昨日はオリンピックの開会式でした。
生でテレビで観る気にはなれず、今日になって何となくニュースで内容を知りました。
自国開催なのに、どこか他人事な自分。少し寂しい気もします。全部コロナのせいなのかな?
選手の方や、関わっておられる方は困難なこともあると思うけど、良かったと思えるように無事に終わるといいなと思います。
今回、いろいろ話題に事欠かないオリンピックですが、そんな中で私が感じたのは、
「オリンピックって地の時代のものだったんだな」
ということ。今までは特に深く考えたことはなかったけれど、そんなことを感じました。
今後は大きく形態も変わってくるかもしれませんね。
「多様性と調和」なんていかにも風の時代っぽいことを言われていますが、多様性って言うほど簡単なものじゃない気がして、聞く度にどこか違和感を感じてしまう。
多様性を認める
多様性を受け入れる
多様性を理解する
とか言いますが、
認めない多様性
受け入れない多様性
理解しない多様性
は、認められないの?受け入れられないの?理解されないの?
という疑問が湧いてくる。
だからといって差別やいじめなどを肯定はしないし、そういう意味合いで言われているのは理解するし否定もしない。
でも、多様性って語れば語るほど、何かを排除してる感を感じてしまって
きっと本当の意味で理解していたら、
認めるとか、
受け入れるとか、
理解するとか、
そういうことは気にならなくて、どっちでもいいと思うんだよね。
だれに認められなくてもいいし、全部を受け入れる必要もないし、理解してもしなくても、人それぞれで。
大事なのは、やっぱり自分の感情・感覚を大切にすること。それに自信が持てるようになれば、他人の感情・感覚も大切に尊重できるようになるんじゃないかと。
自分が理解されないこともある、ということを受け入れてはじめて、理解出来ないと思う他人のことも受け入れられると思うのです。
多様性ってそういうことなんじゃないかと、今の私は思っています。
あと、多様性という時に決まってジェンダーや人種、国籍など、何かの枠にはめて語られる傾向があるような気がして、それ自体にもちょっと違和感だったりする。
語れば語るほど、矛盾が生じるような。
つまり、今、私がこうして書いてることにも矛盾が生じてることになるんですけどね
周りの環境や他人に依存せず、自分で自分の世界を創造すること。一人一人がそこに専念出来ることが多様性ということなのだと思うのです。