夜明けの静寂、

 

鵠沼の海岸。


深い青のグラデーションは休みなく変化し続けている。

それは、始まりもなく、終わりもないような変化、

まるで静止画のようだが、確実に変化している。


その大いなる流れは、

人だけでなく、生命体のすべてに、あるいは生命体でないものにも、その変化の印を刻み込んでゆく。



波はおだやか、風もほとんどない。

人もわずか。


砂浜に座り、耳を澄ます。


聞こえてくるのは、波の音、風の音、鳥の声。

ときどき、道路からの音、

ときどき、人の声、

ときどき、犬の声、

ときどき、砂浜を歩く音。


たまに、汽笛。



穴を掘ってみる。

足を使って。

どのぐらい掘れるのだろう。

夢中になって穴を掘る。

掘る。

掘る。


足だけでも結構な大きさの穴ができた。

穴に両足を入れると、ちょうど、椅子に座っているような格好になった。



ふと、目を上げると、海と空との境界線がはっきりしていない。

空の青と海の青、全くちがった青のはずなのに。


海が空に吸い込まれているような、

空が海に溶け込んでいるような、

奇妙な感覚。




耳を澄ます。


聞こえてくるのは、波の音、風の音、鳥の声。

道路からの幾種類もの合奏音、

いろいろな人のさまざまな声、

あちらこちらから犬の声、

砂浜を歩く音のアンサンブル、

それに、いろいろな種類の音楽たち。


たまに、汽笛。



日差しと太陽の位置が、もう夜明けでないことを証明してくれる。

いつの間にか、「鵠沼の海」は、「湘南の海」になっていた。

活気あふれたレジャーとしての海、リゾートとしての海に。



すべては変化し続けている。

変化の印はすべての存在に刻み込まれて続けている。

どのような印を刻み込んでいくかは、

自分で自由に選ぶことができる。


だから、自分で選ぶ。

 

 


ボクにとっての「鵠沼の海」は早朝限定の空間で、その時間帯にこの場に佇むと、この地を愛したかつての文豪たちが鵠沼で得たインスピレーションを追体験できそうな感覚になります。

 

海をテーマにした楽曲は少なくないけれど、この「鵠沼の海」から感じられる音楽は海にまつわる楽曲ではありませんでした。

 

 

フェデリコ・モンポウ Federico Mompou (1893-1987)
『ひそかな音楽 Música callada』 

 


全4巻、28曲からなるこの曲集は不思議に満ちた音楽で綴られています。多くは文字通りひっそりとした曲で、主張が少ない音楽と思いきや、いつの間にかぐいぐいと引き込まれて、その美しさに圧倒されてしまいます。非日常的静寂空間でささやくような音量で聴きたい音楽ですが、時にはじっくりと聴き込んで、その深遠な世界を堪能したい曲でもあります。



--- 南国の白砂の海もすてきだけれど、「鵠沼の海」も大好きです!
--- モンポウの『ひそかな音楽 Música callada』第4巻を聴きながら

 

 

 


*この『Música callada』は日本語では「沈黙の音楽」とか「ひそやかな音楽」とか訳されていますが、作曲者自身によれば「"música callada"の真の意味をスペイン語以外で表現したり説明しようとするのは困難」なのだそうです。ボク自身、スペイン語は全く無知なものですから、何とも致しがたいのですが、「ひそやかな音楽」という日本語訳に少々違和感があります。だからといって、『「空(くう)」の音楽』、『無の音楽』、『静寂の音楽』・・・、う~ん、なんかピンと来ませんねぇ~。 まあ、一般的には「ひそやかな音楽」で決まり!みたいになっていて、一人歩きしているような感じですが・・・。