、

気を配る準備を忘れない。


そんな気持ちで、

人生という名の道を安全運転したいものだ。


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ここまで書いて、

「うわー、偉そう~」とか思っちゃった。


私は自分の理想論に流されやすいわー(苦笑)


専業主婦のたわごとなので、

うのみにしないでね。