The best is yet to come.

お楽しみはこれからだよ。




フランク・シナトラの墓碑銘。

 

フランク・シナトラは世界一有名な歌手の一人でしょう。

 

彼は生涯にわたってヒット曲を連発しただけでなく、俳優としてもアカデミー賞を受賞するなど、多才な人物でもありました。

 

しかし、シナトラの人生には1940年代後半から一時人気が低迷するという、苦難の時期がありました。

 

シナトラは『地上より永遠に』という映画で、アカデミー賞助演男優賞を受賞して奇跡的な復活を果たすのですが、この裏にはマフィアの影がありました。

 

実はシナトラはその生涯にわたり、イタリア系マフィアとの黒い噂が絶えなかったのですが、当時人気が低迷していたシナトラが、『地上より永遠に』の脇役に抜擢されたのは、「育ての親」であるマフィアの大物のサム・ジアンカーナが裏で動いたからでした。

 

このエピソードは映画『ゴッドファーザー』で取り上げられ、有名になりました。

 

もう一つのシナトラに関する黒い噂は、ケネディ大統領とのことです。

 

シナトラはジョンやジョンの弟のロバートやエドワードなどのケネディ兄弟と親しい関係を結んでいました。

 

シナトラは「ケネディの広報マシン」と呼ばれたほどで、1960年の大統領選挙にジョンが出馬した際には、ローフォードやサミー・デイヴィスJr.などとともに、カリフォルニア州やネバダ州で行われた選挙資金調達パーティーに出演するなど、ジョンの予備選勝利に向けて協力を行っていました。

 

実はマリリン・モンローをジ ョンに紹介したのもシナトラでした。

 

しかしケネディ兄弟、特にジョンがマフィアと関係の深いシナトラと深い関係を築いていることが、マスコミなどで問題視され、ケネディ政権の司法長官となったロバートがジョンとシナトラの関係を終結させるように画策し、シナトラとケネディ兄弟との関係は悪化しました。

 

さらに、マフィアの協力で大統領に当選したことが表ざたになることを恐れた司法長官となったロバートが、事実のもみ消しのために「マフィアを徹底的に取り締まる」と発表したため、とシナトラは徐々に反ケネディに傾いて行き、最終的にシナトラは、1968年の大統領選挙でロバートのライバルとなることが予想された共和党のリチャード・ニクソンと密接な関係を結ぶまでになりました。

 

この事が 「ケネディ大統領暗殺の際にシナトラが何らかの役割を果たしたのではないか」、「ケネディ兄弟の暗殺はこの裏切りに対する報復であっただろう」という噂を生みました。

 

とはいえ、流石にこれは噂にしか過ぎないでしょう。

 

シナトラはモンローやローレン・バコール、キム・ノヴァク、シャーリー・マクレーン、ナタリー・ウッドなど多くの女優と浮名を流したほか、同じく女優のエヴァ・ガードナーやミア・ファローなどと計4回結婚するなど、生涯を通じてプレイボーイとして名を馳せました。

 

エンターテイナーとして最高の栄誉を手にした上に、恋愛においても奔放な人生を送れたことは彼にとって幸せだったのではないでしょうか。

 

彼の音楽については、ルイ・アームストロングやアントニオ・カルロス・ ジョビン、セリーヌ・ディオンやビング・クロスビーなどの音楽界との大物との競演、競作も数多く、ヒットした曲の多くがスタンダートとして、多くのアーティストにカバーされるなど現在の音楽にも大きな影響を与えています。上記の墓碑銘はシナトラの代表曲の一つです。

 

 

 

 

〇プロフィール

 

