祐介と時間がいくらあっても足りないという思いを残し
駅の改札で切ない気持ちで手を振る。今度はまたいつに
なるのか、というよりも今度という日は果たしてやって
くるのだろうか、そんな不安が心を揺らす。

所詮他人の 妻である私を祐介がどのように必要とするのか、

そして私は 祐介になにも約束できない。


ただ今日は楽しかったという 他には言葉にならなかった。

私は見送られた場合、振返らずに 歩いて行くことにしている。

たとえ不安があっても悟ら れたくないし、振返ってみて相手が

去ってゆく姿をみる事が 本当はさみしい。

自宅に着くとキッチンに立ち手早く食器を洗う。時計は十二時
を少し回っていた。リビングに散らかっている新聞や雑誌をしまい
脱ぎ散らかされた衣服など拾い集め洗濯機に入れる。
もう息子と夫は寝室で休んでいるようだ。物音もせず静まりかえっていた。

無事到着した事を祐介にメールで知らせる。

「先程着きました。今日は楽しかったね。おやすみ。」



私は脱衣所で衣服着ている物を脱ぐと洗面台の上の鏡の前に立った
。首筋から鎖骨のラインを自分の目で確かめるようになぞってゆく
。自分の中では気に入っている部分である。

少しなで肩ではあるが 首が長めなのできれいな角度を作っているよ

うに思っている。鎖骨 の窪んだところには寝そべれば水が貯えられ

るだろう。細い骨が 女性らしい感じを強調していると思えた。


その下に目線を移せば、 今はもうすっかり自信のないバストがある。

張りのある弾けるよう な若さはもう無い。

眼を背けたくなる現実が私の自信を削ぎとって 行く。

下垂気味になってしまった胸を両手の平で柔らかく包みこみ
そっと下から持ち上げてみる。

入浴を終えてソファで冷たいミネラルウォーターをグラスに一杯
飲みほした。喉が渇いていた。
祐介からメールの返信を確認する。

「僕はまだまだ元気だよ!今日また会えてよかった。
おやすみ。」

私は一人声を立てて笑った、もちろん小さな声だったけれど。

行彦と何となくしっくりいかない感情をもって別れ
数日後、祐介からのメールが届く。

「今日は仕事が早く終われるんだ、よかったら
会えないかな?」

私に異論は無かった、行彦としっくりいかない気持ちを
埋め合わせるかのように祐介にとても会いたかった。
新宿駅の改札で待ち合わせを決めるが、時間など細かい
ことをメールで延々とやり取りするのが祐介には面倒に思えたらしく直接携帯に電話をかけてくる。

「夕ご飯には早いから、なにか買い物とかあったら付き合うよ、なんでもいいけど・・。」

買い物?思ってもいない提案に私は困ってしまう。男と街中で買い物をすることにもう随分遠ざかっていた。いつも欲しい物はじっくり独りで選ぶことに慣れてしまっているので、
かえって第三者の介入は面倒に思えた。欲しいものも直ぐ思いつきもしなかった。私は単刀直入に祐介に希望を述べた。

「とりあえず、特に買い物なんかないから祐介の家に
行かない?」

祐介はあっさりとすぐ了承した。

「じゃ、僕がなにか料理してあげるよ。外でもいいけど、
とりあえず家にいこう。新宿からタクシーに乗っていこう。」

約束の時間に十分ほど遅れてしまい、待っていた祐介は
少し不機嫌のように見えたが、電車の乗り継ぎのタイミング
が良くなかったことを言い訳にして詫びる私をほとんど
無視してタクシー乗り場へと急いだ。

タクシーの奧に私を座らせるとチャコールグレーのコート姿の祐介が隣に座る。コートの一部分が私の手に触れた。その柔らかな感触はカシミアであろう。二人の距離はとても近い。ほんの少し手を伸ばせば彼の手に触れることができるのだが自分からそんなことはしたくなかった。強く祐介から手を握って欲しかった。しかし祐介は淡々と運転手へ家までの順路を説明して、その後私への会話は無かった。


