1月19日(木)11時30分から神戸地裁尼崎支部で開かれた第3回口頭弁論

今村岳司西宮市長から提訴された「シティハイツ西宮北口」入居者7世帯10人の一人、一木賢勝さんの意見陳述が行われました。以下紹介します。

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私は、昭和7年7月9日生まれで、84歳になります。

シティハイツ西宮北口には、平成7年10月20日に、私が63歳のときに入居しました。

このとき、入居許可証には、20年の借上期間が過ぎたら、明渡ししなければならないと書かれていませんでした。

平成7年1月の震災までは、西宮市松生町で、賃貸アパートの1階に住んでいました。

平成7年1月17日の震災で、住んでいたアパートが1階部分が崩れ、2階部分が落ちており全壊の状態でした。震災が起こったときは、6時間くらい家の中で左腕を下にして横向きのまま、身動きのできない状態で、閉じ込められており、その時右腕が圧迫され、骨折し、1年間右腕が不自由な状態で暮らしました。

私は、生き残ることができ、運がよかったんだと今は思います。

その後、救助された私は、夙川小学校で平成7年2月まで生活し、その後、深谷公園内の仮設住宅に10月ごろまで生活していました。

平成7年10月にようやくシティハイツに当選し、入居することが決まりました。抽選の倍率が高かったこと、特に私は、その頃60歳を超えていたことから民間アパートを借りるのが難しかったことがあり、当選を知った時は、とても嬉しかったと記憶しています。

私は、平成7年10月20日から入居しました。入居をしたことで、一生住むところは心配しなくていいと思い、安心しました。避難所、仮設住宅と転々としてきましたので、このときは、本当に終の棲家が見つかったと思い、ほっとしました。

私は、平成9年、20年に市からシティハイツの共用部分の管理を任されている運営委員会の会長となり、16年のも委員になりました。

シティハイツは、急いで建築したためか、あちらこちらで部屋の中、又は共用部分に不具合があり、運営委員会の役員たちで、補修したりしていました。また、床の振動がひどく住民たちのなかでのトラブルもよくありましたが、みんなで話し合って解決してきたのでお互いをよく知っています。インターホンの修理などはさすがに自分たちではできず、市の住宅課に連絡をとり、業者と交渉する際に、市の住宅課に仲介・援助してもらいました。

私は、運営委員会の会長や委員を多くやっていたので、青木町のみならず平木小学校区の他の町の自治会の方とも交流する機会に恵まれました。

シティハイツに入居した時に、20年の期間制限があると言われていれば、それを前提として、今後の人生を考えていたと思います。また、10年ほど若ければ、転居した先で環境に慣れることもできたかもしれません。

84歳を過ぎて、突然出て行ってほしいと言われても、今さら新しい場所でこのような関係を作るのは無理です。近所の人たちとの助け合いなく生活していくことはできません。

 

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第4回口頭弁論は3月2日(木)11時、神戸地裁尼崎支部で開廷されます。

第5回の期日も決まりました。4月19日(水)11時30分開廷です。