フランシス・アルバート・"フランク"・シナトラ(Francis Albert "Frank" Sinatra、1915年12月12日 - 1998年5月14日)は、アメリカのジャズ・ポピュラー歌手。現在も歌い継がれる数々の世界的大ヒット曲を世に送り出し、その卓越した歌唱力によって「ザ・ヴォイス」と称された。エルヴィス・プレスリーやマイケル・ジャクソンなどと並び、20世紀を代表する歌手の一人である。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第3位にランキングされた。第二次世界大戦前の1930年代より死去する1990年代までの長きに渡り現役の歌手として活動し、数々のミリオンセラーを連発し、また多くのミュージシャンに影響を与えた。映画俳優としても活躍し、1953年には第26回アカデミー賞助演男優賞を受賞している他、数多くの名作、ヒット作に出演している。しかし、デビュー期からイタリア系マフィアとの深い 関係が度々取りざたされており、またマフィアを介してジョン・F・ケネディ大統領と親密な交友関係を持ち、ケネディの大統領当選に貢献したものの、後に仲たがいしたことから、同大統領の暗殺に関与したと噂されたこともある。1915年、ニューヨーク市近郊のニュージャージー州ホーボーケンでイタリア系アメリカ人の家庭に生まれる。1930年代初頭、当時ラジオで人気を得ていたビング・クロスビーの歌声に憧れて歌手を志す。1935年、20歳の時に地元のイタリア人ボーカルトリオ「ザ・スリー・フラッシズ」に参加、「ホーボーケン・フォア」としてラジオ出演・全米巡業(ただし他のグループ・コメディアンも一緒の一座であり店頭などで歌った)などを行い後に脱退した。なお、この頃よりイタリア系マフィ アとの関係が深かったといわれている。その後バーのラウンジで歌っていたところを見出され、1939年には当時大衆的な人気が高かったトランペッター、ハリー・ジェイムスの楽団「ミュージック・メイカーズ」の専属歌手としてプロデビューする。その歌唱スタイルはクロスビーの影響下にあるクルーナースタイルであった。1940年には、やはり人気のあったトロンボーン奏者トミー・ドーシーオーケストラに引き抜かれ移籍して大活躍、10代の女性を中心にシナトラへの人気を決定的なものとした。音楽的に、リーダーのトミー・ドーシーによる滑らかなトロンボーン・プレイを研究し、自らの歌い回しに取り込み、また、世界で最初にマイクロフォンをマイクスタンドから取り外して歌うなど、マイクロフォンの特 性を熟知し、自らの楽器とした巧みな歌唱テクニックは、既にこの頃から発揮されていた。1941年12月の日本との間の開戦をきっかけにアメリカも参戦した第二次世界大戦では、国民が兵士として徴兵され、また兵役を自ら志願もした。しかし、シナトラ自身は出生時、難産であり鉗子のため鼓膜が破れており兵役不合格となった。その為、AFRS(American Forces Radio Service = アメリカ軍ラジオサービス)や慰問部隊の歌手の1人として、アメリカ全土の基地やヨーロッパ各地を回ると同時に、レコードのリリースや映画への出演を続けた。従って、その歌手としてのキャリアが兵役によって中断されることはなかった。アメリカ全土から若者が戦場に赴いたこの時代、若々しい歌声のシナトラは若い女性たちの代替的恋人とも言うべき存在で、「ボビーソクサー(女学生たち)のアイドル」としてその人気は凄まじいものがあった。劇場での公演では、観客の女性に、興奮のあまり気絶し失禁する者すら出たという。この頃、多くのスターを抱え、人気の絶頂を誇っていたメトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) のミュージカル映画にも(演技はさして巧くないものの)多数主演し、後にスタンダード・ナンバーとして記憶される曲を多く歌っている。しかしその反動か、第二次世界大戦終戦後の1940年代後半から一時人気が低迷し、1950年には喉の疾患で一時声が出なくなりスランプに陥った。とうとう所属している映画会社のMGM、レコード会社のコロムビアのいずれからも見放されてしまう。そのまま「過去の存在」となるかと思われたが、1953年にはフレッド・ジンネマン監督の第二次世界大戦前夜のアメリカ軍兵士を描いた文芸映画『地上より永遠に』の脇役であるイタリア系アメリカ人兵士「マッジオ」役が転機となった。これまで主役級を演じてきたシナトラにとって脇役の演技は格落ちであったにも関わらず、この役 にほれ込み相当の運動をおこなった。明るく陽気で、周囲から仲間はずれにされて虐げられる主人公にいつまでも味方をしたことが仇となり、軍隊内の虐待で惨めに死んで行く兵士を演じ、アカデミー賞助演男優賞を獲得、奇跡的なカムバックを成し遂げる。なお、この役に採用されるまでのエピソードがマフィアを描いた映画「ゴッドファーザー」で取り上げられている。相前後して1940年代から契約していたコロムビア・レコードに代わり、当時は新興レーベルだったポピュラー音楽界の有名レーベルであるキャピトル・レコードと1952年に専属契約。