私のほうから口火を切った。仕事は順調なのか、最近の株式相場
や、外貨の相場の状況など堅い内容を語りかける。

自分がなんの為に祐介の家に直行を願い出たのか、あまり長いともいえない私に許された時間の中で何が一番したいのか、私の言動はあまりに自分の欲求に素直すぎているので、照れ隠しにわざわざ難しい会話をしてしまう。株価のPER、PBRの算出方法など、数字
に弱い私に祐介は一つ一つ丁寧に説明をしてくれる。さらに外貨預金は金利が良くても通貨価値の乱高下があって一極集中せず、まず安全そうな外貨を少しずつ分散で購入していけば・・・そんな説明から企業のM&Aの話まで相変わらず流れるように留まることなく話してゆく。

しかし目的地の近辺になると耳半分になり目は道路、
口は運転手への指示に徐々に変わっていった。
駅から約20分後に祐介の真新しい一軒屋に到着した。

鍵を開けて玄関の扉を開けると私を先に家の中に招き入れ
素早く自分も入るとスリッパを私の足元に出す。
こんな当たり前のようなことだが容易く出来てしまう祐介の
動作にほんの少し感動を覚える。普段自分が繰り返ししていることだが他の人間に、まして男にされることが実際は
ほとんどないからであろう。

促されるままに玄関ホールから直ぐのリビングに通される。
何畳だろう、前回は初めての訪問で緊張していたのであまり
よく見ていなかったように思われたが、実は前回の後、家具
など移動して模様替えをしていたのだ。
オープンキッチンのLDKは20畳位ありそうだ。入り口近くに
ソファーとセンターテーブル、奥のキッチンに対面するようにダイニングセットが置かれている。前回の訪問時はその主だった大きい家具は丁度逆に置いてあった。

「前より広くなったように見えるね」
私は黒の革張りのソファーに腰を下ろしながら感想を言ってみる。
なにか一言感じたことを言ったほうがいいだろうと義務感のようなものだ。実際その家具移動が私の興味を引くものでは無かった。

「そうでしょう、一生懸命独りで移動させたんだから。
でもキッチンで料理して対面のダイニングテーブルにお皿を出しても
受け取る人がいないのが寂しいよ。」

笑いながらおどける祐介だが、果たして祐介は闊達で容姿も悪くなく私より二歳若い、彼に釣合いの良いの独身女性が側にいないのか?
当然いても、いやむしろ独りでいるのが不思議でもあった。
尋ねたことはある。長く交際していた彼女と結婚のタイミン
グが合わず数ヶ月前に別れてしまったというのだ。では、そ
んなわずかな隙間に私が入り込んでしまったのかもしれな
い。そうゆうこともあるのかもしれないと、一人考えながら綺麗に掃除の行き届いたシンプルモダン風に統一されている部屋を眺めていた。

祐介は私がLDKを見回しながらあれこれ考えている二、三分の間に
エアコンのスイッチを入れたりなにか手馴れた一連の動作を
小気味よくしている。それが一通り済んだのだろう、急に私の方を振り返り私の両手首を掴んでソファに倒れこんだ。私の唇をふさぎながらも自分のコート、スーツの上着を床に無造作に捨て置き、私のコートの前のボタンをはずし黒のパンツのファスナーを下ろしていた。感心するほど素早く決して乱暴ではなく滞ることなく進む。

気が付くと再び片手で私の両手首を掴んだまま
セーターとブラウスの下にもう片方の手を滑り込ませブラジャーのホックを外し、そして胸を掌の中に入れていた。
耳元で祐介の言葉がくすぐったく響く。
「会いたかった、すごく・・好きだよ・・・僕のものだ・・」
既に行為は進み私は返事にならない細い小さい声と、吐息
しか出せなかった。
祐介の濃紺に小さい赤の水玉模様が入ったネクタイが丁度鼻の上を何度もかすめていく、左腕のメタルの
時計の竜頭の部分が痛いとは感じない程度に私の額に
何度かあたる。

祐介が上体を起こして真上から私の顔を眺めている。身体が上下に動く。ブルーのストライプのクレリックのワイシャツが私の顔の前に広がる。思ったより祐介の胸板は広い。
シャツからほのかに清潔な洗剤のような香りがした。
私は思い出した。
行彦にワイシャツのアイロンはどうしているのか尋ねたことを。

