中学生の子どもたちは幼い。私自身は長いことそれに気づかなかった。おそらく私が早熟でおませな子どもだったからに違いない。私自身は中学入学以降、教師や両親に怒られた記憶がない。ただ一度、悪ふざけをして怒られたことがあった。学校の先生たちをからかって遊んだ。校則を揶揄するビラを作って校内に貼ったのだ。学校の輪転機を勝手に使ったことを咎められたが、ビラの内容については何も言われなかった。それは正しい対処だったと思う。当時、荒れる生徒たち(とその校内暴力)を抑えられずに、「いい子」の私たちだけが黙ってストレスを溜め込んでいく。だからこその鬱憤晴らしでもあったからだ。荒れる生徒たちと一緒になって騒ぐわけでもなく、小生意気な口を利いてストレスを解消する、そんな私たちに「ルールだけは守れ」と要求したのは正しかった。ビラの内容について追求されれば「ほかの連中の校則破りは見逃しているくせに、それを揶揄することを見咎めるのはおかしいではないか」と反論するつもりだった。そのためのビラだったのだ。

 それを最後に怒られた記憶がない。「成績が悪い」と叱責されたことすらない。「勉強しろ」と尻を叩かれたこともない。両親はときどき私の勉強の進み具合を確認したが、それだけだった。

 私にとって(少なくとも心理的には)、中学2年生に進級したあたりが大人への境界越えだった。だから、私は中学3年生とはそのようなものだと考えてきた。私の周囲の者も(荒れている生徒以外は)基本的には、みな同じような時期に大人になっていったのだと思う。

 だが、今になって---子どもたちの勉強をみるようになって---、それが半分しか真実ではなかったことに気づいた。中学3年生になっても、半数の者はまだ精神的には小学生と同じである。荒れているわけでもなく、普通におとなしく塾に通ってくる「いい子たち」である。だが、彼らは小学生と同じ心理状態である。

 どういうことかというと、彼らは「叱責されなければ一切勉強をしない」のだ。彼らは怒られるのが嫌だから勉強する。目の前に「やるべきこと」があっても、誰も見ていなければ一切やらないのである。そして怒られるまで、何もしないで遊んでいる。その場のことしか考えていない。刹那的という言葉すら当てはまらないほど短絡的である。ほとんど動物と同じだ。明日のことすら考えられないのだ。

 「叱責されるのが嫌だからやる」という行動が身についてしまうと、どうしようもない奴隷人間が出来上がるような気がして怖い。だが、実際にはそうではないのだろう。それぞれ個人差はあっても、しかるべき時期に大人になっていくのだろう。

 だから、私自身が中学生だった頃に、慢性的に鬱積していた不満の正体もなんとなく判る気がする。ほかの連中と一緒に怒鳴りつけられるのが理不尽だと感じていたのだが、それは仕方の無いことだったのだろう。中学校の教師はすでに大人になった生徒を怒鳴りつけているのではない。「いまだに小学生のままの心を持っている成長の遅い生徒」を怒鳴りつけているだけなのだ。
 科目ごとに受け持ちの十数人を見ていると、さまざまな子どもたちがいる。中にはかなり変わった子どももいる。たんに変わっているのではなく、おそらく学習障害がある子どももいる。そういった子どもには、たいていは多動っぽい部分がある。あるいは特定のことにだけ集中が続かない。私は医師ではないし、彼らも診断を受けているわけではないだろう。だから「学習障害かもしれない」とこっちが勝手に思っているだけの話だ。でも、ずっとみているのだから嫌でも判る。「おそらく学習障害」という子どもたちはかなり存在する。私がバイトしている学習塾だと30人に1人くらい。

 できるだけのことをしてやりたいが、ほかの子どもと一緒では難しい。そういった子どもだけ特別扱いすると、他の子どもたちの不満が溜まる。学校だったら「学級崩壊」への一歩だろう。複数の人間が集まれば、小集団でも集団意識による暴走がある。集団コントロールにさいしては個人への同情など禁物だ。結局はそういった特定の子どもたちを(本人の本性に反して)抑えつける場面が増える。そうすれば授業は成立するが、抑えつけられる特定の子どもたちにとっては効率がおっそろしく悪い。

 本来は、そういう子どもたちに対しては、個別に専門的なプログラムを用意すべきなのだろう。だが、そういった行政サービスは全く追いついていないし、業者もいない。医者は慢性的に不足していて不安な親が列を作って並んでいる。どこにもまともな受け皿はない。家庭で対処出来なければ、ほぼ絶望的だ。あとは学習塾だが、塾講師は「普通の子ども」の勉強をみるのが仕事であって、学習障害の専門家ではない。現場の経験だけでは足りず、理論がどうしても必要だが、そういった知識はない。