競艇にのめり込んで一番最初に追っかけた選手。
かれこれ20+α年前
まだインターネットというものが世間に普及する前の時代
スポーツ新聞でその名を目にした。
やまむろ てん・・・
これ何て読むんだ?
名前読めない
そんなことから彼に興味を持ち始めた。
競艇にのめり込むきっかけを作ってくれた選手でもある
桐生競艇の予想屋さんからいただいた貴重な写真です
1986年に平和島で行われた新鋭王座を優勝したときの写真、当時24歳(若っ!)
しかし、当時は情報収集する手段はほとんどなかった。
競艇マクールという雑誌が創刊され、コラムの一部で山室選手のネタが掲載されることがあり、少しずつ知る事が出来た。
休みの日にボランティア活動をしているとか、愛読書が曽根綾子の本とか不思議な選手だと感じた。
当時のレーススタイルは典型的なピンロク傾向で1着か大敗が目立った。
格上選手とのレースでは無類の勝負強さを発揮して高配当を提供してくれた。
当時はスタート展示はなく、本番でアッ!と驚くコース取りを魅せた。
特に6号艇で不人気の時に意表を突くコース取りからスタート鋭発、スタコラサッサと逃げたりした。
当時はSGレース以外は場外で舟券を購入するシステムもまだなく、山室選手の出場する競艇場まで旅打ちを余儀なくすることになった。
新幹線、夜行列車、高速バス・・・あらゆる交通機関を駆使して追っかけた。
目的は山室選手の出走するレースのみ。
現地までの所要時間12時間、競艇場での滞在時間1時間とかざらでした(笑)
日本モーターボート選手会連合会の斡旋課に公衆電話から問い合わせをして斡旋を確認してスケジュールを組んだりしていたのも懐かしい思い出。
ついには山室選手のモンキーターンを撮りたいという欲求に駆られ、一眼レフカメラを購入した。
もちろん当時はフィルム式、現像代も馬鹿みたいにお金がかかった。
現像した写真をみて失敗作品ばかりで落ち込むことしばしば(涙)
華麗にSG優勝した事により一躍 時の人になり穴選手から人気選手へと転身した。
そんな山室選手もすでに56歳、バリバリの競艇世代の選手が円熟期に入っている。
スタート展示によって意表を突く作戦は公になり、ボートレースは彼の魅力を封印しているように思える。
何をするか分からない、カメレオン走法・・・
今となっては残念ながらあの時のようなレースの高揚感は今はない。
1999年にSG戸田ダービーを優勝して年末の賞金王決定戦の出場権利を得た
残り2ヶ月あまりで賞金ランク的にはじゅうぶん当確と思えた
しかしその後、あれよあれよと抜かれて結局は13位の次点に泣いた
ご本人の心中は察することができないけれど、「自分はああいう華やかな舞台に行く選手ではない」と自らがスランプを装ったようにも見えた
しかしそんなエピソードすら笑いに変える彼のキャラクターを垣間見ることが出来る動画です
このままひっそりと引退?・・・
もう一花咲かせる?
「3070山室展弘のことはどうでもいいですから、これからもいつでもどこでも面白い競艇をよろしくお願いします!」
はい、お蔭様で毎日充実した競艇ライフを満喫しております。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。+゚