「かみさんがアイロンしてるんじゃないの」

糊の効きかたがクリ―ニング屋で仕上たように見えなかったのでつい聴いてみるとそんな答えが返ってきた。以来ワイシャツには気を遣っていた。
残り香やファンデーション、口紅など絶対に付着させたりしたくなかった。ワイシャツのアイロン掛けは思ってる以上に面倒でまして体格のよい行彦のものなら手間も増すだろう。


「ワイシャツはクリーニングに出しているの?」
「えっ、うん、いつもまとめてクリーニングにだすよ。」

小さな喘ぎ声しか出せなかった私の突然の問いかけに、祐介は少しばかり驚いたようだった。

その答えを聞くと私は安堵の気持ちで一杯になっていった。たとえこの瞬間だけでも、
祐介は完全に私だけのもの、誰に遠慮も後ろめたさも無く
私だけのものだ。行彦には感じられなかった充足感だった。
ワイシャツの胸に思い切り顔を埋めてみる。

もう、祐介への得体の知れない恐怖感はほとんどなくなったと同時に、愛着のようなものを感じ始めていた。


2213 携帯のメールに短いメッセージが届く。
ルームナンバーだ。

ロビーでメッセージを確認するとエレベーターに向かう。
もう何度ここに来て同じことを繰り返したのだろうか。

部屋の前へ着くと小さく二回ノックする。これもいつの間にか習慣のようになった。ドアスコープで行彦が確認する姿を
想像すると、なんだか急に馬鹿馬鹿しい思いに襲われる。
私はドアの右端の死角に移動してわざと見えないようにしてみる。それでもドアは細い隙間を作りながらゆっくりと開く。何かに用心しているのか?私は噴出しそうになりながら笑いをかみ殺した。

「なんだ、見えないじゃないか」

行彦は少し怒っているのか。私は構わず入り口から真っ直ぐ
進み正面の窓まで歩く。カーテンを少し開いて階下を見る。
まだ夕暮れには早いこんな時間は仕事をしている人の往来だけが見える。背後から行彦の気配を感じながら、自分が
ここまで再びたどり着いた達成感と軽い疲労を感じていた。
後ろから背の高い大柄な行彦に抱きしめられるとやっと気分
が少しずつ晴れてきた。

「いいにおい、今日の香水はなんなの?この前よりちょっと
甘い感じがするな。」

行彦は私の後ろ髪をかきあげながら首筋を鼻と口でそっと撫ぜる。私が一番して欲しいことだ。そのまま背中を行彦の胸に預けると、ゆっくり私の両肩を自分に向けさせて唇を重ねる。

「会いたかった。」

行彦は唇を離し正面から私の顔を真っ直ぐ見つめる。何か変化を探しているようだ。私は気恥ずかしさで一杯になり、すぐに目をそらし遠くに視線を置きながら

「うん、私も会いたかった。」と悲しい程月並みな返事をした。


行彦は弁護士の仕事の傍ら大学で客員教授をしている。
仕事が立て込むと都下の自宅に帰らず、この新宿のPホテル
を定宿のようにしている。40そこそこで絵に描いたような学歴をもつエリートだが、一緒にいるとき時は少しのことで拗ねてしまうようなところのある男だ。

「あっ、これはなに?」

行彦は私のキャミソール姿の左腕に痣のようなものを見つけた。

「これね、キスマークみたいでしょ。どこかにぶつけたみたい。」

とりすまして私が答えると

「なんだ、この前オレが付けたのかと思ったよ。」

前回から十日以上経っているし、行彦はキスマークなん
てマズイ物付けたりしないのではないか?
お互い家庭を持つ物同士の暗黙了解だろうから。


おそらくこれは祐介の仕業だろう。
祐介は独身の為替ディーラー、暗黙の了解が意味するところ
を解っていない。
それとも首筋を強く吸われそうになって静止したので、腕に
印を残しておきたかったのか。
いずれにせよ無責任な気ままな衝動だろう。

行彦と関係を持つようになって、半年以上。何故付ける筈もないキスマークを自分と思ったのか、私にはわからなかった。前に一度背中を強く噛んで欲しいと頼んだことがあるからか。なにか、行彦の私に対しての無関心さが露呈したように思えた。