歌手としてのキャリアを積んだ結果、円熟の度を重ねた歌唱を発揮し、コロムビア・レコード時代の盟友アクセル・ストーダールとのコンビを解消、新たにネルソ ン・リドルやビリー・メイ、ゴードン・ジェンキンズなどの優れた編曲家が指揮するオーケストラをバックに、スタンダード曲や、座付き作者とも言うべき作曲家ジミー・ヴァン・ヒューゼンと作詞家サミー・カーンらによる新曲を多数録音した。こうして1950年代後半にキャピトルから多数送り出されたアルバムは、ジャズ的センスに富んだ質の高いものばかりで、シナトラの最盛期をこの時代とする批評家は多い。またシナトラ+リドルの、シンガーとアレンジャーのコンビネーションは、アメリカのポピュラー音楽史上最高と言われている。なお、この頃ビル・ヘイリーやエルヴィス・プレスリーなどの出現によりロックンロールの人気が高まったが、シナトラのかつての主なファン層である10代を中心に人気を 獲得したロックンロールにシナトラは見向きもせず、音楽指向はそのままに音楽の質を上げ、大人になったかつてのファン層を手放さないことで高い人気を維持し続けた。1960年代に入ってからは、個人レーベルとして「リプリーズ・レコード」を設立、後半は全盛期のキャピトル時代に比してやや水準は劣るものの、良質なアルバムを多数送り出している。1962年にはワールド・ツアーで初来日し東京でコンサートを行っており、これ以降数度に渡り来日公演を行っている。なお1963年には、歌手となった長男のフランクJr.が誘拐され、240,000ドルを要求されたものの2日後に解放されるという事件が起きた。また、映画俳優としての活動も活発に行っていたが、この頃は「演技派俳優」としてその演技が以前にも増して 高い評価を受けるようになっており、「影なき狙撃者」などが高い評価を受けたほか、1965年には初の監督作品として「勇者のみ」の監督及び出演を行っている。1966年、「夜のストレンジャー」がグラミー賞を獲得しシナトラ健在を世界中に示した。1969年にはフランスの歌手クロード・フランソワの楽曲「Comme d' habitude(コム・ダビテュード / いつものように)」にポール・アンカが英語詞を付けたナンバー「マイ・ウェイ」をヒットさせ124週に渡りシングルチャートに、51週に渡りアルバムチャートにとどまる大ヒットとなった(これは通俗的に流行したことで日本でもよく知られており、シナトラ=「マイ・ウェイ」のイメージが強い)。以降この曲は「ニューヨーク・ニューヨーク」「夜のストレンジャー」に並ぶシナトラの代表曲となった。1971年には一時引退を表明したものの、1973年にはアルバム「Ol' Blue Eyes Is Back」と共に再び歌手業に復帰、以後晩年まで活躍を続けた。1976年には、ゼッポ・マルクスの前妻のバーバラ・マルクスと結婚し、その後添い遂げることになる。1980年代は映画への出演こそ減ったものの、アルバムのリリースや、ラスベガスやマディソン・スクエア・ガーデンなどをはじめとする全米各地や日本やイギリス、西ドイツなど諸外国でのコンサート活動を精力的に行った。また、同じイタリア系アメリカ人のリー・アイアコッカが社長に就任したクライスラーのテレビCMに娘のナンシーとともに出演した。なお、1985年にはその長年の活動が認められて、以前カリフォルニア州知事選挙の支援活動を行ったことのあるロナルド・レーガンより大統領自由勲章を授与された。1990年に最後の世界ツアーを行い 、この際にニューヨーク線を開設する日本の航空会社、全日空のテレビCMに出演した。1991年には横浜アリーナ公演のため最後の単独来日、1994年にはナタリー・コールとのジョイント公演を福岡だけで行った。1993年には、ロックンロール界の大御所であるU2のボノや、スペイン人スター歌手のフリオ・イグレシアス、またR&B界の大御所であるスティーヴィー・ワンダーやルーサー・ヴァンドロスといった各国のスーパースターとの競演アルバム『Duets』2作をリリースし、高い評価を受けると共に最後の世界的ヒットとなった。しかしこの年に心臓発作で入院し、その後回復に万全を期すために活動を縮小していったものの、度々マスコミの前に姿を見せた。1997年2月に再度心臓発作を起こした後は一般及びマスコミの 前に姿を見せることはなくなり、自宅での治療に専念した。しかし1998年5月14日にビバリー・ヒルズの自宅で心臓発作を起こしウェスト・ハリウッドのセダース・サイナイ・メディカル・センターに運ばれ、そのまま回復することなく永眠した。シナトラの死は世界各国で大きな衝撃を持って受け止められ、ビル・クリントン大統領がシナトラの死を悼むメッセージを述べたほか、エルトン・ジョンなど世界各国のアーティストがその死を悼むメッセージを発表した。またニューヨークのエンパイア・ステート・ビルディングが弔意を示すために(シナトラの瞳と同じ)青い照明に変えられたほか、ラスベガスのストリップの全ての照明が同じく弔意を示すために10分間完全に消灯された。1998年5月20日にビバリー・ヒル ズのカトリック教会で行われた葬儀には、グレゴリー・ペック、トニー・ベネット、ボブ・ディラン、ライザ・ミネリ、トニー・カーチス、ジル・セント・ジョン、ジャック・ニコルソン、ソフィア・ローレン、カーク・ダグラス、ロバート・ワグナー、ミア・ファロー、ナンシー・レーガンなど各界から多数が参列しその死を悼んだ。