P. 1 で、出会いパートを復習

(彼とは2回の合コンでしか会っていない時点で、私が日本へ一時帰国。ビデオ通話の連絡だけで、恋人同士に。)

P. 2 で、要パート
(日本での人間ドッグで乳がん発覚。左胸切除後、それでも彼は変わらず愛してると言ってくれた事に感動。)


乳がん手術後、転移なし経過良好となり、ホルモン剤を服用することで再発リスクを抑えることになった。
ホルモン剤は 5〜10年続けなければならず、不妊のリスクがあるのでラオス人彼氏とよく話し合うように、と主治医の先生。
元々、高齢出産は無理だろうと諦めていた人生なので、問題ない。

結局3ヶ月の一時帰国の予定が約半年後になったが、最後の診察の翌日の便で、ラオスに帰ることになった。
薬は毎月母が代理で病院へ行き、ラオスに送ってくれることに。(母へは感謝しきれない…泣)

やっと彼に会える。

…とかいっちゃって、メールとビデオ電話だけで大恋愛した気になってるけど、本当は2回しか会っていない。(1回目は互いに興味なしだからノーカン、実質1回!)  
いざ会ってみたら、意外とそうでもないかもしれないよね。。イマドキの言葉で言うなら蛙化現象なんてことも、お互いに有りえるし。

実際のいざその時は、彼はメチャ緊張していた。
普段はあまりしない香水なんて大量にふっちゃって。ちょっとクサイ笑
車持ってないくせに、お兄さんの車借りて迎えにきちゃったりも。

笑っちゃうけど、でもなんかちょっと可愛く見えた。
ラオス人の庶民で国際理解もない、たまたま紹介してもらった彼女が日本人だから、精一杯背伸びしてきたんだろうな。

そうして緊張の再会を果たした後は、蛙化現象もおきず、彼が私のアパートに入り浸り同棲状態に。
付き合いたてのような、新婚さんのような、そんな時間を数ヶ月。
その間、彼の家族とも知り合った。
彼は前妻との子供が2人いる。彼の実家でおばあちゃんと一緒に住んでいるお兄ちゃん(当時12歳)と、実母(彼の前妻)と住んでいて時々週末に遊びに来るという生活をしている妹(当時8歳)。
私も何度か遊び、人見知りの兄も人懐っこい妹も、とても懐いてくれてるように見えた。
子供のいない私にとっては本当に可愛くて仕方がないし、ラオス人の国民性的に離婚率も高く、両親が離婚してママ母とうまくいかずにグレる、というような事はあまりなさそうだった。

そうこうしながら、私は40歳に。
さて、結婚するならそろそろ書類をはじめたい。

ラオスで外国人との結婚書類を成立させるには、申請から受理までに1年以上の歳月がかかるそう。(実際は2年以上かかった人もいるという噂も)
必要書類も彼の分だけで13種類以上、それだけでも申請前に時間がかかる。そしてラオス人はのんびり屋さん、中々進まない。。

この頃からですよ。
ラオスでもコロナ禍へ。

徐々に仕事(日本語教師)の授業も少なくなくなり、ステイホーム生活へ。
彼も私のアパートと実家の行き来だけになっていった。
日本から毎月届いていたホルモン剤は便がストップし、郵便物も届かなくなった。
結婚書類の申請窓口である外務省も休館に。
今振り返っても、世界中で生活が一変する程の歴史的事件だったと思う。(将来、子供が大きくなった時に語り継ぎたい)

そんな生活がしばらく続いた頃、謎の体調不良が。。
酷い胃痛や吐き気など。
彼と共に病院へ行って症状を訴えると、妊娠の可能性も合わせて血液検査しますねって…
まさかね、と苦笑。

だけど、そのまさかの検査結果は…
妊娠の可能性大、産婦人科で検査して下さいって。
???

ときに40歳。
元々の体質を考えても、高齢妊娠はないだろうと思ってた。
加えて乳がん手術後、ホルモン剤を服用して不妊と言われていた。
コロナ期に入って仕方なくホルモン剤を休薬してから、たったの1か月ちょっと。
本当にまさかとしか言いようがない。
まだまだ信じられず、最終生理日から2ヶ月を待って産婦人科へ。

やはり妊娠だった。
とんでもない奇跡。

まだまだ安定していない高齢妊娠、無事に育つとも期待はしていない。
それでも、一瞬でも妊娠という事実を体験したことは、私にとっては奇跡だった。


以上、妊娠判明まで。
長いなぁ…まとめる文章力ゼロ。つぎで終われるだろうか。

ということで、次回へ続く。