カルマ論理学講座の生徒様から、

ご質問を頂きました。

 

心が病んでしまった女子高生のお話しです。

 

「ある女子高生の話なのですが、

その子は国語と英語の成績は”5”なのに

数学と社会は”1”という成績です。

 

何故、1なのかというと彼女は

テストで70点とか取るくらいなら

0点と一緒だという発想なんです。

 

だから満点を取れないくらいなら、

一切答案にも手をつけないのです。

 

その後彼女は、心の病がひどくなり

高校も行けなくなり病院に入院して

心の病との闘いの日々です。

 

どうしてこの彼女はこうなってしまったのか

わかりますでしょうか??」

 

と言うご質問です。

 

 

 

まず、彼女は、

100か0かの思考を持っている事が分かります。

 

いわゆる”100・0思考”です。

 

完璧主義とも言えるのですが、

完璧主義には2種類あって、

・全ての教科で、100点、成績表では”5”を目指す。

と言うものと、

・100点が取れない教科は最初からやらない。

と言うものがあります。

 

彼女は後者の方ですね。

 

後者の完璧主義の彼女は、

おそらく、

”中途半端な自分は許せない”

”成長途中の自分は許せない”

と言った邪見(じゃけん)を抱えているのでしょう。

 

70点を取る自分が許せないのです。

100点以外は全て許せないのです。

 

だから、

”100点を取れる自分”以外を、

抹消してしまうのです。

 

「私は数学や社会は勉強していません。

 だから、0点でも当然です。」

と言う事にすれば、

本当は100点も取れるんだけど、

勉強していないから0点なだけなんだ。

と安心できます。

 

そうやって数学や社会を軽んじる訳です。

 

「数学や社会など、役に立たない。

 そんな役に立たない教科を勉強する暇はない。

 だからやらない。だから0点でも当然です。」

と思いたい訳です。

 

そうすれば、

完璧な自分のままでいられます。

 

完璧な自分像(仏教では我と呼びます)が

守られる訳です。

 

 

なぜ、そう言った思想になってしまったのかと言えば、

主に2つの原因からそうなったと想像されます。

 

一つは、親の教育方針。

100点を取った時だけ褒める。

100点以外は許さない。

そう言った結果重視の親に育てられると、

100点以外の自分を許せなくなります。

 

そう言う親に育てられると、

「完璧でなければならない」

と言う思想が出来上がるのです。

 

 

もう一つは、

彼女が国語と英語で100点を取った時、

他者を見下していた可能性があります。

 

自分は100点。他の生徒は70点以下。

そう言った時に、彼女が他の生徒を見下すと、

彼女の無意識の中に、

「100点以外は見下される。」

と言う概念が出来上がります。

 

この概念が自分に跳ね返って、

数学と社会で70点を取ると見下されるから、

それが嫌で、最初から勉強せず、

数学と社会の教科そのものを馬鹿にする

と言う事をする訳です。

 

ここでも、「完璧でなければならない」

と言う思想が強化されます。

 

主に、これら2つの原因が考えられますが、

その二つが複雑に絡み合って影響し合い、

”完璧な自分像”が

大きくなり過ぎてしまったと考えられます。

 

 

 

しかし、世の中に

完璧なものなどありませんし、

完璧な人間もまた存在しません。

 

国語や英語で100点を取れていたとしても、

学年が上がるごとに難しくなってきて、

いつか必ず100点が取れない時が来ます。

 

その時に、”完璧な自分像”を守ろうとして

言い訳をしたり、他者のせいにするから、

苦しくなってくるのです。

 

最初から在りもしない”完璧な自分像”に

すがりつこうとしているから、

精神的に病んでしまったのですね。

 

 

では、どうすれば良いのか?

 

その答えは、

”自分は常に成長途中である”

と心底、認めれば良いのです。

 

”煩悩を抱えた人間は、完璧にはなり得ない。”

それを認めれば良いのです。

 

 

仏教の開祖、釈迦は完璧になりました。

 

釈迦は全ての煩悩を根こそぎ無くしたのです。

 

だからバイアス(認知の歪み)が一切なく、

智慧だけが煌々と輝く佛(ほとけ)となったのです。

 

佛とは、”人にあらず”

と言う意味で、

”不完全な人間では無くなった”

と言う意味になります。

つまり、完璧なのです。

 

だから昔から、

佛の教えを聞きなさい

と言われる訳です。

 

そうすれば、

嫌でも、自分と佛を比べる事になり、

「ああ、私はまだまだだなぁ・・。」

と思えるからです。

つまり、

常に謙虚でいられるという事です。

 

ここで言う謙虚とは、

”心”が謙虚であると言う事です。

”頭”が謙虚でいるのとは全く別物です。

 

つまり、

自分は成長途中である事を、悟っているか?否か?

それが大事なのですね。

 

 

 

煩悩を抱えた私達人間は、

絶対に完璧にはなれません。

 

だからと言って、

完璧を目指す事を放棄するのは

単なる怠惰です。

 

仏教と言うものに触れると

嫌でもその事を痛感させられます。

 

故に、

”自分は常に成長途中である”

と認めざるを得なくなります。

 

そうすると、我が崩れていきます。

 

最初から存在しない、

”完璧な自分像”が崩れるのです。

 

そうすれば精神的に病むことはありません。

 

高校生の彼女がなぜ

精神的に病んでしまったかと言えば、

最初から在りもしない”完璧な自分像”に

すがりついてしまったからです。

 

見渡す限り、砂しかない砂漠で、

コンビニにすがったら病むのは当然です。

 

見渡す限り、水しかない大海で、

レストランにすがったら病むのは当然です。

 

存在しないものにすがりついたら、

精神を病むは当然なのです。

 

 

だから、あるがままを認めれば良い。

 

「私は不完全で、まだまだ成長途中なんだ」

と認めれば良い。

 

そうすれば、彼女は回復に向かうでしょう。

 

ただし、過去に犯した罪はそう簡単には消えません。

 

彼女が仏教を聞こうとしても、

完璧でない自分を見せつけられ、

そのたびに苦しみを味わう事でしょう。

 

その苦しみを味わい尽くさない限り、

回復する事は出来ません。

 

”寒くとも 袂に入れよ 西の風”

 

寒風吹きすさぶ寒空の下で

石を枕にして寝た親鸞の言葉です。

 

自ら積み上げてしまった罪は、

自ら償うしかないのです。

 

だから

”仏法は若き日に嗜め”

と言うのです。

 

若い時であれば、罪をそれほど重ねずに済みます。

 

ここで言う罪とは、

完璧な自分像にすがりついてきてしまった事。

 

その時間が長ければ長いほど、

回復するのは難しくなるのです。

 

若いうちに、

自惚れ心を叩いておいた方が良いのですね。

 

ここにどれだけ早く気付けるか?

そしてどれだけ早く対処できるか?

 

それが大事なのです。

 

 

 

お子さんの精神状態について、

あなたの今抱えている苦しみについてなど、

心に関するご相談

https://ssl.form-mailer.jp/fms/3eef7cc6565346

;

から、お問合せ、お申込み下さい。

 

ご相談フォームが立ち上がりますので、

必要事項を明記し、”確認画面へ”を押してください。

 

確認画面にて、”送信”を押して頂き、お待ちください。

2日以内に、こちらから確認のメールを差し上げます。

 

yume.kanau.toki001@gmail.com

からメールを差し上げますので、

受信拒否設定をされている方は、解除しておいてください。

 

料金は6000円からです。(ご相談内容により異なります)