土曜日の夜7時ごろ

テレビのチャンネルを替えたら

Eテレで 『ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民』

という番組をやっていた


ピダハンは ブラジルのアマゾン川流域の密林に住む400人ほどの少数民族

アマゾン川の支流に広がる4つの村で生活していて

300年前 金を求めてやってきたポルトガル人と出会っただけで

長い間 外部との接触をせず 定住の家や耕作地を持たない暮らしは

何世紀もの間ほとんど変わることがなかった



しかし 1950年代に麻疹が流行し アメリカの伝道師を迎え入れることになる

その伝道師の一人がダニエル・エヴェレット

ダニエルは 1977年 25歳の時に妻と子供二人を連れてピダハンを訪れ

30年にわたって 断続的に一緒に暮らしたりしています


ピダハンは ピダハン語を話し

ピダハン語が話せる外国人は 

ダニエルと 彼の別れた妻と 前任の伝道師の3人だけ



ピダハンは 今だけを ありのままに受け入れ

常にリラックスした状態で 幸せを感じながら生活をしています


と ナレーターが言ってるのを聞いて


まさに 今を生きている人たちだ!と

とても興味が持てたので 腰を落ち着けて

真剣に見ることにしました



面白いと思ったのは

ダニエルは 最初 キリスト教の伝道師でしたが

伝導の難しさを感じます


伝導するためには 「あなたは 間違っている」が前提で

相手が困っていないと 神を信じさせることはできない


ピダハンは 「神を知らない だから 神はいらない」と言います


今を生きるということは

過去に後悔がなく 未来に不安や心配がありません



家もなければ

夜 眠ることもなく

お腹が空けば 魚は川にいることを知っているので蓄える必要もない


今が幸せなので 外の世界に興味を持つこともない



私は 今ここにしか パワー(エネルギー)がないことを知識では知っていて 

そういう生き方をしたいと思っているけど

いつの間にか 過去や未来に意識は飛んでいて

今ここに 居続けることは なかなかできないでいる


なので 今を生きるとは どういうことなのか?と

余計に ピダハンの暮らしに興味を持ったのです


今に生きる ヒントがあるのではないか?と思ったのです



ピダハン語には 色を表す言葉がない

過去や未来の時制を表す言葉もない

そして 数字を表す言葉もない


反対に 自然については 並外れた知識をもっていて

周囲に生息する何千種もの動植物について 

それが何で どのように暮らし どこで見つかるかまで知っている


ピダハンの人たちは ひたすら現在に生き

その時に必要なことをします


過去の後悔と 将来の不安から 解放されると

多くの人は 幸福を感じることができます


常のリラックスして 幸せで満ち足りたピダハンの人々に

神のメッセージを伝えることは 無意味でした


ダニエルは 25年にわたって 布教活動をしましたが

たった一人のピダハンも キリスト教に導くことはできませんでした


それどころか 反対に ダニエルの方が

満ち足りたピダハンの人々に影響を受け

信仰を捨てる決断をしたのです


この劇的な変化は ダニエルの家族を崩壊させ

伝導活動を捨て ピダハン語の文法には 

他の言語とは根本的に違う何かがあるのではないか?

と 語学学者としての仕事に没頭するようになります 



ダニエルの論文発表は 現代言語学の権威に挑むものでした


ピダハン語には すべての言語にあるとされるリカージョンという 

文法上の法則がないというものでした


リカージョンとは 文章を際限なく伸ばしていく法則のことです


たとえば 「ビルがメアリーに会った」という文が

「ビルがメアリーに会ったと ジョンが言った」となり さらに

「ビルがメアリーに会ったと ジョンが言ったと ピーターが言った」という風に

ひとつの文章を永遠に伸ばしていくことができる文法のことです


これまでは リカージョンは あらゆる言語に存在するというのが定説でした



ピダハン語には 「~と~」「~または~」のような

接続語がありません


言語に複雑な構造がないのです


番組では リカージョンがないとしたら 言語学での大問題なので

検証するための調査隊が ピダハンの村に遠征する準備を進めていましたが

許可が下りなかったことを伝え


他の方法で 検証している場面を伝えていましたが

それでも 十分ではなく 未解決のままでした


そして2年後 撮影班がピダハンの村を訪れた時には

ブラジル政府が定住するための家を建て 電気が通り

診療所や学校が出来ていました




ピダハンの人たちは 自分たちの言葉を『真っ直ぐな頭』

と 言っていました


今を表現するのに 複雑な文法は必要なかったのでしょう


数も 数字で数える必要はなく

 「少ない」「少し多い」「たくさん」などで 十分伝えられたのでしょう


会話はいつも 目の前の人に

今の自分を伝えるだけで十分だったのでしょう


過去や未来など 今以外の時間を言い表す必要もなく

自分と相手以外の どこか 遠く離れた誰かのことを

話す必要なんて なかったのかもしれません


数える言葉がないので 自分の子供が何人かを知らない

でも それぞれの顔と名前が一致しているだけで十分なのだそうです



たしかに これらは 今だけを生きているなら

必要ない言葉なのかもしれません


数なんて 見れば 一目瞭然だし

もし 数を数えて伝える必要があるとしたら 

見えないものを 大きく見せるために必要だったりして・・・


だとしたら それは 見栄やプライドで

自分を等身大より大きく見せる必要がある時だろう


見栄やプライドの根底には 

今のこのままの自分じゃダメ!という否定があり


そんな状態では 到底 リラックスした状態で

今だけに集中して 生きることなんて無理だろう



数や 過去や未来のことを

持ち出したくなった時は

もう すでに 今に生きてないってことかもしれない



寝ないというのも

この部分を 番組で掘り下げることはなかったので

もしかしたら 私の 聞き間違いかもしれないけど

もし 本当だったら

寝る習慣がないということは すごい事じゃないだろうか?


今をリラックスして生きていたら

どこも疲れることがなく 休んだり 寝る必要もないのかもしれない


寝なければならない!という観念があるから

人は 寝るのが当たり前と思い込んでいる


だけど 観念がなくなって

「寝なくてもいいんだ~ 寝てもいいし 寝なくてもいいんだ~」と完全に思い込めれば

人は 寝なくてもよくなるのかもしれないなぁ




一番 不思議だったのは

色を表す言葉がないこと


周りの自然や動植物には みんな詳しいと言っていたのに

色は それほど重要ではないのだろうか?


今を生きることに

色の表現は必要ないということなんだろうか?



ここで 一つ 思い出すことがあった

般若心経に 「色はない」という箇所がある

これをどう解釈するか?は まだ よくわかってないけど


ピダハン語に 色を表す言葉がないというのに

もしかしたら 何か ヒントがあるかも知れない



と まあ いろいろ 考えさせられる すごい番組だった