吉原の遊女・花扇の物語

春をひさぐ
 

 

 

愛する人に何を残しますか?

 

あなたの人生にとって重要な

その答えが

この物語の中にある

 

 

 

春をひさぐ③苦海十年

 

ここ吉原には、

苦海十年(くかいじゅうねん)

と言う言葉がある。

 

およそ、17,8で女郎となり、

年季(ねん)が明ける27歳までの

約10年、

女郎たちはここから出られない。

 

女郎たちは、

江戸に居ながら、江戸を知らずに、

この廓の中で過ごす事になる。

【廓・くるわ・・塀や堀で囲われた場所】

 

その10年間、

苦しみの大海で

生き続けるから、

苦海十年と言う。

 

華やかに見える花扇もまた、

例外ではない・・。

 


 

花扇(かせん)たち一行の道中を見ながら、

侍は女将に聞いた。

 

「しかし・・。なんでまた、

あの花扇さんは、

あんな風になれたんじゃろか?」

 

そう言って、女将の方を見ると、

女将は涙を浮かべながら、

両手を合わせ、

花扇を拝んでいた。

 

「ああ・・。ごめんよ・・。

あたしゃねぇ・・。

花扇さんを見ると

涙が止まらなくてね・・。

 

さっきも言ったけど、

花扇さんは、

4つの頃に遊郭(ここ)に来たんさね。

 

その時、

遣り手婆(やりてばあ)

が花扇さんに目をつけてね。

 

遣り手って言うのは、

女郎たちの

しつけ係なんだけどね。

 

その遣り手婆が、

『この子はとびっきりの

花魁(おいらん)になる器を持ってる。』

って言って、

あれやこれや教え込んだらしいさ。

 

それもかなり厳しくね。

 

激しい折檻(せっかん)も

あったって聞く。

 

遣り手婆にしてみりゃ、

稼ぎ頭が欲しい訳だからさ・・。

 

その婆は、

『女郎は、23にもなりゃぁ、

容姿(きりょう)や若さだけじゃ

勝負にならなくなる。

”大人の女の色気”が必要なんだ。』

って言ってね。

 

色気は気品から生まれる。

って言って

あれこれ仕込んだらしいさ。

 

うだつの上がらないそこらの遊女と、

花魁(おいらん)との最大の違いは、

気品なんさね。

 

だもんで、

遣り手婆は、

まだ読み書きもおぼつかない花扇さんに、

方丈記やら、枕草子やらを

読み聞かせ、教え込んだ

ってぇ話しさ。」

 

「へぇ・・。そんなんで、

気品や色気ってぇのが

付くんかね?」

 

「そうさね。

ある夏の夕刻にさぁ、

花扇さんが萎(しお)れかけた朝顔を

手に取ってさ、

『あるは露(つゆ)おちて花のこれり。

のこるといへども朝日に枯れぬ。

あるは花しぼみて、露なほ消えず。

消えずといへども・・・、

ゆふべを待つことなし。』

ってなぁ事を言いながら、

涙を浮かべている姿を見た日にゃぁ、

心底

惚れ込んじまうものだよ。

 

女のあたしがそうなんだ。

旦那衆が狂ったように

散財するのも、分からんじゃないね。」

 

「へぇぇ・・。

わしには分からんこって・・。」

 

 

 

「そこらの女郎は、

学びもせず、努力もせず、

金だけを欲しがるんだ。

 

その中身の無さを、

旦那衆は見抜く。

 

だから良い客が付かない

ってぇのに、

その事に気付かず、

愚痴ばかり言ってる。

 

 

けれども、花扇さんは違う。

 

そりゃぁ花扇さんだって

機嫌が悪くて高飛車になって

客を追い返す事もあるけんど、

それでもちゃんと

客の心は掴んでおくんさね。

 

 

『ぬし(あなた)が最近

お顔を見せぬものだから、

あちき(わたし)の中に居る

もう一人の女が

すねているのでござりんしょう。

またにしておくんなまし。』

なんて

すました顔で

粋(いき)な事を言うもんだからさ、

旦那衆は虜になっちまうんさ。」

 

「へぇ・・。」

 

「遊郭(ここ)に長く居るとね、

皆、心が荒んじまう。

 

色と金が全ての世界だからね。

 

右を見ても、左を見ても、

煩悩の焔(ぼんのうのほのお)に

心を焼き尽くされた

餓鬼(がき)ばかり。

 

花扇さんは、

そんな中に現れた、

仏様みたいなもんさね。

 

地獄に仏とはこの事だよ。

 

けんど、

あたしゃ花扇さんを

子供の頃から知ってるからね。

 

あんな風に

凛としたお姿をされてるけど、

心の中にゃ

深い闇を抱えていらっしゃるはず。

 

そう思うと、

涙が止まらなくなるんさね・・。」

 

 

 

はらはらと舞い散る桜の花びらが、

花扇の後ろ姿を美しく飾る。

 

苦海の中の仏・花扇は、

ゆらり、また、ゆらりと、

歩みを進めていた。

 

 

続く。